日韓中の三国の架け橋に

平林 裕

(2002年5月26日(日)VIP三田でのスピーチ)

皆さんこんにちは! 私現在日立で半導体の営業をやっております平林と申します。今回広崎さんの方からお話が有り今日この場で皆さんに私のことをお話する事になりました。今私は江古田にあります
尾山令仁先生の聖書キリスト教会に行っておるんですが、広崎さんは当教会の貴重な役員さんのお一人です。最初に今回のお話を頂戴した時私のような者にメッセージが出来るのかな?と思って躊躇したのですが、神様に祈ってお聞きしたところお受けしなさいというお答えが返って来たのでお受けする事に致しました。これも全て主のお導きの一つと思っています。

 私は1982年今から20年前日立に入って6年間はアメリカ向けのビジネスをしていました。ちょうど1987年4月から1年間アメリカのサンノゼとシカゴで海外研修を受けましてその直後今の家内に会った時「君にアメリカを見せたいな」とだまくらかして結婚したんです。今でも家内からは詐欺と言って責められていますが。それがどこで狂ったのかわかりませんが、1990年3月から韓国・ソウル赴任になってしまったのです。上司から言われた時は晴天の霹靂でした。ちょうど家内と結婚する直前ソウルオリンピックがやっており開会式で当時の盧泰愚大統領が韓国語で開会宣言をしたのですがその発音がおかしくて真似をしては笑っていたのをはっきりと覚えています。それくらい当時は韓国をはっきり言って馬鹿にしていたと思います。ですから会社から韓国行きの辞令を受け取った時は「何で俺が韓国なんかに?」と思ったものでした。それが今では私も家内も韓国大好き人間になっています。全く主のご計画というものは人間の知恵では遠く及ばないものです。

 さて私達がソウルに赴任した年の冬当時1歳にも満たない長男が風邪をこじらせ肺炎で病院に入院してしまいました。当時私たちは二人とも韓国語が全然出来ず、知り合いも殆どいなく、大変な毎日でした。おまけに長男は院内感染で腸炎を誘発し、且つ私は入院の最中海外出張にどうしても行かなければならなくなり家内と長男を残してシンガポールに行ってしまったのです。当時のソウルの病院は注射針からミルクまで患者の家族が自分で近くの店まで買いに行かなければならないというシステムになっており、家内がちょっとの間買い物に外に出た瞬間かばんに入れていた現金を誰かに盗まれてしまいました。家内はその夜英語も出来ないのに必死になってシンガポールのホテルにいる私に電話を掛けて来て泣きながらその事を話しました。こんな時に出張に行った私のことも責めました。ある夜家内は付き添い疲れて窓の外を見ると丘の上に十字架が赤く光っているのが目に付きました。家内はその時ふと幼い時教会学校で習った「主がついてればこわくはないと聖書のうちに書いてあります。主は私を,主は私を、主は私を愛してくださる。」という歌が頭の中に思い浮かばせました。「そうだ。教会に帰ろう!」家内はその時そう決心しました。

 当時私の会社に敬虔なクリスチャンの韓国人社員がおり、その人の紹介で韓国では有名なオンヌリ教会の日本語礼拝部に行く事になりました。私にとってはそれが人生の中での最初の教会,礼拝参加でした。その時の光景は今でもはっきり覚えてます。ちょうど賛美をされている時だったのですが,「神の国と神の義をまず求めなさい。それらの事は与えられる。ハレル、ハレルヤ。」と歌っていたのですが,何せ教会初めての私でしたのでその光景,その歌詞の意味が異様でなりませんでした。と言う事で最初のうちはかなり私自身に教会に対する拒否反応が有ったのですが,家内及び回りのクリスチャンの方々の祈りに助けられ、私の心に中にもいつしか聖霊様が宿るようになり、教会に行く事への拒否反応はやがてなくなりました。その後実は長男が翌年5月ちょうど家内の両親がゴールデンウィークで遊びに来た時又病気で入院したのですが,何故かその時は非常に冷静にしていられました。聖霊様がいらしたからでしょう。長男はその2回目の入院以来一度も大きな病気には掛からなくなりすくすくと元気に育ちました。一方家内はソウルでの生活にも慣れだし自由な時間が割と有った為積極的にクリスチャン達と交わりをするようになり数ヶ月で受洗に至りました。ソウルに着いたその日道端で野菜や果物を売っている光景を見、日本に帰りたいと泣き叫んだ家内がすっかり韓国大好き人間に変えられていました。

