思い出に残る対局

日本将棋連盟 棋士六段

森  安  正  幸

2000年8月7日(火)

於:アイルモレ・コタ

インタ−ナショナルVIPクラブ<大阪>

 

1. 藤内金吾一門に弟子入り

1961年(昭和36年)12月、14歳の時に、父に連れられて弟の秀光と3人で、神戸の三宮にある藤内金吾八段の道場に行きました。

3人共に飛車角2枚落で教わり、弟の秀光だけが勝ちました。父と弟はアマ四級、私は5級の認定を受けました。

1ヵ月後の1月、藤内師匠に連れられて日本将棋連盟関西本部に行き、プロ養成機関の奨励会に入会することになりました。兄弟子の小阪昇さん(現・七段)が八級、亡くなった弟の秀光九段が十級、2ヶ月遅れて私が十一級で入会しました。

1966年(昭和41年)、19歳で三段に昇段するまでは順調でした。目標にしていた弟は、一級で低迷していました。私は、兄弟子の小阪さんにも追いつき、有頂天になってしまいました。その結果、20歳を過ぎてから、パチンコ、ボーリング、麻雀等を覚え、今までのように努力しなくなりました。

2. 苦境からの脱出

奨励会へ入る時、父と約束したことが3つありました。「一人前になるまで、酒、タバコ、女には手を出してはならぬ」と言うことでした。もし破ったら「将棋をやめい」と言われていました。

22歳の時でした。神戸の稽古先で、一方的な私の片想いの女性が現れました。将棋は手につかないし、足は宙に浮いたようでした。三段で修行中でしたし、父との約束もあり、誰にも打ち明けられずに初恋の壁に苦しみました。そのため、四段になるための三段リーグも、3勝9敗と大きく負け越してしまいました。

ある日、稽古先の奥さんから、「結婚したいと思ってるの?」と聞かれ、私は「はい」と答えてしまいました。それは真実だったのですが、自分を苦しめる言葉になりました。というのは、その年に神戸から川西に家を買って引っ越すことになり、結婚資金にと貯めていたお金を家に注ぎ込んでいました。お金がなかったのに「はい」と答えた自分がどうにもならなくなり、想いは益々募るばかりで、私はとうとう倒れて寝込んでしまいました。

家族はそんな事情を全く知らないものですから、将棋が弱くなり、様子のおかしくなった私を、精神科の病院で脳波検査を受けさせました。検査結果は勿論異常なく、「よく分からない」ということでした。結局「ノイローゼ」ということで休場となり、将棋はプロとして再起不能と言われました。

休場している間、私は一人で将棋盤を抱えて山に登り、再び将棋の修行に打ち込みました。藤内一門の兄弟弟子である小阪昇七段(当時三段)、酒井順吉六段(当時三段)、淡路仁茂九段(当時三段)、弟の秀光九段(当時五段)など、相手があれば何局でも指しました。一番世話なったのが、兄弟子の小阪七段(当時三段)であり、よく胸を借りました。「もう一番」・「もう一番」と言ってやめない私を、本当によく面倒をみてくれました。毎日稽古したのもこの時期です。将棋が楽しく、初心に帰れたのが良かったと思います。当時の扇子の裏に、「信念を貫くこと」、「相手は常に自分の師と思え」、「初心忘れるべからず」と書いて、対局中に自分に言い聞かせながら努力していた頃がなつかしく思い出されます。その甲斐あって、復帰してからすぐに優勝することができました。

3. 棋士への登竜門−東西決戦−

そして、安恵照剛三段(現・七段)と東西決戦を、東京で戦うこととなりました。安恵さんは年齢制限(30歳)が迫っており、私に負けると後のない勝負でした。ビシッ、ビシッ、と気合鋭く指され、迫力に圧倒されて、私にとってたった一度のチャンスは、秒読みに追われて間違ってしまい、完敗しました。この敗戦を教訓にして、以来早く指せるように棋風を変え、さらに将棋に打ち込みました。そして、リーグ戦で連続優勝して、二回目のチャンスを迎えることになりました。

「東西決戦」というのは、関東VS関西。この当時は東西に分かれてリーグ戦を行い、東京の優勝者と関西の優勝者が四段昇段をかけて戦っていました。勝てば、社会的にも一人前の棋士として認められて、デビューすることができますが、一方負けると、またリーグ戦で優勝しなければ二度とチャンスは回ってきません。これほど大きく明暗の分かれる勝負は、他にはありませんでした。

真部一男三段(現・八段)は、東京で9勝3敗で優勝。故・加藤治郎名誉九段門下で、奨励会A組参加2期目にして早くも優勝。当時は最年少の19歳であって、将来が期待されていました。

