「鬼の債権取立人から愛の福音伝道者へ」


パウロ アカギ カズヒコ

あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、
あなたの神、主が与えられる土地に長くいきることができる。 

―出エジプト記20:12―



― おいたち ―
 
現行憲法(昭和21・11・3)は、日本敗戦の翌年の1946年に公布されました。前文には「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」と平和主義が明記されています。平和憲法にちなんで、このころは男の子には「和彦」、女の子には「和子」と名付ける親が多かったようです。

 わたしはこの年、韓国の釜山から郷里に引揚げてきた元警察官僚の父と、元小学校の教員であった母の家庭に生まれました。中国山脈の麓、広島県の山間の小さな町です。この村、開村以来の秀才で大卒の父と、隣村開村以来の才媛で師範学校卒の母でした。明治生まれの人としては、めずらしい恋愛結婚だったようです。

家父長制度のなごりを残す典型的な古い家庭でした。権威主義であり道徳的であり教育的でした。家柄、教育、思想、信条、社会的身分に重きを置く価値基準によりました。ところが、父は権力をかさに他者をコントロールするものの、自分には甘い自制のきかないガチガチの体制派の人でした。柔道六段、雄弁をもって鳴らした剛の者でした。

父方は、庭に赤松の大木があったところから、公を取って「赤木」という苗字です。下男や小作人に農作業をさせて収穫はいただく百姓家でした。戦後の農地改革により、大半の田畑・山林を手放しました。大酒のみで、豪放磊落、アル中の家系です。母方は、情にもろく、小心で、やさしいのがとりえです。寺の跡取息子が檀家の娘と西の方にカケ落ちしてそこに定着したところから「寺西」を名のっていました。
当時は、お妾さんを囲うのも甲斐性のうちという社会的風土でした。祖父も父も、愛人のパトロンでした。引揚後数年経って経済的サポートが不能となり、彼女にも去られ、失意のうちにアルコール浸たりの父と、それを涙で忍耐の母を見て育ちました。わたしの性格は父方の色合いが強く出ていますが、ときには母方の血統が濃いと感じることもあります。

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という聖書の教えからはほど遠い父でした。愛憎がはっきりしていました。突っ張ると決して後には引かず、自分の思いでらつ腕を振るう父に反発して、町の教会に通っていたのが思春期の長姉でした。母は姉の聖書を読んでいました。だからこそ「人とは争わないで。人は愛するものよ」といってくれるやさしい母でした。

父ゆずりの鋭さをもつわたしは、母に諭されながらも、チャッカリしたガキ大将として育っていきました。根はまじめなもののサービス精神旺盛なおっちょこちょいです。今でも子どものときの原型を保持しています。自分が信頼する人から頼まれると、イヤとは言えず徹底的にやってしまうところから成功もあれば失敗もありました。明るくメゲないところが他者から可愛がられるゆえんでした。

わたしは二面性をもっています。弱さと強さです。甘さと鋭さです。繊細でていねいな反面、大胆でラフ。果敢と慎重。フットワークのよさ、変わり身のはやさ、見切りのよさもありました。これらの特性は、日々のあゆみのなかで社会生活にも対人関係においてもあらわれています。

成長とともに、ますます自我が強く前面にでるようになり「個性的な人」とか「ユニークな人」といわれました。アクの強さや独特のキャラクターをさしたものでした。校長も、駅長も、駐在も、町長も、いわゆる町の名士は、みんな父の同級生か、後輩という山間の町で小5まで過ごしました。校長のお説教の決り文句は、「赤木ともあろうものが…」でした。

一般的にわたしの同年代は、「団塊の世代」とよばれます。第一次ベビーブーマーともいわれます。出生数が多いところから、そういわれたものです。生まれながらにして世間の競争にもまれてきた世代です。いわば「終戦記念品」ともいえるわたしは、両親から自由放任、目の中に入れても痛くないほど溺愛されて育ちました。

小6以降、中・高と旧軍港の造船の街、呉市に移って暮らします。子どものときのいやなことは苗字でした。教育改革によって「イロハ表記から50音表記」にかわって、赤木のアですから、常に出席番号は「1」でした。何をやるにも「出席番号順で…」とトップに指名されました。でも成績はトップではありませんでした。

幾たびか、50音のラストに近い「渡辺」君をうらやんだことがあります。もし母方の「寺西」を名乗っていたら、どんなに幸せかと思ったことがありました。「いのいちばん」ではなく後半の方になりますから。「赤木のア」のおかげでと持前のあつかましさで引っ込み思案にならず人前に出られるようになりました。


 それゆえ、信仰と希望と愛、
この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。 ―コリントへの信徒の手紙13:13―

― 子どものころ ―

やがて1958年、「売春防止法」(昭和31・5・24 法118)が施行されました。これによって全国に婦人更正施設が設けられます。母はこの施設の指導員となり、罪を犯した婦女子の社会復帰のために奉仕することになりました。教育的見地から、母は当時小6のわたしを連れ子として施設に入寮しました。はやくから「愛」を教え込もうとしました。女性関係につまづかないよう教育したかったのだと思います。

この法律が、わたしの生活を変えます。地縁、血縁のしがらみから郷里を離れたくない父、高校進学を控えた兄を置いて山町から港町、家庭生活から集団生活へと移りました。赤線ではたらいていた女性たちとともに大きくなりました。「こころに愛がなければ、相手の胸に響かない」とラジオから流れていた「ルーテルアワー」の音声をいまでもはっきり覚えています。

