100年の遺産

富岡徹郎

VIP大手町 スピーチ


自分自身のことを語るのは苦手ですが、私の人生に深く関わってきた聖書の言葉をご紹介したいと思います。

<生まれるずっと前のこと>
 時は明治、私の母方の祖母の祖母(つまり4代さかのぼった)檜山さきは、西南戦争に出征して病に倒れた夫に先立たれ、未亡人となってしまいました。上京し女手ひとつで子供たちを育てる中、大きな悲しみと困難の時を通して聖書に出会い信仰を持つようになったと記録が残されています。1884年に洗礼を受けたとあります。
またその息子の檜山金彦(私の祖祖父である)も日記の中で「私の信仰の起因は、教義に捕らわれず、理屈に偏らず、無条件に神の存在を信じ、母を通して表したもう神の偉大なる霊力を信じ、ここに信仰を告白して受洗するにいたったものである。これこそ私の一生を通しての一大転機となった。」と書いています。
 この二人とその子孫、家族に語られた福音は、時を越えて、空間をこえてすばらしい贈り物として私のところにも届けられることになりました。
 また朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなた方のために、天にたくわえられているのです。
(ペテロT 1章4節)
<幼い頃>
 1950年代にイギリスに赴任していた私の父は、日本で知り合っていた母とロンドンの郊外の教会で結婚式をあげました。その後長男として誕生した私は、その教会で献身式を受けたそうです。生後まもなく帰国。その後住むことになった吉祥寺の家の隣には、不思議なことに代々宣教師の家族が住んでいました。ベックさんというドイツ人の宣教師の方が集会をはじめるようになりました。最初はとても小さな集まりでした。今でも覚えていますが、小学校に上がる少し前、5歳のクリスマスの時、庭で遊んでいる私に子供のクリスマス会のお誘いの声がかかり、はりきって参加しました。これが日曜学校とのかかわりの始まりです。
 隣の家という特殊事情はあったのですが、幼心に日曜学校に集うことは何にもまして大切なことだという思いが与えられました。また困ったときに聖書の言葉はとても役に立つことを体験していきました。日曜学校の先生は、初めの頃聖書のマタイ伝の山上の垂訓を暗記しましょうと、毎週紙に書いて渡してくれました。それを真剣に覚えました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5章3-10節)

小学校1年の時から暗記したこれらの言葉は、人生で何が幸いなのかをいつも指し示すイエス様からの貴重なアドバイスとなりました。60年代、70年年代、80年代と高度成長という価値観の中で、また物質が溢れることをよしとする価値観の世界の中で育ってきましたが、「本当の幸せ」という課題について回答しているのは2000年前に語られたイエス様の言葉にあると、心のどこかで信じるようになってきました。

<14歳>
日曜学校時代には、多くの聖書の言葉が蓄積されました。知識は高まりましたが本当の出会いを経験するのは中学3年の14歳の時でした。その頃はクラブ活動のテニスに熱中していました。しかし祖祖父が「これこそ私の一生を通しての一大転機となった。」と書いていたことと同じようなことが私の身にもおこったのです。
当時の状態は、幼いころから聖書の言葉に通じている、大人よりも聖書の知識はある。しかしその真髄となる神様との人格的なつながりがないというものでした。いわゆるよい子を目指していました。それは聖書に登場する律法学者と同じで、自分の主義主張が一番大切、けれども本当の命がないという愚か者でした。イエス様からみると憐れむべき対象でしかなかったでしょう。実際日曜集会への参加は義務的になり、自分で自分を縛り、あまり心の自由のない思春期でした。だからこそクラブ活動に熱中していたのでしょう。
ところが、その後急速に恵みの世界へ引き寄せられていきました。祖先が遠い未来の子供たちのためにすでに祈っていてくれたのでしょうか。この頃、利己的でしたがクラブで活躍できるようにという個人的な祈りが突然かなえられたことなどもあり、大きな力に引き寄せられているような経験をしました。また夏休みには宣教師ベックさんを通じて人は罪をもっていること、それがキリストの十字架の贖いにより許されていることなどを示され個人的な問題として祈るようになりました。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ10章10節)
この言葉を信じ、口で告白して祈ったのは夜もふけた軽井沢のバイブルキャンプでした。翌朝早く夜行列車で東京に帰る途中で夜は明け同時に新しい世界が始まっていくようでした。それは不思議な感覚でした。自ら納得してキリスト教という宗教を選んだというものでありません。宇宙をも創造された大きな力につつまれた感覚です。もはや人生の歩みは一人ではないという安心も与えられました。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。
(詩篇103編3-5節)

<社会人になって>

現在外資系コンピュータ会社に勤務しています。同じように、聖書の言葉をとおして信仰に導かれた妻と子供2人と東京の郊外に住んでいます。妻も幼い時アメリカの幼稚園で聖句暗記をして、ティーンエージャーの時、ブラジルで再度聖書に触れ信仰に導かれました。
結婚後20代、30代の生活は決して平坦ではありませんでした。子供のことや、健康のこと、人間関係のこと、また仕事のことでも多くの試練がありました。夫婦でこれらのことについてともに祈れることは幸いでした。これらの試練の中で無理に肩に力をいれないで、ただ神に委ねることを教えられています。今も日々大きなプレッシャーは多くあります。仕事の不安と責任に押しつぶされそうなことがあります。
しかし聖書の約束の言葉に勇気づけられます。100年前の祖々々母の檜山さきさんがきっとそうであったように。
 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ書29章11節)


富岡徹郎(2003年2月9日)

聖書の引用:新改訳