対する私、森安正幸三段(現・六段)は、関西で8勝4敗で優勝。そのころ、一時低迷していた弟は、すでに三段リーグを一期で卒業し、五段で活躍中でした。兄弟子の小阪さんから、決戦を前に、「いつもの早指しで、ビシッビシッと伸び伸びと自分の将棋を指せ」とアドバイスを受けました。「負けたらもう一回優勝すればいい」と励まされ、精神的に楽になったのが大きかったです。当時は年に2人、棋士が誕生しており、3回優勝すれば昇段する規定もできていました。

1971年(昭和46年)9月14日、旧関西本部でその対局が行われました。張り詰めた独特の空気の中で、真部さんの初手▲7六歩が指されると、私もノータイムで△3四歩と指し、序盤戦は手探り状態。途中で対安恵三段戦と同じ将棋になる局面もあり、イヤなムードが漂いました。

しかし、私は、「今日は、勝敗はともかく自分の将棋を指そう」と心に決めていました。戦形は、居飛車対四間飛車の普通の将棋になりました。真部さんは、当時の流行形の玉頭位取り戦法でこられ、私は、三間飛車の「石田流」と呼ばれる得意戦法で行くことにしました。経験が多かったので、安心して駒組みを進めることができました。経験があれば、急所や将棋の流れなどは、ある程度の予測がつくので、これが大きかったと思います。中盤で真部さんの疑問手をとがめて優勢になりました。真部さんは、6筋、7筋、8筋と3つの位を取っていたのがいつの間にか消えて、逆に自分の玉頭から攻められることになって、76手という短手数で私の快勝となりました。

ところが、真部三段は、終了後、私に「おめでとう」と言ってくれたのです。この時、私は、心の中で、「この人は将来大物になるな」と思いました。というのは、前回安恵三段との勝負に負けた私は、相手に対して「おめでとう」と言える心の余裕は、とてもありませんでした。私は、真部三段との勝負には勝ちましたが、「おめでとう」といえた真部さんの「心」にはどうしても勝てませんでした。勝負とは、自己との戦いです。それは、「技」や「体力」の他に、「精神」との戦いでもあります。

このようにして、ようやく四段に昇段でき、「将棋界で初めての兄弟棋士の誕生」と話題になりましたが、楽しみにしていた給料は思ったよりも低く、がっかりしました。母には、二人の息子が「勝負」、「勝負」で、身を削ぐような苦労をかけていたからです。

4. 妻との出会い

31歳の12月に見合いをしました。話はトントン拍子に進んで結納もすみ、5月に式を挙げるだけになっていました。しかし、給料のこととか、親のことで意見のくい違いが出てきて、婚約解消。結婚について他にも話はありましたが、私が一生を共にしようと考えれる人はなかなか現れませんでした。そんな私を、両親や弟は、いつも励ましてくれました。

1979年(昭和54年)6月、川西能勢口駅近くのビルを借り、弟の秀光九段の協力を得て、「森安将棋センター」をスタートさせることになりました。

それから4年たった1983年8月、私の人生の転機となることがやってきました。父の妹にあたるおばさんが、今の家内(和加恵)を連れて川西へやって来たのです。家内とはこの時が初対面だったのですが、初めて会ったという気がしませんでした。

この日は、川西市民将棋大会で審判の仕事をしていましたので、「明日どこか案内してあげよう」と考えていたのですが、次の日目が覚めると、朝早く二人が帰ったことを母から聞かされました。私は、非常に残念に思いました。ところが、この時、おばさんは5万円を私のために置いて帰っていたのです。私は、これには、はたと考えさせられました。「どう使うか」と考えた末、これを旅費にして、岡山県の瀬戸大橋近くの児島にある家内の実家へ行くことを決めました。私は、今まで女性とはコーヒー一杯飲む間しか話が続かなかったのですが、どういう訳か家内とはいくらでも話が続きました。それに、落ち着いて話ができました。

10月には再び児島へ行きました。この時の私の気持ちは複雑でした。というのは、おばさんから「和加恵と付き合ってやってもらえないか?」と頼まれていたからです。おばさんは、「和加恵が近頃バイクであちこち飛び回り、『次は、四国にしようか、神戸にしようか』等と言っているので、心配でこれ以上放っておけない。交通事故で死なせるよりはまし」と言って、私に頼むのです。

家内には、二人の娘がいました。小さい時に父親と別れたため、父親をほとんど覚えておらず、家の中に男の私がいるのが珍しいと見え、「挨拶しなさい」と言われても、「キャー」とか言って隠れたりしていました。その様子は、私が今まで都会では見たことがない純真さで、かわいらしい感じを受けました。私は、おばさんに結婚を断ろうとしていたのですが、家内の方が一枚上手で、「今年のクリスマスには、お父さんをプレゼントするからな」と子供たちに話しているのです(笑い)。