もしこの法律が施行されなかったら、母がこの仕事に就くこともなかったでしょう。わたしが教会に行くこともなかったかも知れません。わたしのはじめての教会との出会いもこの法律のおかげなのです。小6の12才のとき、牧師から「ギデオンの聖書」をプレゼントされました。アメリカの宣教師のサインと聖句が添えてありました。

施設は、地方公共団体とキリスト教婦人団体が一体となり、社会問題となっていた麻薬撲滅、暴力追放、赤線廃止のいわゆる三悪追放運動のひとつとして、それに捕われて 悩む人、まずしい人、病気の人、不幸な人を助け、神を知らない人びとを救いに導き、社会復帰をするまでサポートしようというものでした。愛に飢え渇く多くの女性に、清いおこないによって生きることを教えていました。神の無限の愛は、いつもかわることなく、これらの人びとのうえにもシャワーのように降りそそがれていたのです。

彼女たちの多くは,肉親に棄てられ、赤線に売られ、こころがすさんでいました。施設に収容された金ヅルを奪い返そうと、ヤクザが深夜やってくることもたびたびありました。母は勇敢にも彼らを撃退していました。そこでイエスに出会った人たちは、二度ともとの罪深い生活に戻ることなく、母といっしょに涙ながらに祈っていました。喜びのうちに受洗する人もいました。しかし脱走して、またあやまちを犯し警察に摘発されて施設に出入りを繰り返す人もいました。

社会の底辺で身体を張って生きてきた彼女たちの施設での日常生活は、何から何まで規則ずくめでした。起床から消灯まで、タイムスケジュールによって運営されていました。礼儀・作法、教養、詩吟、俳句、川柳、音楽、お茶、お花、洋裁、和裁、お料理を全部、母が指導したのです。毎週、水曜日には地元教会の牧師の説教を聞く集会が設けられました。集会の讃美歌のオルガニストは母でした。食前には必ず「主の祈り」をしました。

教会暦に合わせた集会が折々にあり、クリスマスやイースターは、特に記憶に残っています。庭の大木や樅ノ木に登ってイルミネーションのデコレーションをしました。わたしは誇らしげに近所の友人を招きました。ローソクの灯りとともに教会の聖歌隊がやってきて讃美歌を聞きました。そして、みんなでお祝の食卓を囲みました。プレゼントは聖書や書籍、聖句の入ったカードでした。月星を見あげ、きれいな聖夜を過したあの日はイエスのご降誕を祝う本物のクリスマスでした。

母方はお寺の出ですし、父方は神社の氏子でお寺の檀家総代をつとめる古い家です。先祖の祭祈を継承していました。母の職業上、お位牌は不都合です。ご先祖を大ザル3杯に入れて全部菩提寺に預けてしまっていました。墓参することもありませんでした。墓の手入れは、遠隔地を理由に小作人の方に代々やってもらっていました。「ドンマイ、ドンマイ」と気にかけるようすはありませんでした。母は、まことにハイカラで合理的な考え方をしていました。54才から86才まで30余年の奉仕の後、98才の今も広島の地に神とともに元気に生きています。

曲がった道には茨と罠。
そこから遠ざかる人は自分の魂を守る。
若者の歩むべき道の初めに教育せよ。
年老いてもそこからそれることがないであろう。 −箴言22:5〜6


― 教会のこと ―

母は、根が教育者ですから、自分の子どもが若いときに天地万物の創造主を知るようにと願ったのでしょう。若者の歩むべき道の初めに教育したかったのでしょう。小6のわたしに教会をすすめ、集会に駆り出し、牧師とのまじわりに加え,施設のなかで起こるすべてのことをわたしに体験させてくれました。学問よりむしろ実社会を教えてくれたのです。要領のよいわたしは、宿題はほとんど母に代行してもらいました。いわば、バーター取引です。宿題をやってもらう反対給付として休日には教会に通ったのです。母にもらった献金を使い込んで教会をサボることもありました。

異性にめざめたころ、近所の幼なじみや、ほのかな思いを寄せるガールフレンドを誘っては教会をデートの場所にしました。教会に行くのですから、親も安心して送り出してくれたのです。わたしは、近所では「素直で、明るい、よい子」で通っていました。聖書のことばの入ったきれいなカードをもらって喜ぶ彼女もいました。神に愛されたのだから、わたしの好意も察してほしいと淡い期待をしていましたが、それとこれとは別でした。熱心に教会に通い、後に受洗してクリスチャンと結婚した彼女たちもいます。彼女たちは、いまはそれぞれの教会で奉仕しています。

老人ホーム、精薄施設、病院への慰問、進駐軍キャンプ、アメリカンスクール、海上自衛隊との交流、市民文化会館、公会堂での集いにも数多く参加しました。このように足しげく教会に出入りしていましたが、大きくなるにしたがって足が遠ざかっていきました。忙しくなって時間的余裕がなくなったというのではありません。クリスチャンは「知的で、模範的な人」という自分の固定概念やイメージにとらわれていたのです。  

日曜学校の担任は、出撃して戦死した戦艦「大和」の機関長のお嬢さまでした。やさしく美しい人でした。つたの絡まるチャペルで祈りをささげる清楚なお嬢さまのような、まじめでハイソサィエティの方がクリスチャンになるべきだと思っていました。悪ガキのわたしにとって、敬虔なクリスチャンになることは、ラクダが針の穴を通ることよりもっとむずかしいことのように思われました。神を恐れる気持はありましたが、教会の権威主義、まじめさ、堅苦しさ、古めかしさも窮屈でした。教会の礼拝出席をいったん中断すると、罪悪感も手伝ってだんだん行きづらくなりました。

