音楽ミニストリーの設立に至るまで

工 藤 篤 子

1.救いと弟子訓練(1984-1987)

私が初めて聖書のみことばを聞いたのは、17歳の時でした。音大を志すようになった私は、受験講座と間違って録音した福音放送で、「主は生きておられます。」という言葉を聞いたのです。心がすさんでどうしようもなく、陰ではものを盗んだり、うそをついていたりしていた私に、このことばは何か一条の光のように感じられ、それから聖書を買って読むようになりました。音大卒業後、1983年にスペインに留学しましたが、聖書を読み続けていた私は、滅びの恐怖に襲われるようになっていました。そして救いを求めて祈っていた時、アメリカ人宣教師アンデルード夫妻に出会ったのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちへのご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

このみことばを宣教師に示された時、イエス様がこの私の罪の身代わりとなって死んでくださったことが分かり、これからは、私に命を与えてくださったイエス様のために生きたいと決心したのでした。この日から、10年来読んできてどうしても分からなかった聖書が、目からうろこが落ちるように分かってゆきました。

その後、弟子訓練を目標としていたアンデルード夫妻のもとで訓練を受けました。87年に、ご夫妻が宣教地をドイツに移すにあたって、同労者として一緒に来てもらえないかとの誘いを受けました。しかし、それまで両親の仕送りで音楽の勉強をしていた私でしたから、経済的にどのようにドイツで生活してゆけばよいのか分かりませんでした。またその頃、腎盂炎になったために、疲れるとよく微熱が続くような健康状態でしたし、ドイツ語もできませんでした。しかし祈り続ける中で、みことばが与えられました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:13,19)

この二つのみことばを信じて、同行を決心しました。

 

2.ドイツでの宣教(1987-1993)

1987年夏、ピリピ書のみことばをにぎりしめ、歌を捨ててドイツのハンブルクに宣教に向かいました、しかし、あちらでは、週一度の掃除婦と、やはり週一度のベビー・シッター以外には仕事は見つかりませんでした。生活費が底をついたとき、スペインの友人がスペインでコンクールを受けるように勧めてくれました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、私の生活状況を知って、旅費とコンクールの申込金を彼女が支払い、私がスペインでコンクールを受けられるように取り計らってくれたのでした。そして私は二つのコンクールで一位と二位を受賞し、その賞金を持ってドイツでの生活を続けることができました。けれども、ドイツでは、相変わらず掃除婦とベビー・シッターの仕事以外には仕事が見つかりません。コンクールの賞金も数ヶ月で尽きてしましました。また、定職がないので、ビザが取得できず、従って賃貸契約をすることができなかったため、信仰の友であるアメリカ人のマーシーのアパートに住まわせてもらいました。私の健康状態があまりすぐれないことを知っていた彼女は、自分のベットに私を寝させてくれ、彼女は空気マットで寝ました。英会話教室ですぐに働けるようになったマーシーは、数ヶ月間、そのように私を支えてくれました。そのような中で、私たちの伝道は進んでゆきました。マーシーと私は、昼、よく大学の学生食堂で落ち合って食事をしました。そこで変なアメリカ人と変な日本人がスペイン語で話しているのを聞きつけたスペイン語学生たちが近寄ってきました。そして彼らとコンタクトができ始めました。そのうち、その人たちの何人かとスペイン語で聖書の学びが始まりました。そして救われる人が少しずつ起こされてきました。ですから、最初教会の集会に集まって来た人たちは、ほとんどスペイン語が話せる人たちばかりでした。実は、マーシーと私は、大学のキャンパスで、ここで伝道させてください、と一緒に祈ってから、昼、学食で食事をしていたのです。主は私たちに祈りに着実に答えてくださいました。そして、私たちのドイツ語がある程度上達するまで、主は、スペイン語が分かる人々を教会に集めてくださいました。