神様のお導きとは面白いもので,私たち二人はいつしか教会学校(土曜学校)の奉仕を喜んでするようになっていました。毎週土曜日(夏休み等学校が休みの日はお休み)午後1時頃から4時頃まで賛美,聖書のお話,分級と続きその後奉仕者の間でミーティング,一緒に簡単な日本食の食堂で夕食というパターンが非常に充実していました。奉仕者は日本人、韓国人半々くらいでしたが、韓国人の方は皆日本語が上手でした。日曜日は午後4時から日本語礼拝が有るので遊びはそれ以前に終わらせました。普通の人が考えたら土曜日の午後もつぶれ、日曜日の夕方もつぶれるので非常に拒否反応が有ると思いがちですが,実際やってみると全然そんな事は無く,本当に充実していました。1992年月ソウルで長女が誕生しましたが、私たちは韓国にちなんだ名前をと考え「春香」と名づけました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが,「春香」(韓国語読みで「チュンヒャン」)という名前は非常に有名(韓国人ならば誰でも知っている「春香伝(韓国語読みで「チュンヒャンジョン」)の主人公の女の子の名前」なのです。それを聞いて韓国人の友達は皆非常に喜んでくれました。

 韓国で生活する事4年半になろうかとする時会社から辞令が出て東京に戻る事になりました。私たちは戻りたくはなかったのですが、社命には逆らえず千葉県松戸市六実という社宅に住むようになりました。そこから教会探しが始まったのですが,半年以上捜した末たどり着いた(主が私たちにお示しになった)のは何と韓国人の牧師先生のいる教会でした。且つ賛美リーダーをしていた方が私たちが行っていたオンヌリ教会日本語礼拝に一緒に来ていた方の弟さんと言う事がわかり神様の導きのすばらしさにまたまたびっくりしました。ここは開拓教会で牧師先生も宣教師であった為少人数で色々辛い事も有りましたが約2年間この教会に通いました。

 その後会社から今度は中国・北京に行けという辞令が出、千葉県での生活僅か2年半で1997年3月今度は中国の首都北京に赴任して行きました。行ってみて先ず感じた事は「下には下がある。」と言う事です。ソウルの道端野菜売りを見て日本に帰りたくなった家内は今回それを上回る(下回る)光景を見ても日本に帰るとは言い出しませんでした。もう免疫が出来ていたからです。韓国を知らずいきなり日本から中国に来た人は中国大好き人間で無い限りこの汚さは何だ?と思うでしょう。首都の北京がそのくらいでしたから。

 ソウルにいるクリスチャンを通して北京での外国人向けの教会(実際には教会堂はなく会場を借りて礼拝を行っている)を紹介して頂き、行ってみると何とそこで会ったのは日本人と韓国人クリスチャンを導いている韓国系のアメリカ人でした。その上何故か中国の北京で日本人と韓国人が一緒に礼拝を持っていたのです。私は思わずこの神様のお導きに対して笑いを堪えられなくなりました。この時確信しました。神様は私たちと韓国の方たちとの交わりを決して切らせようとしていない事を。このようにして我が家は韓国人と切っても切れない間柄になってしまいました。お陰さまで韓国語を使う機会が続きある程度忘れないでもいられました。私の北京でのクリスチャン生活は日曜日午前中に国際礼拝出席、木曜夜に自宅にて日本人・韓国人を集めた祈祷会,そして金曜夜にはビジネスマンの祈り会と週3回クリスチャン達との交わりが有りとても充実したものでした。また私北京での出勤は東京では信じられない運転手付き車出勤でしたが、その運転手がキリスト教に興味を持ち教会と我が家での祈り会に通うようになりました。彼はその後正式に中国の教会で洗礼を受け名実共にクリスチャンになりました。彼とは私が帰国するまでの1年間朝会社で始業時間前一緒にQTをしていました。また或る韓国人クリスチャンの姉妹が日本人クリスチャンと結婚した事もあり,韓国人クリスチャンとも引き続き交流を持つ事が出来ました。北京に住んでいる日本人クリスチャンは両手くらいなのに対し北京に住む韓国人は韓国人だけの教会(実際は会場を借りた礼拝)まで作っていました。北京の韓国人クリスチャンは国際礼拝に通う方と韓国人礼拝に通う方と二通りありました。一度国際礼拝で合同礼拝を行いましたが,韓国人礼拝は素晴らしい聖歌隊まで持ち人数も数百名いたのではないかと思います。韓国人のパワーには本当頭が下がります。聞くところによりますと大きな韓国の教会では見ず知らずの中国人の為に何人もの人が祈っているそうです。隣国の日本と中国に対する宣教意欲はすごいものが有ります。

