元ヤンキーの大奮戦記

野上 義久
(株式会社ワイズ・ファクトリー代表取締役)


1. ヤンキー時代だった頃
「随分ユニークな経歴をお持ちですね!」
私は大阪で出版社を経営しているクリスチャンだ。年は39才。
昨年9月から無料誌を発行している。その本が最近注目されだしたため、取材を受ける機会が増えた。経歴を聞かれ、それに答える度にそう言われるのだ。
目の前の筆記している新聞記者のノートには、次の単語が並んでいる。
“元ヤンキー”“高校2度中退”“元フランス料理コック”“クリスチャン”
脈絡がなく、つじつまが合わない。
これらの単語がどう出版社経営に結びつくのか?

17才で妻の千春と出会い、23才の時、イエスと出会った。
この二人は、同じことを私に言ってくれた。
「あなたはあなたのままでいい」
この二人はいつの時代でも、あるがままの私を受け入れてくれた。
忍耐をもって、私の成長を見守ってくれたのだ。
千春とイエスに出会わなければ、私は最低の人生を過ごしてしまったことだろう。だが今私は最高の人生を歩んでいる。

16才の夏、私の生活は最悪だった。
喧嘩と煙草で停学2回、進級できる可能性を失った高校を自主退学。
翌年、再受験して入学した高校も3日で不登校。
新しい学校にはまるで馴染めなかった。
クラスメートたちよりも1歳年上であるというコンプレックスと、以前の仲間たちがいないという寂しさからだ。
最初の高校を一緒に自主退学した仲間とドラッグに逃げた。
喧嘩、万引き、恐喝‥、いわゆる不良と呼ばれる、あらゆる悪事に手を出して行った。
ドラッグは、私の1日を1時間にした。
気がつくと、一緒にいた仲間は一人二人と私の部屋から去っていった。
みんな、現実の世界を生きるために出ていったのだ。
喫茶店に勤める者、引っ越しのバイトを始めた者。
ドラッグが創り出す妄想の世界から抜け出せずにいたのは私だけだった。

そんな生活の2度目の夏。
“怠惰”“堕落”“退廃”“自暴自棄”これらの言葉が全部その時の自分に当てはまる。
ある日、ドラッグを吸引している時に意識が遠のいていった。
薄れていく意識の中で、浮かんでは消えて行く両親の顔、兄姉の顔。そうだ、友だちも皆、離れて行ってしまった。
俺は普通じゃない、やり過ぎだ。最低の人間だ!
このままじゃ、廃人になってしまう‥‥
死への恐怖が限りなく現実に近付いたように感じたその瞬間に
「生きたい!生まれ変わりたい!」と激しく思った。
翌朝、私は求人誌を求めて部屋を出た。

どきどきした。
求人誌にあったウェイターを募集している喫茶店にその場で電話をし、面接に向かったのだ。  
初めての“予感”。
今から、俺の人生が大きく変わるぞ。
これ以後、度々経験する、人生が大きく変わる前に訪れる心臓の強い高鳴り。
予感の正体は何か?誰が私の人生を動かしたのか?この時から20年以上経た今ならわかる。

2. 千春との出会い
この喫茶店に、私の妻となる女性がいた。
面接をしてくれた責任者の質問に
「おう!」と「わかった!」で応える私を、レジで不思議そうに眺めていたのが千春だった。
彼女は当時、私より2歳上の19才。
長崎から就職で大阪へ。
ある会社に就職したが、半年で退職。
まず住む所が必要なため、即入寮できたこの喫茶店に勤めていた。
ここで私は働く喜びを学んだ。
上司は、「ほめて育てる」を実践する人で
「最初入ってきた時はどうなる事かと思ったけど…」をイントロに
その都度、私の成長を喜んでくれた。
敬語すら使えなかった未開人さながらの私だった。そんな私の成長ぶりは、職場に毎日小さな感動を供給していたのかも知れない。
職場で、千春との友情が芽生えた。