神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒むものは、人を拒むのではなく、ご自身の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
―テサロニケの信徒への手紙4:7〜8―

― 高校・大学・法律事務所時代 ―

やがて高校に進学しました。高1のとき演劇の主役を好演したことをきっかけに、校内のスターになりました。その後出演するときは、必ず主役がまわってきました。弁論大会では大物ぶって最終弁士としてしか登壇しませんでした。ふざけてコップの水をあおりタイムオーバーで失格し、優勝を逃したこともあります。「あれさえなければ論旨、表現力、感銘度は最優秀だったのに」と審査委員長に講評されました。生徒会役員に立候補して上級生の対立候補を大差で下し当選しました。翌年からは、対抗馬をたてて本命候補を破りました。選対本部に陣取りボス然と振る舞い選挙戦を牛耳りました。

学校新聞もひとりで書き、編集・発行は他者の名前を借りて好き勝手につくりました。
学生運動の闘士にあこがれる議論好きでした。生徒会活動は校則からの解放を叫び、すべて前例や伝統を無視してやりたいようにやりました。労働運動のシンパに呼び出され洗脳されかけて逃げ帰ったこともあります。世間が左翼思想をアカと呼んで危険視していたときのことです。要領のよさと強引さをすでに身につけていました。「末は新聞記者か演劇人か」と文学青年きどりでいました。

一浪後、上京して大学の法学部に進みました。相変わらず教会の前は素通りでした。神を拒んでいました。礼拝を守らないうしろめたさから教会を避けて通っていたのです。70年安保、大学紛争、ベトナム反戦闘争と世相は騒然としていました。市民活動家、労働者や学生が街に出てデモをしました。機動隊とデモ隊が、催涙弾・放水と投石・火炎ビン・ゲバ棒で衝突、流血と逮捕が繰り返されました。

わたしは思想的ハシカに感染していました。大学封鎖やロックアウトがあり、デモ活動に参加することが、反体制の意思表示だと考えていました。しかし観念的には左翼でありながら、実態は行動力も勇気もないノンポリ学生でした。デモ見物の群集のなかに紛れて右往左往していたのです。機動隊員の図体やジュラルミンの盾こん棒に怖気づいてしまい、どうしてもデモの隊列には加われませんでした。下宿に帰って涙を拭きました。催涙ガスを浴びた目は真っ赤で涙ボロボロでした。聖なる生き方とは無縁の汚れたむなしい学生時代でした。

体制打倒、共闘、市民と組織との連帯を叫んだり、権力や体制にたてつかなければリベラルではない程度の認識で仲間とよくわからない論争をしていました。「日本は戦争をしない、軍隊をもたない」と明記している憲法第9条の解釈について、「自衛隊は軍隊か否か」などと、さしたる見識もないまましたり顔で語っていました。信教の自由についてもうわべだけの理解で実のところその本質はほとんどわかっていませんでした。
法律の教科書を開くと「安眠剤」以上の即効性がありました。まぶたがすぐくっつきました。カタカナまじり、難解な漢字、読点や句読点のない長文の古文です。判例や学説は精緻な論文です。文章構成はしつこくて理解できません。新聞記事とは全然違います。そこで考えあぐねたすえ、法律事務所に勤めようと志望しました。理論と実務が理解できると思ったのです。いやいや授業に出て最後まで苦労してやっとの思いで卒業しました。

卒業後、ハーバート大、エール大、東大、京大卒といった超エリートの外国人弁護士たちの経営する大手の「渉外法事務所」に採用されました。英語は苦手なのにローファームに入ったのです。外資が日本に上陸するための主務官庁への法的手続、合弁会社の設立、薬害訴訟、著作権、工業所有権、冤罪事件の処理にあたる弁護士たちを見て尊敬しました。数年後そこから独立し新事務所を開設した弁護士に一緒に連れていってもらい、彼のもとではたらきました。その先生のようになりたいと、わたしは新聞記者願望から弁護士願望にスイッチし、司法試験にチャレンジします。しかしなかなか合格できませんでした。

当時すでに父は亡くなっていました。学生時代に父は、弁護士の自宅に「書生」として住み込み、高文試験にチャレンジしたそうです。このように父の成長プロセスとわたしのあゆみはオーバーラップしています。わたしの娘も昨春大学を卒業して、ゼミ担当教授の弁護士の法律事務所に勤め始めました。親子三代、弁護士に仕えるところから社会人のスタートです。

その後も、わたしは父に似た道をたどります。この世のパンのみに生き、聖書のことばによって生きていませんでした。女性問題にもつまづきます。いろいろな場面で自我を押し通します。ときには感情が爆発します。その根底には、遺伝や気質にとどまらず、親にはかなわないというコンプレックスがありました。何度も司法試験に落第したことも深い傷になっています。これを逆バネに実力でものをいわそうという深層心理がはたらいていたのかもしれません。また、ペンで生きたいという願望がかなわなかったこともこころの傷になっていると思います。


兄弟を愛するひとは、いつも光の中におり、
その人にはつまづきがありません。
しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、
闇の中をあゆみ自分がどこへ行くかを知りません。