家内は、若い時から教会へ行っていました。最終的に私が結婚を決めたのは、家内がクリスチャンだったからです。結婚を決めたもう一つの理由は、家内の母親と子供でした。母親もクリスチャンでした。昔の人の言葉に、「母親を見たら娘がわかる」というのがありますが、これは名言だと思います。今までの私にとって、「神様」と言えば、正月に神社ヘ行くことであり、また、叶わぬ時の神頼み的なことでしたが、家内や母親の信仰や生活態度を見ていると、全く違うものを感じざるをえませんでした。

プロポーズらしいことは、なかなか言えませんでした。家内は、私の弟の秀光に頼まれていたらしく、私に女友達を紹介してくれました。紹介しながら、一方では、「正幸さんのお嫁さんなんか、見つからん方がいい」とか、「私をもらってよ」とか言い出すので、私は、いつの間にか家内の積極さに引き寄せられていった、という感じでした。

. 教会に行く、創世記に感動

それから、家内の教会の牧師さんに会うために、「児島聖約教会」という所に案内されました。これが、私が教会に行った最初でした。

牧師さんは、家内のみならず、家内の母親や子供たちの幸せを願っておられましたが、家内の突然の結婚の申し出に、不安を抱かれた様子でした。その時、家内は、「確かに、99%は今のままでも幸せです。でも、最近欠けた1%のところから隙間風が入り出したんです。それで、その1%の幸せに賭けようと思います」と言いました。家内のことを良く知っておられる牧師さんは、「今の幸せは大きいと思いますよ。もし、その1%の賭けに失敗したらどうなるんですか?」と尋ねます。それでも家内は、「手の掌の中の一羽の雀より、藪の中の二羽の雀の方がいい」と言って、牧師さんを説得しました。

それから、その玉井牧師は、私の方に向いて、「愛には、エロスという人間の愛と、アガペーという神の愛があります。教会では、アガペーの愛を教えています」などと色々教えてくださり、私が帰ってからも結婚カウンセリングが受けられるようにと、神戸聖約キリスト教会のクリスチャンソン宣教師を紹介してくれました。

また、玉井牧師から、「この人(家内)は、お宅の宗教には従わないと思いますけど、その時には、この人の信仰を守ってあげてください」と頼まれ、牧師さんの前でそのことを約束しました。私が教会へ行き始めたのは、この時の玉井牧師との「男の約束」を果たすためでした。

1983年(昭和58年)12月19日、神戸聖約キリスト教会で、玉井牧師とクリスチャンソン宣教師両御夫妻のお力で、教会の方々と身内だけの結婚式を挙げていただきました。

そして、クリスマス。家内は子供たちにお父さんをプレゼントしたことになり、私には聖書をプレゼントしてくれました。神が天と地を創られたという創世記は、別世界へ来たような感動を覚えました。聖書を全部通読した私の感想は、旧約では義なる神さまが厳しく思え、新約では優しいような感じで、神さまは生きておられるという実感が確かに伝わってきました。

. 妻は神さまからのプレゼント

結婚前の話になりますが、私は、「給料が低いから、家内に苦労かける」と思って、「毎日ラーメンを食べる暮らしになると思いますよ」と言いました。すると家内は、子供に、「正幸さんが毎日ラーメンを食べさせてくれるよ」と言って喜んでいます。私は、嬉しいというか、何か拍子抜けしてしまいました。精神科に行ったことも、正直に打ち明けました。すると、「そんなもん、誤診に決まっているわよ」と気にもしません。両親の面倒を看なければならない問題については、「当り前よ、私もお父さんを見送っているし・・・。私は、夜勤で一晩に2、30人の病人を看てきたから、どうということはない。まして、よその人じゃあるまいし・・・」といった具合で、全然問題に感じていません。本当に、天性の楽天的で明るい性格です。

今まで私が何回も結婚したいと思いながら、なかなか相手が決まらなかったのは、神さまが家内を私のために選んでくださっていたからだという気がします。

結婚一年目のことです。家内が、「家賃に4万5000円もかけるのはもったいない。家を買おう」と言い出しました。私の給料は安いし、道場からは私の取り分など出ない状態だし、これには困ってしまいました。ところが家内は、「お金なら銀行に行けばあるよ」とケロッとして言うのです。「いくらなんでも1000万円も貸してくれるはずがない」と言ったら、「行ってみないとわからない。行って、行って」と頼みます。私は、仕方なく、あるだけの預金通帳を持って銀行へ行き、収入の低いことや将棋センターの経営状態のことなどを全て話しました。この時が、私が生まれて初めて借金することを考えた時でした。