18才になる頃、彼女と同棲生活をスタートした。
間もなく結婚。19才になる直前に長女が産まれる。
この経歴を語ると「ご両親は寛大な人だ!よく反対されなかったですね?」
と当時の事情を知らない人からはよく言われる。だがうちの家族は大喜びであった。
同棲にではない。私が更正したという事実にである。
初めて両親に彼女を紹介した時、私の父は、「あなたが千春さんですか?ありがとうございます。あなたのおかげで息子が更正しました」
と言って深々と頭を下げてくれた。
早過ぎる結婚と出産を、周囲は“出来ちゃった結婚”と呼んだ。
しかし、事実は違う。
“出来ちゃった結婚”には、出産を期待、予定していなかったのにというニュアンスが含まれるが、千春は同棲当初から子供を欲しがった。
だから妊娠に気づいた時は、彼女は大喜びした。
長女が産まれて、私の仕事に対する意識は一変した。
今が良ければいいという考え方がなくなった。
子供は成長する。子供のために、3年先、5年先、10年先を予測して職場と職業を考えるようになっていった。
しかし、私の学歴は高校中退。職業の選択肢は限られていた。
“調理師、美容師、大工、左官屋、鳶職、…”
限られた選択肢の中から選んで、最高の10年後を手に入れる!
私が選んだのは調理師だった。
当時、既に調理師の仕事に就いていたが、最高峰を目指すという目標をたて、有名調理師学校に入学した。
卒業作品等で、創造性を認められ、賞をとったりしたせいか、卒業後都心にある一流ホテルに入社できた。

3. イエスとの出会い
私が22才の時に、突然、千春がクリスチャンになった。
妻が当時、頻繁に利用していたバス停の前に教会があった。
掲示板に聖書の言葉が貼ってある。
「すべて重荷を負っている者は私のもとに来なさい、私があなたがたを休ませてあげます」
修行中のコックでは生活費のすべてを稼げない私を助けるために、千春は子供2人を連れてヤクルトの配達をしたりしていた。そして子供と一緒に教会に毎日曜ごとに通うようになった。
当然、私をも教会に誘おうとする。
私は宗教に対して強い偏見を持っていた。
いわく“弱い人間に必要なもの”“世の中には無数の宗教が存在する。だが、それぞれが自分の所属する宗派こそ絶対に正しく、他を認めないという排他的でエゴイスティックなもの”という考え方だ。
妻とこの件でよく言い争いになった。
約1年間、口論が続いた。

その間妻は祈り続けた。
「神さま、夫があなたを信じ、家族全員で教会に通えますように」
そのうち、私の心の中にある疑問が沸き上がった。
“口論になれば理屈と迫力で妻を言い負かす。さもキリスト教の全てを理解しているとでも言うような口ぶりだ。だが実際のところ聖書を読んだことは一度もない。俺は何も知らずに、知ったかぶりをしているだけじゃないのか?もしかしたら妻が正しく、俺が間違っているんじゃないのか?ふだんは仲の良い夫婦なのに、この問題が絡むと言い争ってしまう。キリスト教が正しいのか、正しくないのか、少なくともそれを調べるべきではないのか?”

この疑問を抱いたまま、中学時代からの友人の家に遊びに入った。
マンガも読まない、活字が苦手なその友人のコタツの上に置かれていたのは、なんと聖書だった!
「なんでおまえのコタツの上に聖書があるんだ?」
唖然とした私の問いかけに友人は、その事情を説明してくれた。
彼と結婚を約束していた彼女が突然統一協会に入会したこと。そして家を捨て、婚約者を捨てて蒸発してしまったこと。統一協会は“偽のキリスト教”であるということ。“偽”であることを彼女に説明し、説得するためには“本当のキリスト教”をまず理解しなければいけないこと。そのために“聖書”を読んでいるということ。
この友人から勧められてキリスト教の本を5冊借りた。