闇がこの人の目を見えなくしたからです。 ―ヨハネの手紙2:20―

― 鬼の債権取立人へ ―

25才のとき、生涯愛することを誓って家内と教会で結婚しました。司法試験の不合格が続きましたが、生活は妻がはたらいて支えてくれました。はやいうちに安定した平和な家庭にしたいと願い、27才になって、自分には法律の才能はないと見限りました。受験をあきらめ法律事務所を辞めて、サラリーマンに転身しました。1970年代は、大企業のなかに「リーガルセクション」や「法務部」が創設されはじめたころでした。

ブランドウオッチ、ピュアジュエリーを輸入する非上場の同族商社に採用されました。ブランド志向、一流好みのオーナー社長は「人を得た。これで当社も法務部をつくれる」と喜んでくれました。トップダウンで社長からわたしにどんどん仕事が入ってきました。過去の経験が生かされ,事件処理も無難にこなせました。弁護士業務、弁理士業務、司法書士業務の社内処理が何でもできると重宝がられました。中途入社のハンディはありませんでした。今にして思うと、神の御手がともにあったのです。わたしを大いに祝福して下さっていたのです。

権限も、報酬も、地位も与えられました。人脈、リソース、ネットワークがひろがりました。神がわたしの地境を拡げて下さっていました。この会社での24年間は、神の豊なめぐみのなかで祝福を受けた時期でした。弁護士、検事、警察、銀行、保険会社、右翼、ヤクザ、金融業者、事件屋、不動産業者、業界人等々さまざまな人びとにお目にかかりました。誰に会っても怖いものなしでした。ヒト、モノ、カネ、コネにものをいわせ人をアゴで使いました。株主総会もわたしが仕切りました。会社のあらゆる書類をチエックし、経営レベルにまで口出しをしました。

わたしが行った倒産現場は、ゆうに600件を超えています。債権回収のプロとして、全国に何度も飛びました。タフバトラー、タフネゴシエーターとして活躍しました。一度も危険な目にあいませんでした。神の御手がともにあったのです。やがて、わたしは自分の有能さを鼻にかけ、高慢になり、プライドの高い人、怖い人、「債鬼」とも呼ばれるようになりました。債鬼とは、「血も涙もなく鬼のように債権を取立てる人」という意味です。

警察、ヤクザ、街金業者の方が同業界人と誤認するほど鋭い目つきをしていました。冷たい切れ者というイメージが先行しました。一般の人には怖がられたのも当然です。こころはヤクザのヒットマンと同じでした。わたしの全エネルギーをターゲットにした人に向けました。瞬時に相手のアキレス腱を探し、そこを徹底して攻撃し法的手段も辞しませんでした。相手のスキームが読めました。先の展開が見えました。事案を見極め、時間をかけるマラソン回収か、短期に回収するショートトラック回収か、それとも焦付債権処理するのかの会社の方針決定にまでかかわりました。

倒産、廃業した多重債務者、経営者の悲しみ、苦しみを思いやる余裕はありませんでした。「回収こそ正義なり」と確信していたのです。感情と勘定は別ものと合理化し、正当化していました。同業他社からすご腕のプロフェッショナルとしてマークされ警戒されながらも、それを掻い潜り自力救済を実行して取立レースを駆け抜けました。ダントツの回収率を誇りました。神から遠くはなれていたときのできごとです。闇の中を歩んでいました。闇がわたしの目を見えなくしていたのです。そしてどこへ行くかを知りませんでした。


知恵は純金によっても買えず 
銀幾らと値を定めることもできない。
オフィルの金も美しい縞めのうも
サファイアも、これに並ぶことはできない。
金も宝玉も知恵に比べられず,
純金の器すらこれに値しない。 ―ヨブ記28:15〜17―

― 世の知恵の愚かさ ―

企業研修、社員教育、実務セミナー、商事法務の研究会に出席して、法務知識の取得に励みました。頭が痛くなる法律書は読まず、利益に直結する実務書しか読みませんでした。かって読んだことのある聖書は本棚でホコリをかぶっていました。アメリカンスタイルのマネージメントも学びました。リーダーシップ、スキルアップトレーニングのセミナー、勉強会に継続的に参加しました。社内研修、取引先勉強会の講師をしたりもしていました。

戦略的思考も教えられました。変化に適応できないと、やがて環境の激変によって死滅したマンモスのような命運を辿るというものです。状況を分析し変化に適合する対応策を実践することがパフォーマンスに通じるという教えでした。自他の強み・弱みを分析して最も有効な戦略は、状況に応じて強みを効果的に発揮すること。失敗は強みの過剰使用に起因するものであること。コミニュケーションがうまくいかないのも、強みの過剰使用であると教えられていましたがヘッドレベルの理解でした。


情報がインプットされ、状況に適合したアウトプットがサービスできるには、システムがしっかりしていないとダメだとも教えられていました。ニーズにフィットしなければ非効果的とも教えられました。組織と人、マーケッティング、タスクフォースについて、行動心理学に裏打ちされたマネージメントスキルを会得したと自らのぼせあがっていました。知識という武具をまとったと誤信していたのです。

これでサラリーマンとして着実に歩を進めていると悦にいっていました。個人レベルにおいては、自己の感情のコントロールが大切であると認識していました。人々の感情への気づきに敏感になりました。サラリーマン社会の出世レースに駆りたてられ、創業者オーナー社長の虎の威を借りた役員きどりのわたしは、自分が真に有能な人間なのだと勘ちがいして生きてきたのです。