個人的には、いつまでたっても仕事が見つからないという状態が続きました。ところが、スペインでコンクールに受かったことがきっかけで、スペインからコンサートの話が来るようになりました。ビザなしては、ドイツには3ヶ月しか滞在することができないのですが、ちょうど2〜3ヶ月ごとに、スペイン、そしてイタリア、フランスなどからもコンサートの仕事が入るようになりました。ある日、気が付いたら、歌手Atsuko Kudoと言われるようになっていました。そのような生活が1993年まで、6年続きました。

3.不従順と悔い改め(1989−1990)

スペインで歌い、ドイツに戻って宣教活動をする生活を続けて2年経ったとき、私はあまりにも疲れ果てて、神のみこころが見えなくなってしまった時期がありました。そして、私の名声がスペインで高まってゆくにつれ、一体、私は歌手なのか、宣教師なのか分からなくなってしまったのです。一番の原因は、生活苦を続ける中で、神の救いを宣べ伝えるのではなく、スペインでコンサートのギャラを稼ぐことが、第一の目的になってしまったことです。イエス様に信頼してイエス様のために歩むことからずれてしまった私は、頼まれたコンサートは全部受けるようになりました。そのため、コンサートの準備で精一杯で、ドイツでの宣教活動の時間が取れなくなり、しまいには疲れ果て、1990年1月、私は入院してしまったのです。このとき、私は初めて、主に不従順に歩んできた自分に気付かされ、入院中毎日涙を流して、主に悔い改めの祈りを捧げました。

退院後、すべてのコンサートをキャンセルして、一年間、神様との交わりの時を持つことにしました。そこで示されたのが、私の内にあるにがにがしい思いでした。私は、自分をこんなに大変な状況に置いた神様と、ドイツへ一緒に来て欲しいと頼んだ宣教師夫妻を、気づかないところで、徐々に恨むようになっていたのでした。私の神への不従順は、私が歌手になり、名声と誘惑の多い状況から直接来たのではなく、もともと、私の心にあった苦い根が、少しずつ根を張っていった結果だったことを悟りました。私は、肉の思いの一つ一つを、主に告白してゆきました。告白し始めたら、主の光がさらに心の汚い部分に当てられ、気が付かなかった罪がもっと見えてくるのです・・・その祈りは5〜6ヶ月続いたかと思います。その間、ガラテヤ、エペソ、コロサイ書を何度も繰り返し読みました。読むたびに心に浸みました。あの頃、一日、4〜5時間は、みことばと祈りの時を持っていたのではないかと思います。

「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(ルカ16:10)とあるように、小さい不従順な思いをないがしろにしてしまったがために、それが積もりに積もって大きな罪に陥ってしまったことを悟りました。小さな事に忠実でなかった私は、この年、主の大きな仕事はできなくなっていました。悔い改めの日々が何ヶ月も続いた後、ある日、赦された喜びが心を満たすようになりました。イエス様は、救われてもなおも、ペテロのように主にそむく、このどうしようもない私のために死んでくださったのだと思うと、感謝の涙があふれて仕方がありませんでした。ですから、「われは思う、みたびもいつたびもそむきし罪人をもなお受けたもう」という歌詞を歌うとき、この罪人は、まさしく私のことなのだと思います。

心が砕かれてくると、教会の中では、自分が一番小さな姉妹なのだと心から思いました。だから、皆のために仕えたい、私にできることをさせてもらいたい、と初めて心からへりくだって思えるようになりました。私の奉仕の姿勢はこの時から変わりました。以来、私の悔い改めは今もなお続いています。私は、幸いな人生の原点は、日々の悔い改めと感謝にあると、今確信を持って言うことができます。

「神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」
(詩篇139:23,24)

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何ひとつ忘れるな」

(詩篇103:2)

4.伝道師(1993-2000)

1993年、開拓教会の伝道師に任命されました。月給7万円でしたが、私にとっては、ドイツへ来てからやっと安定した生活を得られるようになりました。コンサート活動は、練習も含めて年間6週間の休暇の時のみとなりましたが、それでも不思議とスペインからのコンサート依頼は毎年途絶えることなく続き、そして今もなお続いています。

  ただ、1995年だけは、コンサート依頼が全くありませんでした、同時に私の伝道師としての仕事があまりにも忙しくなっていたので、その時は、主は私を歌以外の道で用いようとなさっているのだと思いました。