それ以後、クリスチャン作家の文学まで含め、かなりの量の本を読んだ。
読み進めるにつれ解ってきたことは、今までいかに自分が無知(的外れ)だったかと言うことである。
世界的なレベルでは日本人は圧倒的に少数派で、キリスト教に対する姿勢が全く他の民族とは違うということ。
偉大な発明・発見をした科学者・化学者にはクリスチャンが多いこと。宇宙万物を創られたのは唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能の愛の神であり、その神が創られたものを解明したいというモティベーションが発明・発見につながっていること。だから科学とキリスト教は相反するものではないということ。
日本では進化論が絶対的真理として教えられているが、実は進化を証明する証拠は何一つないこと。宇宙万物を創造した神がいると考えたほうが科学を証明する上で全く自然で無理がないこと。

人類の創造者である神を無視し、神に反逆して生きているため、人は永遠に滅びる運命にあること。人間が滅びから救われ、神の永遠のいのちをいただくためには、メシヤ(救世主)が現われなくてはならないこと。そのメシアとは一体誰なのか。
旧約聖書で預言された、人類を救うメシヤの行動をイエスは全て実践してみせた。十字架で死ぬという生涯を貫いたイエスの行動力は、まさに“狂人なのか?それとも、神なのか?”。
イエスの十字架での死、その3日後の復活も全て、聖書の預言の成就に他ならない。これらのことを読み進んでいくと、人類を救うために神がイエスという人となって地上に来られたのだという事実を受け入れざるを得なくなった。

事故に出会い、臨死体験をした人は大勢いる。しかし、死ぬために生き、生き返るために死んだ者はいない。しかもそんな自分の生涯を知りつつ生きる者も‥‥である。人は自分の死と生の時期を知るすべもない。それができるとしたら、神である。その事実をまのあたりにしたイエスの弟子たちが変わった。

ローマの属国時代、政治的指導者としてのイエスに可能性を見いだしていた弟子も多かったに違いない。
クーデターのリーダーとしてのイエス。イエスの国が実現した暁には、自分が大臣になれる可能性は?
イエスが話し、望んでいたことと、弟子たちが理解し、現実的に望んでいたことには大きな隔たりがあった。
十字架にかかる直前イエスは、弟子たち全員に見捨てられた。
十字架で処刑された時、イエスと同じ死を望む弟子は一人もいなかった。
全員が逃げてしまった。大阪弁で言う“へたれ”である。
そんな根性なしの弟子たちが死からの復活したイエスに出会い、強烈な変化を成し遂げた。
神がわざわざ人となり、地上に降りて来られ、伝えようとしたこと。それは“私(イエス)を信じるものは死んでも生きるのです”という言葉だ。
それまで人間イエスに仕えていた弟子たちは、イエスが預言されたご自身の死と復活を目の前で見た。それによって自分たちは神としてのイエスと共にいたのだということに気づいた。

“へたれ集団”が変わった!
全員が死を覚悟して、イエスを伝えだした。
ローマの王政君主時代。ローマ皇帝は当時、民衆にとって神同然であった。
弟子たちは、この時代に命をかけて、イエスが神であることを伝えだした。
イエスを捨てて逃げた大半の弟子たちが、今度はイエスを伝えるために殉教の死を選んだのだ。
ある者は、コロセウムでライオンに喰われ、ある者は逆さ十字架に架かって死んだ。
2000年前の出来事である。現代人がおとぎ話のようにとらえがちなシーンである。
しかし、2000年前の死に対する恐怖も、現代の死に対する恐怖もなんら変わる所はない。
私はかつて、ドラッグと喧嘩にまみれていた当時その先にある死の予感と恐怖を経験した。
死を何よりも恐れていた弟子たちが、イエスの復活後、死を覚悟した宣教に踏み出したのである。
人は神によって変えられるのだ!
色々な知識を吸収していく中で、この事実が私の心の中で何よりも大きくなった。
私は神としてのイエスと出会ったのだ!
イエスを信じる決心をした。