どんなに専門知識を得ようが、ノウハウ、ハウツーを叩き込まれようが、マネージメントスキルを身につけようが、神から離れていては何の役にもたちません。本当の意味で幸せではありません。平安がありません。ましてや、真理の探究などできません。神の栄光を讃えることはとうてい不可能です。聖書に書かれているとおり「イエスが道であり、真理であり、命である」と素直に信じている今、これまでの知識は神の知恵とは言えないことがわかりました。それらはすべてはかなく、むなしいものです。当時は気づきませんでした。

やがて時代は、バブル期に突入し、人為的な好況がはじけ、不況が深刻化する兆しが見えてきました。「資本」と「経営」の分離をめぐって、わたしの会社のトップ層、ことに父・子の対立が先鋭化、世にいう「内紛」が勃発しました。商人が商売をそっちのけにして、社内で争うのですから業績はツルベ落しに悪化していきました。このお家騒動でわたしは息子支援の側にたち敵対するメンバーと憎み合いました。

最終的には息子側が敗れ、父親であるオーナーの激しい怒りを買ったわたしは、裏切り者、クーデター首謀格として粛清人事により追放されました。若いときからわたしに特別に目をかけ、信頼してきたオーナーは、わたしに裏切られて大きなショックを受けました。彼の悲しみや落胆はいかばかりであったか知るよしもありません。ここでもわたしは人を大きく傷つけています。リストラがはやりはじめたころです。会社人間として崇拝してきた企業という偶像が壊れた一瞬でした。知恵に欠けていたことを嘆き悲しみました。ここから職業を転々とするハメに陥りました。まさしく、闇の中をあゆんでいたのです。


 一般に、失業率が5%を超えた労働マーケットでは50才を超えた人間には、再就職の道がほとんど閉ざされています。しかし幸いにも、神のめぐみによって、刑事事件に揺れる仕手筋の石油商社に雇用され、その後、こんどは旧財閥系の自動車クレジット会社に再就職できました。自動車のクレジット料やリース料の支払を遅滞した法人・個人から債権回収を図ることを本社として支店にサポートする役割でした。中小企業に育ち、大企業にかわりましたが仕事の本質はやはり取立でした。


事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。
それは誰も誇ることがないためなのです。 ―エフェソ2:8〜9―

― インターナショナルVIPクラブ ―

仕手筋の商社を辞めたころ、法律事務所時代から個人的にご指導いただいていた方から「インターナショナルVIPクラブ クリスマスフェスティバル」の集会に出ないかとお誘いを受けました。ビジネスマンに福音を伝えることを目的としたクリスチャン主催の集会でした。VIPクラブとは「神の目には誰もが高価で尊いVIPである」という聖書のことばの理念を土台とするグループです。セキュラーの世界では、VIPとは社会的に選りすぐられた人を指します。人間の目からは、キザで高慢なネーミングにも見えましたが実はそうではありませんでした。

その集会でのメッセージがこころに響きました。人は赦してくれなくてもイエスは、すべてを赦して下さる。このすばらしいめぐみに感謝しました。ゴスペルソングがきれいでした。集まった多くの人にエネルギーを感じ取りました。外国の方もいて、まさに、インターナショナルでした。人びとの笑顔がとてもすてきでした。こころの砕かれた人が多くいました。さわやかでした。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きる人びと」の光輝く姿に感動しました。罪人の頭のようなわたしにはまばゆすぎるくらいでした。すばらしい感動をおぼえました。

わたしは半生をふりかえり、神のめぐみ、神のよくして下さったことを数え涙しました。罪を悔いてイエスにすがろうと決意しました。罪の多さにつぶされそうになりました。わたしの罪は、前科に換算するといったい如何ほどになるのか見当もつきません。こころの内と外で犯した罪の数はまさしく万死に値します。悪しき思いと、鋭利なことばと腕力や権力、カネ・モノにたよる行動のすべてが神の目には罪であり、神の法廷では有罪でした。わたしはこうして多くの人びとを傷つけのぼせあがって生きていました。けれども罪の意識がないので、反省の情もなければ改善もないのです。

性格テストのデータによれば、わたしは躁鬱タイプであり、権力指向、支配統制型の行動様式をとりがちです。他者の感情にあまり配慮しない独善的な側面があります。平常時は理論的かつ冷静であってもストレス状況ではうってかわって凶暴になります。意図と行動と影響には大きなギャップがあります。

決して、そんな気はなく適切な行動をしたはずなのに、結果は意図したとおりになりませんでした。対人関係でつまづき長年の良好な人間関係を一気に破壊してしまうことが度々ありました。知って犯した罪の多さにふさがれそうになりました。そのうえ知らずに犯した罪を思うと立ち直れないほどのショックでした。

再び聖書を開き読み続けるうちに、天地万物を創造された神の存在と神の無限の愛を認識することができました。そして自分の犯してきた数えきれない罪とこれからも罪を犯し続けるであろう罪人としての自分を赦すために、イエス・キリストを十字架につけ、わたしの身代わりとして罰して下さったのだということがわかりました。

まさにわたしの罪を赦し、罪人であるわたしを救うためには、神にとってはこのような方法しかありえなかったのだということを知り、罪の恐ろしさにがく然とするとともに、神の絶大なる愛に圧倒される思いです。自分の思いだけで生きてきた人生航跡を振り返れば、すでに五十路を超えていました。

