「兄弟の和解」

NTT 嘉数 誠(かすまこと)

 私は40年前に東京の練馬区で生まれました。父は大手化学メーカーの技術者で新しい技術の発明に情熱を賭けた人であり、人一倍正義感の強い人でした。他方、母は教育に熱心な専業主婦でした。それ以外に私には4歳下の弟が一人います。家族は、大阪、埼玉県和光市を経て、私が小学生になる頃、埼玉県浦和市に移りました。私が大学生になるまでそこで過ごしました。

 私は小学生の頃、弟のことで何か気に食わないことがあると弟の大切な物、例えば教科書、を隠したり、弟をぶったり叩いたりして暴力を振るいしました。ある時、弟が1階で遊んでいると、2階から石を投げてぶつけたりしました。また2階のベランダで弟が遊んでいると、部屋の中から鍵をしてベランダに長い間、弟を閉じ込めたこともあります。ある時は、弟がいじめられた後で復讐してきて、後ろからかなづちのような物で私は頭を殴られ血を出して、病院に行ったこともありました。それは私がクリスチャンになるまで続きました。
 中学生の頃は勉強ができましたが、体が小さいためクラスの友達から良くいじめられました。しかし県立の進学校の高校に入学してからはいじめもなくなり、水泳部、アマチュア無線、生徒会など楽しいことに色々と打ち込みました。しかし高校2年生になると大学受験を意識せざるをえなくなりました。周りの多くの友達は有名な大学を目指している影響からか、私は自分の適性より周りの評判を元に志望大学を選びました。第一志望大学へは自分では1回で合格できると思いこんでいたので、そこしか受けませんでした。しかし結果は不合格でした。さらに次の年も第一志望大学しか受けませんでしたがやはり不合格でした。一浪の一年は、高校の友達が予備校にも一杯いてそれほど傷つきませんでしたが、2年目は予備校にはほとんど友達はいなくなり、かなりこたえました。実は、受験する前は、私は志望大学に合格するのに十分な成績だと思い込んでいたのですが、落ちてから冷静になってみると、とても合格するような成績でなかったことがわかりました。これは合格・不合格以上に深刻な問題だとわかってきました。自分のことが自分でもわかっていないのです!自分のことで自分に信頼できないとすれば何に信頼し、判断を求めたらいいのでしょうか?その時は志望大学の選択を誤った訳ですが、その後の人生でも、選択を誤って、悪い会社に就職して、悪い女の人と結婚してしまうかもしれません。

 2年の浪人生活の後、志望を少し落として関西の大学に合格することができました。うれしかったというより、ほっとしたというのが正直な気持ちでした。「これからは念願していた勉強ができるぞ」と思う反面、人生の選択を自分の価値観に従うならば、同じ様な失敗を繰り返すに違いないという不安も残っていました。

 ところでサークルを探していると一枚のビラが目に止まりました。ベストクラスという名前のサークルで、そこで週一回アメリカ人が英語と聖書を教えてくれるということでした。当時23,4歳のダグラストイート(ダッグ)さんが1時間位英語会話を教えてくれた後、30分位、聖書からの簡単なクラスがありました。ダッグさんとイエスキリストについての話しを聖書から読んで、その内容をディスカッションするというものでした。毎週楽しみにして通いました。正直言うと、その時の聖書の話しの内容はあまり記憶に残っていません。しかし、ベストクラスでのダッグさんやクリスチャンの先輩たちの交わりは、大学のクラスメートたちとの関係とはまったく異質なもののように思えました。例えばダッグさんは一人のクリスチャンの先輩と住んでいたのですが、夕食のシチューライスができ上がった頃、私が遊びに行ったことがあります。その先輩は「嘉数くん、良く来たね。ちょうどシチューができたから一緒に食べるかい」と言ってくれました。そして2人分のシチューは3人に分けられました。そして食べ始めようとするとSさんという人がやってきて、その先輩が「Sくん、良く来たね。ちょうどシチューができたから一緒に食べるかい」といって、いつの間にか、2人分のシチューは4人分になってしまいました。でもダダッグさんも先輩も悪い顔はぜんぜんしないし、何もかも楽しい交わりでした。このような交わりを続けていく内に、聖書はほとんど読んだことはありませんが、クリスチャンになってみたいな、ダッグさんや先輩のようになりたいなと自然に思うようになりました。