決心した私の行動は常に早い。
すぐに家族と共に教会に通いだした。
以後、家庭内でキリスト教の話題が解禁になった。
洗礼を受けようと考えはじめたある日、千春がこうつぶやいた。
「教会で、神さまの前で結婚式をあげたかったわ…」
即座にある考えが閃いた。
午前中に私の洗礼式をすませ、午後から二人の結婚式を挙げるのだ。
その日は慌ただしい一日で、アクシデントが続出。
極めつけは、式に出席して頂いた友人の前で読み上げる信仰告白の原稿が妻の分だけ紛失したことだ。
「アドリブでどうぞ」
牧師先生に、そう耳もとで囁かれた千春は、意を決して短く告白する。
「私はこの日がくることを1年間祈ってきました。今日、起きたことを一生忘れません。これからはクリスチャンホームとして家族全員で成長していきます」
そう話す妻の目から涙がこぼれ落ちた。
彼女の横顔を二人の子供たちが不思議そうに見つめていた。

4. 人生の転機
23歳になったこの年、私は人生を大きく変える二つの決断をした。
進学と転職である。
ホテルに就職し、すでに2年半が経過していた。
すっかりホテルマンとしての生活にも慣れた頃、ようやく周りを見渡す余裕ができた。
すると大きな疑問が生じたのだ。
“定年になるまで、男である以上働き続けなければならない。家庭で過ごす時間よりも職場にいる時間の方が圧倒的に長い。嫌でも働く必要があるのなら、好きなことを職業にした方がいいのではないか。
俺は今の職業を天職と言い切れるのか?学歴がないので、職業の選択肢が少ない。その少ない選択肢から無理矢理選んだ今の仕事を“好き”になろうと努力している。それは底の浅い“好き”ではないのか?
職場から帰宅した俺は、最近、家族にきつく当たっていないか?家族のために俺は犠牲になっていると心のどこかで思っていないのか?”

ある時、娘を連れて散歩に出かけた。
娘は5歳、保育園の年長組み。来年は小学生だ。
「パパ、あれは何?」
手をつないで歩くと様々な建物を指差す。
それに答えていると、やがてある建物に行き着いた。
「パパ、これは?」
「これはな、小学校。来年からここに通うんやで」
こう娘に言った途端に、涙がこぼれそうになった。
「いいなあ…」と思った。
5歳の娘は、未来の可能性がいっぱいで輝いて見える。
それにひきかえこの俺は…
一流ホテルに勤めているという自負だけで、仕事による満足感もなく、人生を終えるのか?
そもそも、料理の道を志したのは、自分の店を持ちたいからだった。
理想の店を創るには、恐ろしくおおきなお金がかかるという事実もわかってきた。
定年まで勤め上げ、退職金で店を持つ。その時、俺はいくつだ?
安定とひきかえに、自分の可能性を放棄したんじゃないのか?
“娘と共に成長しよう!間違えた道を間違えた場所からやり直そう!本当に良かったと思える10年後を今から努力して手に入れよう!”娘の手を握りしめてそう心に誓った。

決心すると、やはり行動が早い。
空いた時間の全てを図書館で費やし、天職探しに熱中した。
同時に、働きながら通える高校を探した。
高校はすぐに見つかった。
毎晩の定時制高校通いは無理なので、週に3日スクーリングに行き、後はレポートを提出すれば良い通信制高校に決めた。
天職もおぼろげながら、方向性が見えてきた。
広告に興味を持ち出した結果、コピーライターかデザイナーだ。
そのどちらかに携わろう!そう決心した。
すぐに求人誌を購入し、その中から見つけた広告制作会社に面接を申し込んだ。

「ヒルトンホテル勤務?調理師免許取得?全く畑違いじゃないですか!」
当然のごとく面接官は戸惑った。
ビルの最上階にある全面ガラスばりのデザイン事務所。
ものを創るうえでの落ち着いた雰囲気が漂っていた。
毎日戦場のようなレストランとはすごい違いだ。
“ここで働きたい!”強くそう思った。
「確かに畑違いかも知れません。しかし、グラフィックデザインとフランス料理、視覚的で感覚的な創造力が必要という点では共通しています。10代後半から料理の道に入り、つらい修行に耐えました。今はこの経験が自分にとって財産になっています。最初に一番厳しい世界を体験し耐えぬいたという事実を、私の根性を推し量る物差しにしてください!」この売り込みで採用された。