これからは、すべて神に委ねて生きていこうと決意しました。その後、受洗したい思いにかられ群馬の吾妻川で受洗しました。そして自宅近くの教会の堅信礼で主教の按手を受け、「パウロ アカギ カズヒコ」の洗礼名をいただきました。教会に初めて行ったときから数えて実に40星霜が流れていました。


主はこう言われる。泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみはむくいられる、と主は言われる.
息子たちは、敵の国から帰ってくる。 ―エレミヤ31:16―

― 罪・あやまち ―

法律事務所に勤めていたころ、わたしはある女性と婚約しました。彼女との結婚にとまどっていたころ、英会話学校で同じクラスで学んでいた女性に一目ぼれしてしまいました。すぐに結婚のプロポーズをしました。迷っている彼女に強引にアタックして同意を取付けました。前の彼女との婚約を破棄して今の家内と結婚したのです。当初は家内にメロメロでした。娘たちが生まれてからは娘たちにヨレヨレです。核家族の愛妻家、子煩悩のよきパパでした。

ところがサラリーマンに転職し、仕事が順調に進めば進むほど仕事にのめり込んでいきました。わたしはカネに目がくらんで、家族をまったくかえりみなくなっていたのです。仕事のストレスやうさを思う存分家内にあてました。当然、夫婦関係は破壊され、長い間冷戦状態が続いていました。神を信じ洗礼を受けた後も、夫婦の関係を修復することができませんでした。わたしは家庭の愛に飢えていました。

そんなある日、女性経営者との出会いがありました。彼女も仕事につんのめって夫との関係がうまくいっていなかったのです。その彼女につまづいてしまいました。光の見えなくなっていたわたしは、妻子を棄てて彼女と再婚しようとはかりました。ひとかけらも理性がありませんでした。何がなんでも嫌われるように、未練などまったく残らないように徹底的に妻子に暴力を振るいました。刑法にもドメスティック・バイオレンス法にも抵触していました。

わたしを信仰に導いてくれた方に思い直すよう何度も説得されました。わたしは「決心は絶対に変わりません。家内への愛は完全になくなってしまいました。家に戻るくらいなら、ベトナムに行って野たれ死します」とまで言い張りました。普段は温厚なその方から、「赤木君、いいかげんに目を覚ませ!それほどはっきりわかっているのに、なぜ神に対しても、人に対してもこのような大きな罪を犯すのか!やめろ!」とホテルのラウンジで大声で怒鳴られました。まわりのお客とホテルのウエーターがビックリしてわたしたちを見ていました。

しかしわたしの決意は変わらず、家族や親族を棄て、教会やクリスチャンの仲間を棄て、会社まで捨てて新しい彼女のもとに走って行ったのです。ところがこれまでして家を飛び出たのに新しい関係はうまくいきません。神に逆らい人の良心にも逆らっていたのですから当然のことです。


あえなくわずか半年後、不倫のすえに、「帰りなん、いざ、家内のもとへ」を実演するハメになりました。涙で「どうぞ、許して下さい」。涙も枯れはてた家内は、そんなわたしを暖かく迎えてくれました。しかし「アンタなんか、絶対許さない」とブチ切れた長女は、次女とともにそれ以来1年以上も口をきいてくれません。憎しみが愛にかわって和解できるのはいつのことでしょうか。娘たちの深い悲しみや傷を思うとき、何も言えないでいます。

「わたしには和彦がある」と、幼いときからどんなときにも絶えず愛する息子を信頼し続けてくれた母、弟への愛をせいいっぱいあらわしてくれた姉、尊敬すべき夫と父に裏切られた家内やふたりの大学生の娘たちに、回復しがたいこころの傷を与えてしまったのです。結果的に、家族の愛も家や土地も仕事も収入もすべてを失いました。神から与えられためぐみをすべて自分で放棄してしまったのです。多くの人を傷つける、この罪人であるわたしにとってはまさに自業自得でした。この試練を通してわたしのかたくななこころは徹底的に砕かれました。独善的な思いとことばと行いを悔いるようになりました。

ことに、夫の不倫や別居に悲しむ身近な女性の方々に浴びせた暴力的言動で、彼女たちの傷口をより大きくひろげた罪も悔いて懺悔します。こころからお詫びしたいと思います。はかり知れない不信と痛手を与えた加害者です。わたしが不倫で家内を苦しめていたとき、わたしと家内のために祈ってくれたのは彼女たちでした。わたしが身もこころもズタズタになって帰ってきたとき、喜びと同情の涙をもって迎えてくれたのもまた、わたしが傷つけた彼女たちでした。

姦淫の現場から引き出された婦人と同じように、不倫による離婚未遂事件の咎として方々から、石が飛んでくると覚悟していました。石に打たれて死ぬ覚悟でした。しかし「婦人よ、行きなさい」とイエスがおっしゃったように、誰からも石は飛んできませんでした。なぜでしょう。放蕩息子のたとえを地でいくわたしをみんながあわれんで下さったのです。わたしがこころから回心して、神にすべてを委ねて生きるこれからの生きざまによってしか信頼の回復につながらないと思っています。信仰に生きるというのは、神の無限の愛を実生活のなかに実践することだと思います。そうして神の栄光をあらわすことです。

