「書くことに召されて」

クリスチャン新聞 中田 朗

2009年10月6日
VIP神田駿河台(龍名館)  

 今晩は。クリスチャン新聞の記者をしております中田朗と申します。私は記者としてまだまだ未熟者ですが、このような機会が与えられ、本当に恐縮しております。また、VIP神田駿河台は金融関係の方が多いと聞いておりますが、私はお金の扱いは全くの素人で、我が家のお金の管理は、すべて家内に任せております。なので、黒羽さんから依頼を受けたときに、私のような者がこの場所に立って話をしていいのかなあ、とちょっととまどいました。何はともあれ、「ぜひお証ししてください」と頼まれたので、この場に立たせていただきました。私がこれから話す内容が、ここにおられる皆様がたに何らかの手助け、励ましとなればと願っております。
私は取材先で、いろいろな方とお会いいたします。その中には初めての方もおられるのですが、最近、私の名刺を見て、「あっ、あなたが中田さんですね。クリスチャン新聞を読んでいますので、よくあなたの名前を目にしますよ」と言ってくださる方がおられます。クリスチャン新聞では数年前から、主な記事には署名を入れるようになりました。なので、私が書いた記事にも名前が載るわけです。私はそう言われる度に、本当にいろんな方々がクリスチャン新聞を読んでくださっているのだなあ、自分の書いた記事を熱心に読んでくださっているのだなあと驚いてしまいます。一方で、誰が読んでいるか分からないので手が抜けない、一生懸命書かなければいけないと、責任の重さも感じます。ここにいる皆さんの中でまだクリスチャン新聞を読んでいない方がおられるならば、ぜひ一度読んでみてくださるとうれしいです。

 さて、本日は「書くことに召されて」という題で、お話をさせていただきます。その前に、私の伯父について少しお話をさせていただきたいと思います。私の伯父の名前は中田正一と言いまして、長年、農林省に勤めながら、世界中で農業技術指導をし、晩年はNGOの働きに情熱を注ぎ、ミスターNGOと呼ばれた方です。また78歳の時、千葉県夷隅郡大多喜町に、草の根の国際協力ができる人材育成を目的とした「風の学校」を設立された方でもあります。今、アフリカ、フィリピン、アフガニスタンなどの干ばつ地帯、荒廃した地域で、「風の学校」の井戸掘り技術が威力を発揮し、現地の人々を助けているそうです。その井戸掘りを考案したのが中田正一で、井戸掘り技術を駆使して現地で井戸を掘ったのがその教え子たちでした。中田正一については、関口宏の「知ってるつもり」でも取り上げられたことがあるので、皆様の中でご覧になった方がおられるかもしれません。また岩波新書から『国際協力の新しい風』という中田正一が書いた本も出ています。

 この中田正一はクリスチャンで、秋吉台の聖者と呼ばれた本間俊平の愛弟子でした。本間俊平は、山口県の秋吉台で大理石の採掘をしながら、出獄人や不良者、世間から見放された若者たちと生活を共にし、更生指導にあたった信徒伝道者です。中田正一は山口高校時代に秋吉台を訪れ、本間俊平と出会ったのですが、その生き様に感動し、信仰をもち、以後、足繁く秋吉台に通い続けたそうです。

私は自分の親族の中にはたぶんクリスチャンはいないだろうなあとずっと思っていたのですが、記者になってから中田正一の追悼文集を読み、伯父がクリスチャンであることを知りました。そして、すでに伯父は亡くなっておりましたが、2002年に「風の学校」のある大多喜町まで出かけていき、妻の章子さんとお会いして伯父の話を聞くことができました。
中田正一は、次のような言葉を残しております。「助けることは、助けられることである」。また、「風」という言葉がとても好きだったようです。なぜかと言いますと、「風は自由に国境を超えることができる」からです。
最近、この私も伯父と似たような仕事をしているなあ、と感じるようになりました。伯父は農業技術をもって世界中を飛び回った人でしたが、私は記者という仕事で、教団教派関係なくいろいろな教会に取材に出かけて行きます。大地震や災害が起きればすぐに飛んでいきますし、クリスチャンの国会議員や歌手、俳優、スポーツ選手、また路上生活者にも会って話を聞き、記事にします。必要があれば、海外にも取材に行くことがあります。記者も国境、教団教派の壁というのは、あまり関係がないようです。そういった記者の仕事を通して私は、伯父の言葉ではありませんが、多くの人を助け、また助けられているのだなあと感じています。伯父はあまりにも偉大な方なので、私の及ぶところではありませんが、少なくとも記者として、これからも「風」のような働きをしていきたいと願っております。