5. 千春の転機
広告制作会社からの内定通知が届き、転職することを打ち明け、給料が下がると言っても妻は動じなかった。これまでの経験から、生活費の不足分は自分がアルバイトで賄うと決心したのだろう。
広告制作会社と掛け持ちで、深夜11時から翌朝5時までの深夜営業の店のコックのアルバイトを決めたことを告げ、最後に通信制高校に入学することを打ち明けた時、ついに妻は叫んだ。
「絶対にダメ!続くわけがない。いつ寝るの?身体壊すって!」
説得は続いたが、私の意志が堅いことを知った妻は最後にポツリとこう言った。
「いいなぁ」
この言葉を聞いて、知りあった頃に妻が言ったことばを思い出した。
「本当は保母になりたかったわ。」
「お父さんと私、血がつながってない。進学して保母の資格を取りたかった。でもお母さんに相談したら、高校に行かせてくれただけでお父さんに感謝してって言われたの。」

この当時、私にはなりたい職業なんてなかった。
男は一生働かなければいけないという意識すらなかった。
2才年上の千春(この時点では、将来妻になるという予感すらなかった)が、成りたい職業をみつけている、そのことだけでも尊敬の念を持った。
「俺の給料、やるよ。俺、実家にいるから、金なくても生活できる。俺の給料で大学に行ってくれ」「そんな事できない!」「俺がいいんやから受け取れ!」と押し問答が続いた。
翌日、本屋で“短期大学ガイダンス”を購入。
妻が通うことになる“浪花短期大学 保育科(現 大阪芸術大学付属短期大学)”の資料を取り寄せた。
3年後、妻は卒業し、保育者の道を進んだ。
28才の新米保母に年の若い先輩達たちは辛く当たった。
妻は既に子育てを経験している、このことも妻より若い先輩保育士にとってはプレッシャーだったのだろう。
しかし、クリスチャンになり、子育てを経験し、何よりも憧れ続けた職業に就いた妻はくじけず保母の道を歩きつづけた。

6. 独立・グラフィックデザイナー
妻が就職した年、私は26歳でフリーのグラフィックデザイナーとして独立した。
独立までの経緯は、こうであった。
調理師時代、莫大な独立資金を必要とするレストラン経営をあきらめた私であったが、低資金で開業できるグラフィックデザイナーとしての独立を絶えず目標に置いていた。(独立を目指すのは、どうやら父親譲りらしい。長くサラリーマンでの塾講師を勤め上げた兄も2年前よりアルファスクールという学習塾を経営している)
グラフィックデザイナーに転職した私は、水を得た魚のように才能を発揮しだした。
私の才能とは、芸術家肌のデザイナーが多いこの業界で、グラフィックデザインの過去の実績データで効果予測を立て、最も効果が高いと判断できる手法を提案することであった。
きれいなデザインよりも、効果を産むデザイン。
デザインは販売促進が大前提だ。当たり前のことだが、これを理解せず、業界には自分の創りたいデザインを創るデザイナーが多い。
この才能によって私は、広告主から名指しで指名されることが最も多いデザイナーの一人となった。

この当時、私は独立するための3大必要要素をいかにして手に入れるかを思案していた。
1番目は、オフィスである。
これは、クリスチャン写真家の吉野史朗氏(屋号:スタジオ・シロ)が自分のオフィスの半分と機器を提供してくれることで可能になった。
2番目は、資金。
独立したいという欲求を打ち明けた時に親友の金本がこう言ってくれた。
「なんや、独立資金て100万円でいいんか?俺、1000万円位いるんかと思ってた。それ位やったら、俺が持ってる、やれ、お前、明日から独立せい!」
3番目は、安定して仕事をくれる広告主。
現在の広告主から仕事をもらうのは、道義的にむりである。
一から探す必要がある。
それもスポットではない、定期的な仕事を。
この3番目がひっかかり、行動できずにいた。

