「主に向くベクトル」 コリントU3章16節〜18節

埼玉県立高校教諭 大西 雅也

 

○はじめに(ベクトルという言葉について)

ベクトルとは、方向と大きさを同時に扱う量のことです。車は、スピードを出すと方向を変えるのが難しいものです。猪突猛進という言葉がありますが、善意や熱心も向きを間違えると大変なことになります。だから、神様の方向を向くということが大切なのです。しかし、いつも主に向かって進んでいるとは限りません。ときには、御心を離れることもあります。

ベクトルでは、180度違う方向も、同じ向きとして扱います。反発・反抗は愛情の裏返しであることが多いものです。設備投資には多くのお金をつぎ込みますが、将来の利益につながります。目の前の出来事に左右されず、「どこを見ているのか」「何がしたいのか」を大切にしようという思いをこめて、ベクトルという言葉を使いました。

○16節「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」

ここでいう「おおい」とは何でしょうか。当時のユダヤ人は、律法が永遠に続くものと考え、そこに救いの道を求めていました。表面上、律法を守ることに自己満足していたのではないでしょうか。そして、自分たちの考えで判断し、多くの慣習を作り上げ、自分たちが作ったものに縛られ、支配されていたのです。その結果「律法は罪を示すものであり、救いはキリスト・イエスによって成就される」という真理が見えませんでした。律法が問題なのではなく、かたくなな心が真実におおいをかけていたのです。では、私たちを縛っている「おおい」とは何でしょうか。時間・仕事・習慣・人間関係・環境など、物理的な束縛があります。しかし、これ自体が問題なのではありません。欲・恐れ・感情・見栄・知識・経験など、わたしたちの内にあるものが、時間・仕事などを「おおい」にしてしまっているのです。

今年度、私は高校1年のクラス担任になりました。担任は本当に久しぶりなので、嬉しくてわくわくしていました。また、部活動の顧問には、サッカーとなりました。実のところ、サッカーの試合をテレビでまともに見るのは、ワールドカップが初めてだったのです。全くの素人でしたが、何とかやってみようと思っていました。

大変だとは思いましたが、自分の経験で何とかできるという傲慢な心があり、こうあるべきだというという自分のイメージに縛られていました。肩に力が入っていたのでしょう。いざスタートをすると、クラスには思いっきり元気な子が集まり、学校外での問題も多く、思ったようには動きませんでした。

サッカー部の活動では、部員の意欲が低く、練習も思うようにできませんでした。夏休みの公式戦では、欠席者ばかりで、4試合とも9人か10人で戦いました。全試合20点以上とられ、我が校は1点もとれませんでした。

夏休みの終わりには、ストレスのため、いらいらしていました。私は、いらいらすると食べ過ぎてしまいます。うちのかみさんに指摘されても、改めようとしません。現実を見つめていなかったのです。まさに、神様不在の状態で、かみさんには、「あなたは、粉々に砕かれなければわからない。」と言われてしまいました。

8月31日の朝、トイレで何か変だと思ったら、まもなく激痛が走りました。救急車を呼ぼうとするかみさんを、格好が悪いから制してかみさんの運転で病院に運びこまれました。痛み・冷や汗・口の渇き・嘔吐がひどく、何が起こっているのかわからず「神様助けてください」とわらをもつかむように祈っていました。

突然頭の中で、「何かおかしい」という声が聞こえました。そのとき、自己中心的な自分の祈りに気付かされたのです。ただ、頭の中は混乱していたので、なんと祈って良いかわからず、結局、「御名があがめられますように」と主の祈りを祈りました。

尿路結石だとわかり、少しは安心したのですが、腎臓からの尿漏れがひどいことがわかりました。不安や恐れから、病院に対する疑いや不満などが頭に浮かび、ぐるぐる回っていました。まず、その病院には泌尿器科がなかったので、転院を考えました。特に、かみさんが勤めている病院では、入院の準備をしてくれると言うので真剣に転院すべきか迷い込みました。結石破砕装置を使うと早く治るかもしれないとも思いました。