さて、「書くこと」についてですが、「書くこと」とは、私の人生のキーワードではないかと思います。実際に、私は記者になる前から、しゃべることよりも書くことのほうが得意でした。また、書くほうが自分の伝えたいことをよく表現できたのではないかと思います。人前に立つと言いたいことが言えなくなるのに、文章ではストレートに伝えることができるわけです。また、私は記者になる前は営業の仕事をしていたのですが、その時も書くことで助けられました。さらに、私の父はあんまり褒めない人なのですが、唯一褒めてくれたのが、私の書いた文章でした。「最近の若者は文章もろくに書けない者が多いのに、朗は結構いい文章書くな」と言ってくれたのです。そういうわけで、書くことは神様からいただいた能力、すなわち賜物だと私は思っております。
しかし、十代、二十代の頃は、それが神様からいただたいた賜物という意識は全くありませんでした。というよりも、「賜物」というアイデアさえ全く知りませんでした。その頃は、「何でも人一倍努力して頑張れば、できるようになる」と信じて、自分の苦手なもの、神様が自分に期待していないことを、苦労して一生懸命やっていたような気がします。そんな経験を重ね、回り道をしながら、やっと三十代半ば頃から、神様は私の「書く」才能を用いられるのではないかと、少しずつ気づき始めたわけです。
では、いつ書くことを始めたのでしょうか? それは、高校時代の時でした。この時に私は、不思議な形で記者としての土台となる文章力が磨かれたようです。
ここに、1冊の本を持ってきました。ご存じの方もいるかもしれませんが、高野悦子さんの『二十歳の原点』という本です。私はこの夏、三十年ぶりに神田神保町の三省堂で『二十歳の原点』を購入し、読み返してみました。
『二十歳の原点』は日記です。時代はまさに安保の時代です。著者は世の中の矛盾や政治に対する不満を日記にぶつけます。また、自分は孤独だ、寂しいと心情を赤裸々に日記に綴っているのです。そして、著者はこの日記を遺し、20歳の若さで鉄道自殺をしてしまうのです。そんなわけで、この本は皆さんにはあまり一読をお勧めできません。ただし、この本の内容が、当時の私の心情にピタッとはまったんすね。そして私も、「高野悦子さんのように、世の中の矛盾、社会、家族への不満や怒りを日記にぶつけよう」と思ったわけです。
ちなみに、当時の私の家庭環境はとても複雑でした。私が中学生の時、一番上の兄が統合失調症に罹りました。兄は幻聴により、突然笑い出したり、食事中に暴れ出したり、食卓のものをひっくり返したりすることがありました。父は兄の病気になすすべもなく、結局、入院させました。

その父は中田修と言いますが、精神科の医者でした。連続女性殺人犯の大久保潔の鑑定をしたことがある、犯罪精神医学界ではかなり有名な人です。父はエリートで、東大医学部を卒業し、東京医科歯科大学の教授、また精神鑑定医として活躍していました。しかし、私にとっては、学歴主義の怖い父、精神科の医者でありながら、自分の息子さえ治療できない尊敬できない父でした。私が何か勉強で分からないことがあって父に質問しにいっても、「こんなのも分からないのか。バカめ」とよく言われました。このひと言で、何度やる気をなくしたかしれません。それが嫌で、結局、私は父と話をしなくなり、部屋に閉じこもるようになってしまいました。
その部屋の中で一生懸命していたのが、日記を書くことです。それも、世の中のしくみを批判し、学歴のある者だけが重んじられる社会に憤り、父や母に対する不満を綴った「恨みの日記」でした。今思うと、自分でも凄いなあと思うのは、この日記を後世に残すために、日本語として美しく、しかも内容がよく伝わる文章にしようと、谷崎潤一郎の『文章読本』を買って読み、研究しながら書いていたのです。そして書いていくうちに、だんだん文章を書くことに熱中するようになりました。結局、その「恨みの日記」は大学ノートで3冊にもなりました。