5.リュウマチ(1997)

しかし、1997年1月に多発性関節炎リュウマチが発生し、体中の間接が炎症を起こして、手足は膨らみ、ほとんど動けなくなりました。この時には、私の伝道師としての奉仕さえ断念しなければなりませんでした。全く無力状態でした。それどころか、教会の兄弟姉妹の手助けがなければ何もできませんでした。けれども、この時、主が今私に求めていらっしゃるのは、主のために一生懸命働くことではなく、今の状況を素直に受け入れて、主のみそばにいられることを喜んで生きることであると悟りました。to do の生活から、to beの生活に入り、初めて全ての重荷を下して、主のもとで真に安らげるようになったのだと思います。

そうすると、炎症で寝られないほどの痛みが襲うときですら、賛美が口からついて出るようになりました。詩篇22編は、イエス様の受難を預言した詩篇ですが、イエス様は十字架の苦しみの中で、主を賛美していたことがここに書かれています。私は、リュウマチの苦しみの中で、初めて、主をほめたたえることはその人がどのような状況におかれても可能なのだ、いや、肉体が苦しみを受けることによって、主の十字架と一体となり、そこから主への賛美がほとばしり出ることがあることを経験しました。不思議なのですが、医者から不治と言われたリュウマチが、その年の夏から少しずつ回復してゆきました。そして、再び教会の奉仕ができるようになりました。

その年の秋、ハンブルクで賛美コンサートをしました。もう二度と歌えないと思っていたのが、不思議にも声が出たのです。そして、このコンサートを通して、救われた人が出たのです。その人は若いドイツ人学生でした。彼のほかにも、コンサートの後、目にいっぱい涙をためて、たくさんの年齢層の人々が話しかけてきました。このとき、私自身ではなく、主が私の賛美を通して働かれたことを明確に悟りました。それから、ドイツのあちこちの伝道大会での賛美に招かれるようになりました。私がリュウマチを通して、主のみ前に砕かれた後に捧げる賛美は、確かに違ったものになっていました。主への感謝と賛美が、真に心から湧き上がるようになったのです。

1998年に、「主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御使いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の中で語り継げよ。その奇しいわざを、すべての国々の中で」(詩篇96:2,3)の箇所を読んだ時、これこそ私のしたいことだと思いました。そして、その願いが本当に主のみこころであるならば、讃美を通して、もっと日本の人々にも、そして世界の国々で、主が私に成してくださったみわざを宣べ伝えたい、と祈り始めました。

6.工藤篤子音楽ミニストリーズ設立
2000年春、思いきって教会の伝道師職をやめ、日本に行って、緒先生たちに私のビジョンについて相談しました。そうしたら、皆、「是非やってみてはどうですか」、と賛同してくださいました。誰がどのように協力してくださるか、全く皆目検討がつかなかったのですが、はっきりとした主の導きを確信するようになっていました。秋に、<ミッション・宣教の声>の黒田禎一郎師が、ミニストリーズの世話人代表になってくださることを申し出てくださいました。そして、大阪でいつもお世話くださっていた中川庸子さんらが世話人に加わってくださり、今の活動に至っています。

最後に、皆さんにみことばをお分かちさせていただいて、私の証を締めくくらせていただきたいと思います。

「私は言います、御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためにあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」(ガラテヤ5:16,17)。私は、1989年に主への不従順の罪に陥った時、このみことばに目覚めさせられました。今でも自分自身がしたいことができなくなった時に、自分の状態を吟味し、御霊によって歩むことへ促してくれるみことばです。

「信仰がなくては、神によろこばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」

(ヘブル11:6)。私は、クリスチャン生活の成功への鍵は、信仰であると確信しています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Iペテロ2:9)。

このみことばが、私の賛美伝道活動の原動力です。

皆様も「工藤篤子音楽ミニストリーズ」の働きのために、どうぞお祈りください。

今日は、私の証をお聞きくださり、本当にありがとうございました。

主の祝福が、皆様と共にありますように。

2003年3月