つい先日、家内が声をはずませて「ここ、読んでごらんよ」と言います。夕刊を見ると「イエスさまは親分さま」の見出し。大阪から愛人とともに東京に逃げ、その後、愛人にも去られ自律神経失調症でボロボロのパニック状態で歌舞伎町の教会に逃げ込み、3日3晩泣いて祈り受洗した元ヤクザの記事。彼はその後、牧師・伝道者となって世界中に福音を伝えているのです。「ここまで反省しないと、あかしにはならないわよ。やったことは似てるけど牧師になった人とあなたとは悔いあらための態度が全然違うのネ」とやさしい家内からキツいフィードバック。妻に対しても未だに十分な悔いあらためができていないのだと思います。家内のいうように、神学校にかよって、牧師にならなければいけないのでしょうか。

昨年のはじめ、眼底出血によって目が見えなくなりました。膀胱炎も併発しました。「自律神経失調症」と診断されました。つまり、こころと体がバラバラだったのです。長年放置していた糖尿病が悪化したためでした。しかしあわれみ深い神は、病もことごとく癒して下さいました。また、定職がなく定収入のない状態が長期間続く中にあっても、神のめぐみによってなんとか生活が支えられてきました。わたしが「再びお目にかかることはない!」と好戦的に言い放った方との関係も修復して下さいました。神はイエスの十字架の血潮でわたしの罪を洗い流し、雪のように白くして下さいました。神の豊なめぐみにこころから感謝しています。


目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
通ったことのない道を歩かせる.
行く手の闇を光に変え
曲がった道をまっすぐにする。
わたしはこれらのことを成就させ
みすてることはない。 ―イザヤ書42:16―

― Don't Worry!!で突っ走る ―

わたしがイエスを信じて神の愛を知ったときは、VIPクラブが各地にスタートしはじめたころでした。わたしを救ってくれたVIPクラブを拡めようと、仙台、宇都宮、広島と旅をしました。東京では、ナイジェリアの友人とともに福音を伝えるための「ピースメッセージの集い」をもちました。

わたしは、商社時代、都内や地方都市の一流ホテルの大コンベンションホールを借りきった展示会、パーティの総合司会をやったことがあり、集会を成功させるにはいささかの自信がありました。コンパクトな会場では、人があふれてしまうという理由から大きな部屋にかえました。チラシをいっぱいつくり、自宅近くにもポスティングしました。仲間たちに集客を依頼しました。人があふれることを心配して食事の数が適量かどうか気にかかっていました。
その日、スタッフが集まりました。通信社のカメラマンがきて、書籍の売店が出ました。ビジターは何人くるのかドキドキしました。あいかわらずわたしは食事の数ばかり心配していました。マイクのテストを終え、民族衣装に着飾った大統領候補を志願するアフリカの友人がりっぱに見えました。ところが客足が遅いので開演をずらしました。結果は、スタッフ以外誰もやってきませんでした。カメラマンがカメラを放ったらかし、売店が立ちあがり、スタッフだけで盛りあがりました。ゴスペルを歌い踊りましたが、メッセージは途中からカットです。録音もやめました。とてもコミカルでした。

「すべてのことに神のときがある。これは神のご計画ではなかったのでは…」というなぐさめを多くの方から受けました。あれだけ準備や打合せをしたのに、神のご計画とはいったいなんだろう。プログラムはすばらしかったのです。スタッフは献身的でしたし、チケットは無料でした。会場は駅から至近距離でした。天気もよかったのに。ポジティブ情報をあげつらい反省しました。諸経費の赤字が重くのしかかり、責任のなすり合う内輪もめに発展しました。商社時代の実績は何の助けにもなりませんでした。

その後もわたしは福音を伝えようと、自分の思いでいろいろなことに手を出してみました。それらはことごとく失敗しました。まったく実を結びませんでした。福音伝道のためにと、さまざまなビジネスにかかわりましたがほとんど成功しません。その理由を他者のせいにして人を裁くこころが残ります。

心の底から神を信じ本気で神に頼っていなかったのです。基本は自分の知恵や経験則でやっていたのです。わたしがこころから神を信じ、こころから人を愛せるようになったら、実りあるはたらきができるようになるのだと思います。「神の国」のはたらきは、けっして利己的な動機ではできないことをほろ苦さとともにイヤというほど味わいました。

そんなときに、「どんなことにも くよくよするな!」(Don't Worry!!)という聖書をベースにした1冊の本が出版されました。この本を手にしたとき、アフリカに派遣されたサンダルのセールスマンが裸足の人が多いのを見て、「商品すぐ送れ」とレポートをしたというマーケッティングの世界で有名な逸話が浮かんできました。ネガティブなセールスマンなら「誰もサンダルを履いていないから、商売にならない」とあきらめるところを、ポジティブにマーケットは無限だととらえた成功物語です。

キリスト教出版社の新刊は通常1%のクリスチャンのマーケットにしか流通しません。わたしは、イエスを知らない99%の人びとの無限のマーケットを見ました。くよくよしている人はクリスチャンではない方が多いのではないか、彼らにぜひこの本を読んで欲しいと思いました。本など売ったことは一度もありません。ズブの素人です。営業の経験もありません。くよくよしても始まりません。とにかく書店廻りをしようと決めました。

「めくら蛇におじず」で、本を手にして片っぱしから書店に飛び込みました。不意をつかれた店主を説得して売っていったのです。その結果、国会、最高裁判所、内閣府、財務省、警察庁等のほとんどの官公庁の書店に取引口座ができました。大手有名書店、量販店、大学生協、創価学会系、仏教系、神道系書店に「Don't Worry!!」が並びました。キリスト教の本がこれらの書店に並んだのは奇跡だったようです。数ヶ月で一挙に6刷り3万部が拡販されました。