しかし、高校2年生の時に最初の転機が訪れます。神様は、部屋にこもって「恨みの日記」を一生懸命綴っている私を哀れに思ったのでしょう。同じクラスに矢田幹太君という、一人のクリスチャンを備えてくれたのです。2学期が始まったばかりの頃、矢田君は私を高校生のための楽しい集会があるから来ないかと、1枚のチラシを見せながら誘ってくれました。そのチラシには「アイスクリーム食べ放題」と書いてあったんですね。私はアイスクリームに釣られて、一緒に行ったのです。それがHi-b.aのアイスクリームパーティーでした。

Hi-b.aは高校生聖書伝道協会と言って、高校生のための超教派の集いです。私はまさかキリスト教の集会だとは思っていなかったので、最初は「だまされた」と思いました。しかし、高校生がみな、楽しそうに「イエス様は私のすべて」と賛美していたのです。その姿にすごくひかれたんですね。その時、当時、Hi-b.aのスタッフだった吉枝隆邦さん、高橋和義さんから1冊の新訳聖書をいただきました。そして、アイスクリームパーティーをきっかけに、矢田君と一緒に毎週、吉祥寺にあるHi-b.a集会に通うようになったのです。
ここで一つ、面白いエピソードがあります。当時の吉祥寺集会の担当スタッフは、今は立川駅前キリスト教会の牧師をしておられる高橋和義先生でした。高橋先生は数年後、Hi-b.aの同窓会で私にこんな打ち明け話をしてくれたのです。「中田君、君は毎週欠かさずに集会に来てくれたね。でも、実は集会前、僕はこう祈っていたんだよ。『どうか、たくさんの高校生が集会に来ますように。でもあの中田君だけは来ないようにしてください。彼の眼光はするどく、しかも身体が大きく、八倒されそうで、とても怖いのです』。神様はね、この祈りだけは聞き届けてくれなかったんだよねえ」。まあ、今の私はこんな感じですが、当時の私は、全身から怒りのオーラが漂っていたようです。
そして、この高校2年生の秋に、私はいただいた聖書をむさぼるように読み始めたのです。マタイの福音書から順々に読んでいきましたが、最初に目に止まったのが5章の「山上の説教」の中の「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです」という御言葉でした。
私はこの言葉に、全く心が捕らえられてしまいました。「喜んでいる人、富んでいる人が幸いならば私にも理解できる。なのに、イエス・キリストはなぜ『心の貧しい者は幸い』だと言ったのだろうか?」私は不思議でなりませんでした。
半面、その言葉はその時の自分の心情にもピッタリ当てはまりました。「自分は確かに悲しんでいる。心も貧しいと思う。でも、それを幸いとは、どういうことなのだろうか」と。後で知りましたが、「心の貧しい人」とは、自分が全くの破産者で、神様に頼る以外に道がない状態の人間だということだそうです。そして、そういう人にこそ、神様は共にいてくださるというのです。
このイエス様の逆説的な言葉に接してから、私はますます聖書にのめり込んでいきました。そして、読んでいくうちに、イエス様の姿、特に貧しい人、苦しんでいる人、罪人に対し、優しい視線を投げかける姿に感動したのです。「この方は本物だ」。私は直感で、そう思いました。そして、その年の11月に吉祥寺集会で伝道集会が行われたのですが、その時、ケネス・クラークさんという宣教師がメッセージをしてくれました。話の内容は全然覚えていませんが、最後に「イエス様を救い主として信じる人はいませんか」と招かれた時に、自然と手を挙げていたことを覚えております。そのあと、クラーク宣教師は私を個人的に導き、エペソ人への手紙2章8、9節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。行いによるのではありません。だれでも誇ることのないためです」という聖句をプレゼントしてくれたのです。
さて、「恨みの日記」がその後、どうなったかについて少し触れさせていただきます。私は信仰をもってからも日記を書き続けていました。しかし、相変わらず家庭の状況は変わらず、御言葉も引用しながら恨み辛みばかり書いていました。例えば、「『父と母を敬え』なんて、私にはとてもできない」、「7を70倍にして赦せ、なんて無理だ」などです。その後、私は大学に入ってから、KGK(キリスト者学生会)の活動にかかわるようになり、その学びを通して自分がどんなに罪深い人間なのかを悟りました。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」(ローマ7・20、2)。このパウロの告白は、まさに自分のことだと実感したのです。しかし、イエス様は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために」(マタイ9・13)来られたこと、そんな私のために十字架にかかり死んでくださったこと、私の罪を全部帳消しにしてくださったこと、そして神様と私との関係を回復してくださっただけでなく、神様の子どもにもしてくださったことがはっきりと分かりました。そして、大学1年のある日、私はあることを決心し、実行しました。私は、あの「恨みの日記」を家の近くの原っぱで、全部燃やしたのです。その時、日記の中に込められた、恨み辛みが全部消えていくようで、全部燃やしてしまった後は、本当に心も体も軽くなったことを思い出します。