 文化祭の準備に終われている11月3日、ダッグさんと笹井さんというクリスチャンの先輩が食事に誘ってくれました。食事が終わってから、ダッグさんが聖書のエッセンスを説明してくれました。

「すべての人は罪人である」(ローマ3:23)

 しかし、私は刑罰を受けるようなことを人にしたことはありませんでした。しかし、私を創造した神から離れて自分勝手な道を歩んでいること自体が罪なのだとわかりました。確かに自分の考えに従って第一志望大学を決めて、失敗したのは、神ではなく自分の能力に頼っていたのです。

罪の結果は霊的な死である(ローマ6:23)

これもよくわかりませんでした。でも、自分の基準に頼り、自分の能力に頼って人生を歩んでいると、私も破滅の道を辿ってしまうでしょう。

神は罪に滅びようとする私を救うために、神のひとり子であるイエス・キリストを遣わし、キリストが十字架にかかって私の罪の身代わりになってくださいました。(ローマ5:8)

神様の言葉を聞いて、神様が遣わしたイエス・キリストが救い主であることを信じるなら、罪から救われます。(ヨハネ5:24)

私は本当にイエス・キリストが私の罪を許してくれるのか確信が持てませんでした。でも「何も自分の内に変化が起こらず、聖書の言っていることがうそだとわかったら、その時にやめればいいじゃないか。本当かどうかやってみよう」と思ってイエス・キリストを救い主だと信じることにし、クリスチャンになりました。

 クリスチャンになった後は、聖書の言葉と祈りを通して、神様が私に対して持っている、ベストの計画を知ることができるようになりました。(ローマ8:28)実際、その後大学院、就職、結婚と人生で選択の時が何度もありましたが、神様はベストの道を教えてくれたと思います。現在の会社に就職することを決める際は、大きな会社だからというのではなく、聖書の言葉と祈りを通して、神様に私に用意している会社を決めてもらいました。しかし私の大学の担当教授は「君の実力ではあの会社で仕事を続けていくのは無理だ。他の会社へ行きなさい。」と言われました。確かに受験勉強すらまともにできない私の能力では、教授の言うとおりかもしれません。しかし私は、神様がこの道を備えておられるなら、必ずその道を開いてくださると確信して、懸命に祈り続けました。その後、教授は推薦状を書いてくれ、その会社からも是非来てくださいと連絡があり、現在の会社に入ることができました。確かに会社での仕事は競争が非常に厳しく、私の能力から言うならば完全に脱落していたでしょう。私は仕事において、競争という意識は全くありませんが、創造主である神様は私の創造力を助けてくださるので次々と新発見、新発明が出てくるのです。また良いクリスチャンの妻も神様は見つけてくださり、4人の元気な子供たちも神様は与えてくださいました。

 さて私がクリスチャンになってから3,4年して弟がクリスチャンになりました。一回だけ無理やり、郷里の教会に連れて行ったのですが、途中で帰ってしまいました。しかし意外にも、私が大学に戻ってから、弟は自分で郷里の教会に通い続け、そのうち信仰を持ち洗礼を受けました。帰省中のある日、弟と別々に教会へ行くと、「今日は礼拝の後で嘉数さんの洗礼をします」とアナウンスがあり驚きました。洗礼式が始まる前に、弟が皆の前で信仰を持つに至った経緯を話したところによると、私がクリスチャンになったとき、弟は「理系のくせに非科学的な奴」と思ったそうです。しかし私がクリスチャンになって以来、(弟によれば)私が全く変わったので、これは奇跡だ、兄の信じた神様は本当にいると確信して、クリスチャンになったそうです。私がどのように変わったのか自分では良くわかりませんでしたが、今になって思うことは、私がクリスチャンになって以来、弟をいじめることが全くなくなったのです。実際、私はクリスチャンになってから、弟をいじめることが全くばかげたことに思えるようになったのです。数年前ですが、弟の家に出張の後泊めてもらった時に、子供の頃、暴力を振るったことをあやまりました。弟は、イエス・キリストが自分の罪を許したようにお兄さんの罪を許しますと言って許してくれました。弟も家族4人の立派なクリスチャンホームを築いています。