 さて北京滞在中に私自身に関する大きな出来事が起こりました。実は私がソウルにおいて初めて教会に行き始めて北京に赴任になるまで洗礼は未だ受けていませんでした。と言うのは今から思うと何故かと思うのですが,救いの確信が無かったからです。それが変わったのはある出来事が有ったからです。話は前後しますが,私たち一家がソウルに赴任する直前ちょっとした事から私の母が家内の事を非常に悪く思うようになり出入り禁止になってしまっていたのです。それ以来私と子供達は私の実家に時々行っていたのですが,家内は行けませんでした。その問題がどんな時にもいつも私の胸の奥に刺さっておりどんなに楽しいときにも完全に喜ぶ事は出来ませんでした。この状態が実に8年間続いたのです。ですからいくらクリスチャン達との交わりが楽しくても心の奥底からの喜びは有りませんでした。それが1998年の正月に実家に帰った時最後の日にいざ実家を後にしようとした時母が私に「今度来る時には悦子さんを連れて来なよ。」と言ったんですね。悦子というのが私の家内なのですが,私はわが耳を疑い「えっ?」と聞き返すと、母はきまり悪そうに「悦子さんを連れて来なって。」ともう一度言いました。ハレルヤでした。神はアブラハムではありませんが私に8年間の試練の後ちゃんと栄光を準備しておいてくださったのです。その年の秋には私の両親が北京に遊びに来て3泊4日本当に楽しく過ごすことが出来ました。私はもうこれで洗礼を受けなければ地獄に落ちると思い、その年の12月27日私は日本に一時帰国し以前通っていた千葉県の教会の韓国人牧師先生に洗礼を授けて頂きました。これでやっと私は正真正銘のクリスチャンになったのです。教会の敷居を初めて跨いでから8年後の事でした。

韓国で初めて教会に行って、洗礼も韓国人の牧師先生から受け、中国に行ってさえも韓国人や韓国系アメリカ人と交わり、韓国人とは切っても切れない間柄になってしまいました。未だ有ります。海外駐在中というのは経済的には少々楽になるためソウル駐在中には何回か海外旅行に行ったのですが、オーストラリアのゴールドコーストに行った時ガイドさんが実は韓国人でしかもクリスチャンでした。旅行中日曜日が有ったので彼の知っている日本人礼拝に出席させてもらいました。またハワイのホノルルに行った時も韓国人のクリスチャンからそこの教会を紹介してもらい、主日礼拝から早朝祈祷会まで韓国人のハワイ在住のクリスチャン達と共に過ごしました。実はおまけが有りましてホノルルの韓国人教会を捜している時タクシーの運転手に場所を聞こうとしたらその運転手が韓国語の新聞を読んでいたり,レストランで場所を聞こうとしたらそこはKOREAN BARBECUE RESTAURANTで女将さんが韓国人であったり一瞬地球上には韓国人しかいないのかとまで思うようになりました。冗談のようですがこれは本当の事です。神様が私たちに逃げても逃げても韓国人を送って来ます。本当にそんな感じです。

さて話は今度は北京から東京に戻ってきます。話が何度も行ったり来たりしているのでお聞きになっていて時間軸がよくおわかりにならなくなっていると思うのですが,もう少しの辛抱ですので我慢してお聞きになって下さい。私は約3年半北京で暮らした後2000年8月19日に東京に戻って来たのですが,故有って聖書キリスト東京教会に通うようになりました。で実は私に洗礼を授けて下さった韓国人の牧師先生はその姉妹教会にいらっしゃり今でも繋がっているのです。去るゴールデンウィークの或る日には久しぶりに我孫子にあるその教会に行って礼拝に参加し食事を共にしました。運命の糸は未だに切れていません。仕事の方でも現在韓国のお客様を主に担当しており出張も韓国が一番多いです。接するお客様も韓国の方が一番多いです。中にはソウル駐在時代に知り合ったクリスチャン同士のお客さんとこの前東京で再会し食事に前に韓国語でお祈りをしてもらいました。

最後に私の今後の身の振り方について考えている事を一言お話します。先日私の会社で早期退職制度の申請受付が有りました。私昨年9月に家を買っており24年ローンも有り且つ現在子供3人で教育費が羽の生えた鳥のように飛んで行き、さすがに今退職する気にはなれなかったのですが、いつか時が来れば自分に課せられた使命を全うしようと思っています。神様は私を韓国と中国に送り二つの国にクリスチャンの友達を作って下さいました。また私自身にも韓国語と中国語を少しばかり話せるようにさせて下さいました。私はこの両国に対する宣教の掛け橋になりたいと思っています。どのような形でかは未だ考えていませんが。全ては神様の為すが侭にです。今日はこのようなつまらない話を最後まで聞いて頂いて本当に有難う御座いました。これで私のお話を終わりにします。