 次に大学を卒業してから、今日に至るまでについて、触れさせていただきます。私は1983年に日本大学農獣医学部農学科を卒業したあと、2年ほど、東京都国立市にある安全食品普及センターという有機農業の普及を目的とした、社長がクリスチャンの会社で働きました。そこでは、会員に旬の有機野菜を届けたり、国立市にある農家で農業実習などを体験させていただいたりいたしました。
その後、東都生活協同組合に入社し、府中にある多摩支部に配属されました。仕事は主に、注文を受けた商品を仕分けし、4,5人の組合員で構成された班を配達して回ることでした。組合員はほとんどが、安全志向の主婦の方々でした。この仕事を始めてからは、毎日が車中での生活で、多い時には1日10時間、商品をいっぱい載せたトラックを運転していました。私は就職のために大学4年の時免許を取ったので、最初は運転に苦労し、慣れるまで本当に時間がかかりました。まだカーナビなどない時代で、道を覚えるのにも苦労し、狭い道を通り抜ける時にはミラーを電信柱にぶつけて壊したり、キー閉じ込みでJAFを呼んだりしたことを思い出します。荷物の置き忘れや誤配も多く、置き忘れた組合員のところにまた戻って置きにいったりしたので、多摩支部に戻るのが夜10時過ぎのこともしばしばありました。仕事がこんな状態でしたから、冷徹な多摩の支部長からは、「お前みたいな者は役立たずだから辞めてしまえ」と、何度も言われました。
幸い、その支部長は1年後に他の支部に異動となり、違う支部長が配属されました。今度の支部長はとても面倒見のいい方で、私にも手取り足取り仕事を教えてくれました。そのお陰で、入社2年目からはミスも少なくなり、私の担当する地域では注文も増え、また組合員も増えていったのです。そして、仕事に少しゆとりが出てきたので、あることを始めました。それは「担当者だより」を作って配ることでした。
「担当者だより」では四季折々の野菜について、有機野菜と市販の野菜との栄養価の違いについて、東都生協の目玉商品だった低温殺菌の牛乳、有精卵の卵がなぜ安全で栄養価が高くおいしいのか、について、学んだ知識を交え、自分が食べたり飲んだりした感想なども盛り込みながら、エッセイ風に書いたものです。これを毎週、別の商品案内と一緒に配り始めました。そうしたら、それを読んでくださった組合員から、「毎週、楽しみに読んでいます」という反響が、結構あったんですね。そして、強引な勧誘をしなくても、なぜか組合員が増えていったのです。それは組合員の方々が私の代わりに「この商品いいから、あなたもぜひ入ったら」と、近所の方々に勧めてくださったからだと思います。そのようにして、組合員がどんどん増えていったのですが、ある日、遂に都内にある全支部の中で、私が組合員獲得数のトップになりました。「あのミスばかりの、運転も下手だった中田が〜」と、みな驚いておりました。ある職員は「組合員獲得の秘訣を教えてくれ」と尋ねてきた方もおりました。
組合員が増えた理由としては、まず支部長が替わったことと、仕事にも慣れ注文を受けたものを間違えずに確実に届けることができるようになったこと、もう一つはやはり「担当者だより」のお陰だったのではないかと思っております。この東都生協には約3年間勤めさせていただきました。最初はどうなるかと思いましたが、本当にいい経験をさせていただきました。
その後、私は献身し、88年に神学校に入学しました。そして3年間、聖書の勉強をさせていただきました。やはり、心のどこかで「神様のために直接働きたい」という思いがあったわけです。しかし、この3年間は私にとっては荒野でした。聖書を組織的に深く学べた貴重な時期でもありましたが、「自分にはこの世界には向いてない」ことを思い知らされた試練の3年間でもありました。その理由として、語学力と音楽の能力が挙げられます。私は中・高・大学で英語を本格的に学んだ経験がなく、しかも非常に苦手でした。しかし、神学校では英語の授業も多く、その時は英語がまるで暗号のように思えて全然分からず、全くのお手上げ状態でした。 さらに参考文献も英語のものが多かったため、調べるのに苦労しました。一方、ほかの神学生の多くは牧師やクリスチャンホームの娘、息子で、北米出身だったり、小さい頃から英語に触れてきた人が多いでした。お陰で私は、極度の英語コンプレックスに陥ってしまいました。