そんな俺の肩を妻が押した。
「野上くん(結婚20年目、妻は私をいまだにこう呼ぶ)、なんで独立しないの?」
「3つ必要なものがいるっていう話は聞いたけど、今すでに2つあるんやろ?独立した人のことを私はよく知らないけど、3つ全部持って独立できる人は少ないんじゃないの?」
「私はとにかく、後悔して欲しくないねん。後で、あの時が独立の絶好期だったと後悔して欲しくないねん」

翌日、私は勇ぎよく会社を退めた。
帰途、公衆電話から妻にそのことを告げると
「なんでー!?そんな、いきなりー!?」
電話口で驚きのあまり叫んでいる。
自分が言ったことを忘れたような口調に私の方が驚いた。

独立して2年目、事業は順調だった。
教会関係の仕事も手がけるようになった。この時期、私が制作した、クリスチャンのいれずみやくざ集団「ミッション・バラバ」の「親分はイエス様」というトラクトのデザインに感動した東京の佐々木弁護士と知りあった。佐々木弁護士は発足したばかりのクリスチャンビジネスマンの伝道団体、インターナショナルVIPクラブのDM等の制作を私に依頼するために、わざわざ大阪に来てくれたのだ。
「私が住んでいる大阪港区にはキリスト教の保育園がありません。妻は優れた保育士なんです。将来、港区にキリスト教の保育園を創りたいんです!そしてそれを全国に展開したいんです。」
30代前半の私のビジョンを佐々木弁護士は、熱心に聞いてくれた。

7. 家族全員の入信
独立して7年目に転機がやってきた。
船会社を経営していた父に大腸癌が見つかった。
手術をしたが、既に手後れ。余命3ヵ月と宣告された。
妻と二人、毎晩父の病室に見舞った。
ベッドの左右から、父の手を握り妻と二人で祈った。
最初は、父にも抵抗があったようだが1ヵ月が経過すると
「来た、来た。二人で祈ってくれ。祈ってくれると痛みが柔らぐんや」と言ってくれるようになった。
聖書の話にも耳を傾けてくれるようになった。
この時期、私の兄は人生のことで悩んでいた。私からの勧めでキリスト教関係の本を読むようになり、受洗の意志まで持つようになっていた。しかし、私と違い兄は家族に対する責任が重い長男である。墓の問題等、様々なことを考えては決断が鈍っていた。

入院2ヵ月半を経過し、すっかり骨と皮になった父の病室には、簡易トイレが設置されていた。
母が病室に寝泊まりしていたが、寝ている母を起こすのをためらった父は、自力で簡易トイレに行こうとした。
ベッドに身体を起こし足を組んだ、その時である。不意にバランスを崩して、床下に落ちたのだ!
「頭から床に転落する!死ぬ!」父はそう思った。
死を覚悟したその瞬間、背後に人の気配を感じた。その人は、父を抱き上げてくれたのだ。気がつくと、もとの体勢で座っている。周囲を見合わしても誰もいない、相変わらず、ソファーで母が寝息をたてていた。
「大阪港区のこんなへんぴな病院に神さまがやって来てくれたんだ…」
父からの告白を聞いた兄はこう呟いた。

「私、クリスチャンになる。」
突然、母がそう宣言した。
「クリスチャンになったら、神様から永遠のいのちをいただけるんやろ?もう死は恐くないんやろ?今のお父さんは死の恐怖でおびえた顔になってる。もとの穏やかな顔にさせてあげたい」
母のこの言葉が、兄の心にひびいた。
父の耳もとで兄が喋りだした
「お父さん、僕とお母さんはクリスチャンになりたいんや!お父さんも一緒になってくれへんか?」
目を開けて言葉の意味を理解した父は、ゆっくりうなずいた。
「いいよ、君らがそうしたいんやったら、それでいい。わしも一緒になる」
「お父さん、ありがとう!お父さん、ありがとう!」兄の上ずった声を尻目に私は病室を駆け出した。
スタンバイしてくれていた牧師先生に来てもらい、さっそく洗礼を授けてもらう。
父、母、兄がこの日病床洗礼を受けた。私の家族全員がクリスチャンになったのだ。
その夜父は危篤に陥った。
そして翌朝、息を引き取った。
「お父さん、笑ってるような顔やったなあ…天国へ行ったんや」
家族全員が見守る中、息を引き取った父は、とても穏やかな顔をしていた。
神さまは、父が洗礼を受けるのを待っていてくれたんだ。
はっきりそう確信した。