病気が完治するまで時間がかかると仕事に支障が出てしまいます。授業も始まりますから、9月の第1週のうちに退院したいと考えていました。さらに、担当医師の回診がそっけなく説明不足に感じられ、もっとしっかり説明してほしいと不満に思っていました。

冷静に考えると、だだっ子そのもので、自分の思いしか見えていなかったのです。自分の力では振り払うことができませんでした。痛みが治まると、ひたすら聖書を読みました。主に目を向けると、自分勝手な想像にとらわれていることがわかります。

しかし、状況が変わったり、痛みが続いたりすると、また、疑いや不満が現れます。たとえば、血尿が出て、「これで治った」と自分の判断で喜ぶのですが、最後の最後で結石が動かず自分の予想と違うと、右の腎臓に負担がかかるのではと勝手に想像し、事態を悪く考えてしまうのです。まだまだ、自分の考えにしがみついていました。

7日目の朝、目を覚ますと、不思議なことに思い悩む気持ちが全く無くなっていました。病気は医師に任せれば良いし、仕事は同僚がやってくれる。思い煩っても前には進まない。すべて主にゆだね、心静かに快復を待てばよい。はっきりと心が決まっていました。何ともいえない平安が与えられ、恐れ・不安もなく、痛みさえ気にならなくなっていました。自分を捨て、まっすぐ主に顔を向けたとき、自分の中のおおいが完全に晴れた思いがわき上がってきました。

○17節「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」

7日目の夜、まだ結石は動かないので、土曜の退院は無いなと思いましたが、心は全く平安でした。神様に対する感謝でいっぱいになり、なかなか眠れませんでした。こんな思いは初めてでした。やがてうとうと眠った後、明け方近く、トイレでいきなり石が飛び出しました。あっけない幕切れでした。朝の回診で、その日のうちに退院することが決まりました。結果として、自然治癒が一番体に負担がないわけで、予定通り翌週には出勤できました。神のご計画と保護を感じました。まさに、「主の御霊のあるところには自由がある。」事を体験したのです。

これは、特別なことではありません。礼拝・祈祷会に出席すると、喜びと力が湧いてきます。教会学校の教師会の学びでは、自分を探り、救い・祈り・勝利・赦し・導きについてもう一度確かめています。朝マックは単なる朝食ですが、大西家の朝聖書では、一日の活力が与えられます。家族全員で毎朝聖書を開きます。その他、日々の生活の中でも主に目を向けるとき、平安・喜び・勇気・力が与えられます。ここに御霊の働きがあり、自由があるのです。

○18節「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

栄光の姿というと、天国とか再臨の時を思い浮かべますが、ここで言う栄光の姿は、地上の歩みの中でのことです。さて、私は栄光の姿でしょうか。言うまでもなく、ほど遠い歩みをしています。そろそろ、退院して1ヶ月が過ぎようとしていますが、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」の言葉通り、また、元の生活に戻っている自分があります。またまたかみさんに、「全く聖められていない。粉々に砕かれなさい。」と言われています。仕事の上では、元気いっぱい動き回っています。しかしその実は、自分の判断に頼り、内面ではいらいらしています。うちに帰ると、疲れたといってだらだらしています。

生活の中でも、誘惑に負けそうになります。たとえば、最近、パソコンをグレードアップする部品が欲しくてたまりませんでした。昨日は一日、一番下の娘(幼稚園児)の子守り役だったので、買い物ついでにパソコンの部品を買ってこようと決めていました。

ところが、娘の昼寝に付き合っているうちに自分が眠ってしまったのです。気がつくと1時でした。あわてて昼食を作り、娘と二人で食べていると、気が抜けてしまいました。結局部品は買いませんでした。本当に必要な物ではなかったのです。ただ、パソコンがどの程度高性能になるのかを試してみたかっただけなのです。子供がおもちゃを欲しがるようなもので恥ずかしくなってしましました。

自分でがんばって聖くなろうと思っても、気が付くとこの世の生活にどっぷり浸かっています。困難なときだけ主にすがり、普段は神様を忘れてしまいます。いっそ、この世にいる限り、罪は犯すのだから仕方ないと割り切ってしまえば楽かもしれません。そんな悪魔のささやきが心に浮かぶとき、いつも戒めてくれる御言葉があります。