また、音楽ですけれども、私は音楽を聴くのは大好きなのですが、楽器はほとんどできません。たまにギターを奏で、ピアノの鍵盤をたたくぐらいです。ところが、先輩や同級生のほとんどは、ピアノやギターなど上手な人が多く、礼拝の奏楽をしたり、教会のメンバーとバンドを組んだりしている人が多かったのです。さらに、司会進行の上手い人、リーダーシップをもっている人、スピーチが上手な人、子どもに聖書のお話をするのが上手な人、イベント的なものが得意な人、よく気が利く人……。その半面、牧師家庭やクリスチャンホーム育ちでなく、協調性にも欠け、気が利かない私にできることは、ほとんどありませんでした。まさにスタート時点で、大きな格差があったわけです。
「信仰と情熱」だけで献身し、神学校に入学した私でしたが、結局最後は一人浮いてしまい、自分の居場所を見つけることができなかったのです。それでも何とか頑張って卒業までこぎつけましたが、心のどこかで「私は牧師にはなれないだろうなあ」という思いがいつもよぎっておりました。
実際、その予感は当たりました。卒業の2か月前、お世話になった母教会の牧師から、直接こう言われたのです。「あなたは、これからは信徒として仕えなさい」と。「牧師・伝道師には不適格」という宣告を受けたのです。卒業後、同級生がみな教会の副牧師、伝道師、あるいは宣教師として遣わされていく中で、私一人だけ、道が閉ざされたわけです。
私は、神様に祈りました。「この神学校での3年間は、一体何だったのか?」と。しかし、神様は御言葉をもって私を励ましてくださったのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13・5)、「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14 ・18)。神様は一つの道を閉ざされましたが、その時すでに、私のために別の道を用意しておられたのだと思います。
卒業後、私は次のステップを求め、2つのことを実行しました。一つは、約10年間お世話になった教会を替えることでした。もう一つは就職です。いろいろ考えました。せっかく3年間聖書の学びをしてきたのに、今更、一般の企業に勤めようという気持ちにはなれなかったのです。そんな時「百万人の福音」を読んでいたら、「いのちのことば社卸部アルバイト募集」の広告を見つけたのです。「いのちのことば社なら、働きながら宣教の一端を担うことができる」と思い、すぐに電話をし、当時、飯田橋にあったいのちのことば社卸部で働くようになったわけです。
仕事の内容は主に、日本全国のキリスト教書店ごとに注文を受けた書籍を仕分けすることでした。倉庫は昼間でも薄暗い場所でしたが、いろいろな信仰書に囲まれた倉庫内はまるで図書館のように思え、信仰書をいっぱい買って読むことができたので、傷心の私には絶好の環境ではなかったかと思います。最初の3年間はアルバイトで働きましたが、そのうち正社員になり、やがて外に出て行き、車で教会回りをしながら本・CD・用品などを販売するライフサービスの仕事をするようになりました。
私の担当エリアは埼玉地区で、仕事の内容は埼玉方面の教会やキリスト教主義の幼稚園、病院などに、聖書、信仰書の新刊本、四季折々のグッズ、CDなどを配達することでした。ライフサービスを命じられた時は、正直言って「また車の生活か」と、本当に嫌で、嫌でたまりませんでしたが、会社の命令には逆らえません。この時も、最初の1年間は、教会の牧師、図書係との人間関係をつくるのに大変苦労しました。しかし、だんだん仕事にも慣れ余裕が出てくると、またあれをやってみようかと思ったわけです。そう、あの「担当者だより」です。配達する物は野菜や生鮮食品から、本、CD、グッズに変わりましたが、仕事のスタイルはほとんど変わりませんでした。だから、本の内容やCDの感想を書いて配れば、牧師や信徒の方々が読んで買ってくれるのではないかと、そう思ったわけです。それで、仕事が一段落ついた後に、ワープロで「担当者だより」を書き始めました。基本的に、毎月2冊ぐらい本を読んで、教えられたことや、こんな人に読んでもらいたいなど、感想と推薦文を書いて配りました。これがまた、私の営業を助けることになりました。牧師や図書係の方々が結構読んでくださり、それによって本やグッズ、CDも買ってくださったのです。
やがて、「担当者だより」も結構な分量となりました。すると、当時、卸部で一緒に働いていた結城さんという人が、これを、1冊の小冊子にすることを勧めてくれたのです。それで、私はリソグラフで小冊子をつくりました。それが、この「宅配便の落とし物」です。これはパート10までいきました。この「宅配便の落とし物」は、配達地域の教会だけでなく、出張販売に行った時にも配ったり、各キリスト教書店にも送ったりしました。そして、これがまた評判を呼んだのです。今でもキリスト教書店のある店長からは、「『宅配便の落とし物』は面白かった。また書いてほしい」と言ってくださいます。