当時、母は62歳。
父の会社の経理をしていた。
父の死に伴って、会社を閉めることになったが、母には後3年仕事を続けたい事情があった。
社名変更、定款変更という形で父の会社を私が受け継ぎ、母は引き続き経理を担当することになった。
弊社の社名の由来は、ここからきている。
Y's factory=嘉子(母の名前)のための工場

8. フリーペーパー「IMAGE」誌の発行へ
少しずつ事業規模を拡大していった。
バブル崩壊以後、慢性的な不況下、それでも業績は上がり続けた。
極めつけは、1998年に当時、急成長を遂げていた100円ショップ ザ・ダイソーの本の商品開発を開始したことである。同社の年商は千万単位から億単位へと跳ね上がっていた。
しかし、思い返せばこの時から私のクリスチャン経営者としてのモラルは崩壊していた。
ザ・ダイソーに最初に売り込んだ商品が“占い”である。聖書によれば“占い”は神さまに忌み嫌われる行為である。
だが、“アニマル占い”というネーミングで商品化した本は、半年で250万冊売れた。
店頭に並べば一瞬でなくなり、電車に乗れば1台に一人は、私が作った本を読むOLを発見した。
この商品を生む背景として、それまで一般雑誌の制作に深く携わり、女性にとっての必須アイテムである“占い”に免疫が出来ていたという理由があるが、やはりクリスチャンとしての自責の念に駆られた。
ザ・ダイソーでのヒット商品を連発した結果、当然だがわが社の同社への企業依存度が急上昇した。
会社としては危険な状である。ザ・ダイソーへの年間売り上げを下げずに、企業依存度を下げる方法はないものかと必死で模索した。

2002年9月、東証一部上場企業の(株)シムリーが行った“アントレプレナープログラム”に応募した。最終選考まで残り、20〜27歳女性認知度85%の“IMAGE”というネーミングの使用許可を得た。
リクルート社が毎月400万部以上発行している無料情報誌「ホットペッパー」を将来追い越すような無料誌(フリーペーパー)を発行することを思いついたのである。
“IMAGE”というビッグネームを得た私は、ある方の勧めで“少人数私募社債”という方法で資金を調達しだした。
2ヵ月足らずで約3000万円集まり、2003年9月25日、“フリーペーパー IMAGE COLLECTION Delicious Salt”が創刊した。創刊日には、心斎橋パルコ前でイベントをし、IMAGEグッズの抽選会には長蛇の列ができた。このフリーペーパーの特徴のひとつに市内の地下鉄ラックでの設置というのがあるが、創刊日前日、18カ所の駅構内に設置ラックにぎっしり詰め込まれた本誌は、丸1日でラックから姿を消した。
その後、順調に無料誌としての認知度を高めていった。
読者獲得の追加プロモーションとして、地下鉄ジャック(御堂筋線電車1台丸ごと弊社無料誌の宣伝)決行、心斎橋、梅田での駅構内連判ポスター貼り、心斎橋パルコ、ソニータワーでの2カ所を借りてのイベント等を実施した。最初が肝心だ、資金調達は“少人数私募社債”で賄えるという考えの元で、知名度を上げるためにプロモーション費用を湯水のように使った。

だが12月、予定外のことが起こった。11月より実施した第4回少人数私募社債は一人の方の大口出資を予定していたが、その方から保留を申し渡されたのだ。
独立して14年、こんなに苦しんだ12月は初めてだった。
資金繰りで走りまくる日々。
ある会社の社長に言われた。
「12月にお金は集まれへんよ、こんな時期にお金を集めようとするのは、よっぽど困ってる会社や。そんな会社に誰も出資せえへん」