黙示録3-16「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私の口からあなたを吐き出そう」

神は決して、中途半端なことを望んでいません。むしろ、厳しく戒めています。

黙示録3-18・19「・・・金を私から買いなさい。・・・白い衣を(私から)買いなさい。・・・目薬を(私から)買いなさい。・・・熱心になって、悔い改めなさい。」
黙示録3-20「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。・・・」

金・白い衣・目薬はコリントの町を繁栄させた産物だったそうです。そのような、消えゆくこの世の富ではなく、朽ちない宝を主から買うように求めています。さらに、自分の力では何もできない私たちのために、主が共にいてくださることを約束されました。

もう一度、コリントUに戻って、18節を見てみましょう。
「(主によって)顔のおおいを取りのけられ、(主を向くとき)鏡のように主の栄光を反映させる。そして、(主によって)栄光から栄光へと変えられてゆくのです。これらはすべて、御霊なる主の働きなのです。」

すべて、主にゆだね祈り求めるとき、主が、上からの恵みをもって解決してくださいます。

○おわりに(日々の生活と聖め)

自分なんか、まだまだ聖められないと思っている人はありませんか。主の恵を小さくしてはいませんか。実は、私もそうでした。私は、教会に集うようになって半年、かみさんとの結婚式を目前に控え、1989年のイースターに洗礼を受けました。

まだまだこの世に囚われていた私は、「クリスチャンのかみさんと結婚するには受洗しなければ」と考えていました。まだまだ消化不良だったのですが、牧師から「洗礼は入学式だ」といわれて、自分の思いで受洗を決心しました。

自分の罪を告白し、イエスが救い主であることを信じていましたが、今思うと、救いの確信はなかったようです。自分が十字架にかけられたということに抵抗を感じていました。この世では自信過剰で生きてきましたが、教会ではすべてに自信がありませんでした。素直に祈れず、揺れ動いている自分が情けなく、周りの人が全く違う人種に思えました。教会の交わりが苦手でした。いやむしろ苦痛に思った時期もあります。礼拝さえ行きたくないと思ったことがあります。わかったつもりで、本当は偽善者なのではと思い悩みました。

しかし、自分が主を信じたのではなく、主が私を捕らえてくださったことに気づいたとき、主に向くことができるようになりました。14年近い時間がかかりましたが、今では、祈り、聖書を開くことに喜びを感じ、力を受けます。礼拝が待ち遠しく、奉仕も楽しみです。ひそかに、教会学校で一番恵まれているのは教師の私だと思っています。

私のかみさんは、統一教会からの180度転換です。信仰もどこかストーンと抜けきっています。私の信仰は、徐々に変えられたものです。どちらも、主による上からの恵みで変えられたのです。栄光の姿とはどんなものでしょう。私は、楽しみに祈り求めてゆきたいと思います。すべては御手の中にあります。

もちろん、先に述べたように、まだまだ、世の罪から離れていません。教会生活の中でも、苦手なこと・できないこと・足りないことは山ほどあります。かみさんには、「あんたが執事なんて、どうなっているの。」などといわれます。しかし、信仰は人と比較するものではありません。自分で判断するものでもありません。一人一人が神様との応答の中で与えられるものです。

ヘブル11-1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

保証し確信させると言うのですから、希望や願望ではありません。予想や想像でもありません。事実なのです。松下幸之助が、「成功の秘訣は、あきらめないことだ。」と言ったそうです。成功するまであきらめないのだから、いつか必ず成功します。伊達君子は、「勝利の秘訣は、最後まで勝つと信じることだ。負けると思った時に負ける。」と言ったそうです。信仰生活においても、主に向き、勝利を確信し、主にゆだねて進み続けることが大切です。

主に向くとき、主はすべてを与えてくださいます。たとえ、主から離れた場所にいても、主に向くとき、主は私の道をまっすぐにしてくださいます。パウロは、イエスを迫害していました。強く意識しているから強く迫害したのです。主が真実を告げたとき、パウロは悔い改め、「選びの器(使徒9-15)」となりました。