そして、10日程待ちました。私は、はじめから無理だと考えていたのですが、何と銀行は、初対面であった私に、「よろしい。お貸しします」と返事してきたのです。その時、課長さんが言われた言葉は、「最終的には、人物に対してお貸ししたいと思います」と言うことでした。本当に奇跡でした。これも、家内の信仰の故だと感謝しました。

7. 弱さを神に委ねる

棋士になって今年で30年になります。今振り返って見て、「本当によかった」としみじみと思います。私の弟子で、双子の兄弟棋士の畠山六段が誕生し、現在活躍中です。「将棋界の奇跡」と話題になりました。

師匠の藤内金吾八段(故)は、高島一岐代九段(故)、内藤国雄九段、若松政和七段、小阪昇七段、森安秀光九段(故)、森安正幸六段(私)、酒井順吉六段、淡路仁茂九段、と8人の弟子を育てました。兄弟子の若松七段の弟子に、谷川浩司永世名人もいます。今一門は20名、現役で17名の名門になりました。

弟子を育てることと将棋を普及することは非常に難しく、最近になって藤内師匠の偉大さがよくわかるようになりました。師匠の「アマチュアあってのプロ」、「プロはアマチュアに将棋の普及をする義務がある」の言葉を肝に銘じて、1972年(昭和47年)に、川西で森安兄弟将棋教室を開室。1979年(昭和54年)に、森安将棋センターを開設。1992年(平成4年)に最初の移転、今年の4月に、川西能勢口駅近くに再移転して現在に至っています。

私は、確かに努力して自分を磨いてきました。しかし、有頂天になって失敗すること、初恋で思い詰めて寝込んでしまうこと、失恋で必要以上に落ち込んでしまうこと、負けた相手の幸福など願えないこと、このような弱さを持っているのが、私の本当の心です。また、弟でも勝負の世界においては敵となり、骨肉の情を断ち切らなければなりません。これらのどんなに努力しても抜け出せない弱さを、私は持っていました。

私は、神さまを知ってから、自分自身ではどうすることもできないこれらの問題を、全て神さまにお任せしようと思いました。そうしたら、私の心に光が射し込んで来て、自分で必要以上に思い悩まない心に変えられました。これまで苦しかったことが、不思議な程楽になりました。私の弱く、罪深い心が救われたのです。そして、40歳の時の11月23日に洗礼を受けました。

あれから14年、酒、パチンコ、麻雀、カラオケも行かなくなりました。全て止めれたのは、神さまの力によると思っています。1992年(平成4年)に六段になった時、新約聖書のマタイの福音書6章33節の「神の国とその義をまず第一に求めなさい」から引用して、「順義」という言葉を扇子に書きました。「神さまと共に歩んで行きたい」という決意の表明と、自分への戒めのためでした。

8. 最近の思い出の対局

最近の思い出の対局では、A九段との勝負があります。A九段は、中原名人に挑戦した第36期名人戦第一局に、頭を丸坊主にして対局に臨み、快勝して話題になった棋士です。また、「終盤の魔術師」として有名です。そこで、私は、この終盤の魔術にかからず、落ち着いて将棋を指せるようにと、「主の祈り」をして対局に臨みました。すると、不思議なことに平安と力が与えられ、終盤の魔術にかかることなく勝利することができました。

また、NHK杯戦の予選の時も、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と「主の祈り」をして臨みました。一局目は若手B五段に勝ち、二局目は、関西若手のホープC七段に一回目は引き分けで、二回目に指し直して勝ち、三局目は、D九段が信じられないような手順前後で大ミスをされたため、難なく私が勝つことができました。祈ることによって平安が与えられ、神さまの守りの下に冷静に戦うことができたのが勝因だったと思います。そして、テレビ対局に出ることができました。

9. 森安家最大の奇跡

私が現在あるのは、偉大な藤内金吾師匠にめぐり会えたこと、内藤国雄九段をはじめ、良き一門の兄弟弟子が多くいたこと、貧しい家庭の中、2人も将棋の道に行かせてくれた両親がいたこと、すばらしい家内が与えられたことなどによります。これらは、全て私を愛してくださっている神さまの恵みです。
そして、最大の恵みは、神さまが家内を通して、森安家に救いの手を差し伸ばしてくださったことでした。息子2人をプロ棋士にするために、大変な苦労をした両親は、多くの人の祈りによってイエス・キリストを信じて救われ、神戸聖約キリスト教会の伊藤真理子牧師によって洗礼に導かれました。そして、天国に凱旋して行くことができたのです。森安家のお墓も、キリスト教に変えられました。このことは、森安家になされた神さまの最大の奇跡であり、大いなる恵みである、と私は思っています。
以   上