資金集めに奔走しながら、創刊前に東京の佐々木弁護士から受けたアドバイスを思い出した。
「この無料誌の唯一の問題点は、占いのページがあることです」
神さまから支持されない事業は、やはり失敗するのか?
そんな疑問が脳裏をよぎった。
5年前、佐々木弁護士に“大阪港区にキリスト教の保育園を作りたい!それを全国展開したい!”と告白したときは、具体的な資金調達の方法はまるでわからなかった。
会社の株式上場を目指した経営をしだした今、どうすれば保育園を作れるのか、その方法が見えてきた。
上場後の創業者利益である。
大阪港区でまず直営店を作る。それをブラッシュアップしたもので、キリスト教の保育園がない全国の地域に沢山のFC店を作る。
鮭は生まれた川に死ぬ前に戻ってくる。キリスト教の保育園も同じだ。成人し社会に出て、人生に疲れた時に思い出せばいい。幼児期に刻まれた聖書の言葉が必ず、目覚まし時計のように頭の中を連呼するに違いない。
私の汚れたお金でそんなことが実現できるのか?

12月と1月で3kg痩せた私に千春が言った。
「あなたの雑誌すごくいいけど、やっぱり神さまが喜んでくれるものじゃないと祝福を受けられないと思うよ」
すぐに決心した。
そうだ、占いページをやめよう。そして、本当に読者のためになるページにしよう!
神さまが喜んでくれる雑誌にしよう!占いのページを聖書のページにするんだ!
わが社の無料誌は、現在月に10万部発行。創刊5ヵ月、大阪でラックに設置された途端になくなる、人気の雑誌として評判を呼んでいる。
この雑誌を福音の伝道のために用いたらどんなにいいだろうか!
そう決心した瞬間に佐々木弁護士の顔が浮かんだ。

9. どんな問題もなんとかなる!
翌朝、早朝6時の新幹線で千春を連れ、東京にいる佐々木先生に会いにいった。
この日は日曜日で、私は先生が通う表参道の教会前でまちぶせをしていた。
100m前方に先生発見!礼拝後、教会の近くの喫茶店で話を聞いてくれた。
12月に経験したこと。占いのページをやめて、福音伝道のために用いることを決めたこと。
資金難で喘いでいるわが社の社債を引き受けて欲しいこと。
先生は事情を理解し、占いのページをやめたことを非常に喜び、こころよく社債を引き受けてくださった。続いて先生はこんなことをおっしゃった。
「神さまは、本当にユニークなことをされる」
実はこの時、佐々木先生はある雑誌の連載記事「どんな問題もなんとかなる!」を執筆中、ペンが進まなくて困っていたらしい。
“誰か、いいモデルはいないものか?”
この時、私が目の前に現れたのだ。
“いた!この男を書こう”

後日、「どんな問題もなんとかなる!」のゲラのFAXが届いた。
本文は“野上氏も、闘争本能むき出しだが、明るく笑っている。試練をこの上もない喜びと思っているのだ”という文章で締めくくられていた。
その後あらゆる面で事態が好転し始めた。
若い女性にとても人気があり、すでに115冊も本を出版しているクリスチャンの佐藤綾子先生が、ワンポイント・メッセージを連載してくださることになった。
やはり、神さまは生きておられる!

高校を2度も中退した元ヤンキーが全知全能の神を信じ、毎月数百万部の無料誌を福音伝道のために発行しようというのである。しかも会社の株式を上場させ、その創業者利益をもってキリスト教保育園の全国展開を目指しているのである。今後どんな困難な問題にぶち当たるかわからない。
しかし、神を信じれば、どんな問題もなんとかなるんだ!
私は次の聖書のことばを心に刻んで、これからも勇敢に生きていきたい。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
(新約聖書 ローマ人への手紙 5章3〜4節)

苦しみにあったことは私にとって幸せでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
(旧約聖書 詩篇119篇71節)

(2004年2月記)