神の霊のはたらきとしか言いようがありません。わたしはただ毎日、都内の書店に通い売込みを続けたに過ぎません。神の豊なめぐみに驚きました。神が「Don't Worry!!」を大いに祝福して下さいました。ある仏教宗派の指導的僧侶をして「これは聖書のミニ本である。7千の寺の僧侶と120万の檀家の全員に読ませたい」とまで本気で言わしめました。わたしは福音伝道への新しいビジョンと燃えるような意欲が与えられました。

「日本は宣教師の墓場だ」ともいわれるほど日本における福音の伝道は大変むずかしいものです。神を知ることを拒む「99%の壁」が立ちはだかっています。しかしこの状況をまさにアフリカのサンダルのたとえ話のように、ポジティブにとらえて伝道していきたいと思います。旧来の考えや行動ではまったく対応できませんが、福音を伝える方法は幾らでもあるはずです。わたしは99%の世界から1%の世界にきた者のひとりです。こんどは1%の世界から99%の世界に向かってキリストの香りを放ちながらパウロのようにダイナミックにはたらくつもりです。


神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、
わたしたちを通じて至るところに、
キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
―コリントへの信徒への手紙2:14―

― 愛の福音伝道者へ 

わたしは、小6ではじめて教会にいってから、受洗まで40年ちかくを要しました。「長い道のり」を求道者として歩んだのではありません。自分で意識してイエスから遠ざかっていたのだというべきです。しかし、イエスを信ずる前もイエスを信じた後も、わたしは神に愛され、多くの人に愛されてきました。わたしはずいぶん悪いことをして人びとを傷つけ苦しめてきましたが、生来の根アカでおっちょこちょいな性質が愛されてきたのです。このすばらしいめぐみにめざめた今、こんどはわたしが神を愛し人を愛する番です。その最高の方法は、イエスの愛の福音を宣べ伝えることだと思います.

娘たちと同世代の若者に目がいきますが、みんな「固い、暗い、つまらない」(KKT)と福音をさけて通ります。きっと笑顔がきれいで好感度のスコアの高い人のよびかけにしか反応しないでしょう。それでは逆に、「明るい、おもしろい、ためになる」(AOT)で攻めようと思います。なんとしても彼らにイエスの十字架の愛を伝えなければなりません。

トラクトをもって街頭に立っても、若者たちはポケットに手を突っ込んで、受取ろうともしません。いったん受取っても近くのクズカゴに直行です。マンションのポストに投入すると管理人に追い返させられます。引き抜いてゴミ箱にポイ。しかしどんな状況にあっても神は「Don't Worry!!」だと言われます。神には不可能はありません。だからどんなことにもくよくよしてはならないのです。あきらめずに前進あるのみです。

 光の中をあゆんでいる人びとを闇の世界に引き込むサタン(悪魔)の攻撃は巧妙かつ強力です。世の中にエロ・グロ・ナンセンス・バイオレンスの情報を振り撒いています。出版物・マンガ・映像・インターネット、その他のあらゆる媒体を通じて悪の網を張っています。これにひっかかり命を絶つ人、心身を病む人、罪を犯す人があります。わたしもその犠牲者のひとりでした。年間の自殺死亡率は交通事故死より多く、三大生活習慣病の死亡率に迫っています。この現象はどう見ても異常としか言いようがありません。

本来、ことばも芸術も文化も音楽もすべて神を讃えるものだったはずです。マンガを読んでも永遠のベストセラー「聖書」を読まない人に神の福音を伝えなければなりません。これらの人に救われて欲しいのです。万軍の神の一兵卒として勝利の行進に連なり、燃える愛の炎と神のことばによって人を滅ぼすサタンに勝利したいのです。

わたしはその半生をふりかえるとき、ただ神の無限の愛によって生かされてきたことを思います。将来、絶望の渕に立たされたときにも「恐れるな、おののくな」と神に勇気を与えられ、希望をもってあゆんでいきます。このすばらしいめぐみを文章にまとめ、多くの人びとに伝えていきます。クリスチャンの「あかし」を集めてこれをベストセラーにしていきます。


「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる」と聖書は教えます。「福音のセールスマン」として、愛と勇気をもって、どこにでも突っ込んでいきます。根アカのおっちょこちょいが「AOT」で神のことばを大胆に宣べ伝えていきます。全能の愛の神を本気で信じたらすべては「Don't Worry!!」なのです。このようなわたしでも信仰によって生きる希望と勇気をお与え下さる神にこころから感謝します。わたしの人生はまさに、「鬼の債権取立人から愛の福音伝道者へ」と逆転したのです。

おわりに、すべての人のために祈ります。

すべての人の造り主である神よ、主の道をすべての国民に教え、主の救いをすべての国に知らせてくださるようにお願いいたします。
ことに聖霊の光によってわたしたちを導き、みな真理を悟り、信仰をもってこころをひとつにし、平和のうちにあって常に正しいことを行うことができますように。
またこころと体と暮らしのうえで悩みのある人びとを御こころに留め、その悩みに応じてこれを慰め助け、苦しみに打ち勝つ力を与え、幸いな道に至らせてください。
これらのことを主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓からあがない出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ちたらせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。 ― 詩篇103:2〜5―

(2003年3月 記)

「鬼の債権取立人から愛の福音伝道者へ」

― パウロ アカギ カズヒコ ー