 さて、この「宅配便の落とし物」が、私の人生を大きく変える転機となりました。当時、守部喜雅というクリスチャン新聞の編集長だった方がある時、たまたまこの「宅配便の落とし物」を読んだそうです。そして「中田君は文章が書けるみたいだから、ぜひ新聞編集部に呼んでみたらどうだろうか?」ということになったそうです。それで、私は1999年に営業から編集に異動となりました。ちなみにいのちのことば社では、営業部から編集部への異動は極めて珍しいケースだそうです。

最初の1年間は、出版部でパソコンの使い方、編集の仕方を学びました。そして、2000年からクリスチャン新聞の記者として働き始めました。なので、記者になったのは割と最近です。皆さんの中には、私が20年以上、記者をやっているのだと思っておられた方もいるかもしれませんが、実際はまだ記者になって10年も経っていないのです。
記者としての最初の仕事は、有珠山噴火で被害にあった教会への電話取材でした。この年はその後、三宅島の全島避難、鳥取県西部地震、東海豪雨など立て続けに天災に見舞われた年でもあり、その取材をすべて私が担当させていただきました。お陰で私は天災記者と呼ばれるようになり、以後、今日に至るまで、災害が起きた時はなぜか私が担当することになってしまいました。そして、最初の現場取材が、このインターナショナルVIPクラブでした。
その後、私は教会学校の活動を取材したり、ビジネス面を担当したり、ハンセン病患者が生活する療養所やホームレス生活者の現場を訪問してルポしたりしました。また、2002年日韓共催ワールドカップの時には韓国のキリスト教新聞社の記者と協力して、日韓両国のスポーツ伝道の現場を取材させていただくという貴重な体験をさせていただきました。その後、私は仕事を通して韓国と深いかかわりをもつようになります。この韓国とのかかわりについては、面白いエピソードがたくさんあるのですが、時間の関係上お話しできないので、またの機会にお話しできたらと願っております。
それから、感謝なことに、私の取材がきっかけで本やトラクトになったものもあります。その一つが、プロゴルファー中嶋常幸氏の復活物語を描いた「ロープ」です。これは中嶋プロが7年ぶりのツアー優勝を遂げた時に、妻の律子さんに電話取材をし、当時、中嶋プロをはじめ、中嶋家に起こっていた信仰復興・リバイバルについて伺ったことから始まりました。その内容があまりにも感動的だったので、新聞部内ではただ連載にするだけではもったいないということで、本にする企画が持ち上がりました。それで、私は古川真実子という女性編集者と協力し、彼女が律子さんから聞いた話をまとめ、私が中嶋プロにインタービューしたものを10回シリーズの連載にし、この2つを合体して、「ロープ」が誕生したのです。この本は、私の取材から始まったということで、とても思い出深い本の一つです。
また、CD付トラクト「きみは愛されるため生まれた」も、思い出深いものの一つです。これは、長崎で少年犯罪が起きたときに、地域の教会に電話取材をしたことから始まりました。私は長崎市内にある数教会に電話取材をしたのですが、その中の一つ、長崎バプテスト教会の友納靖史先生が「『きみは愛されるため生まれた』という韓国のゴスペルが、家出少年たちの癒しとなっている」という話を聞いたのです。私は、その話を新聞と雑誌「百万人の福音」に書きました。その後、友納牧師は、この歌のCD化を思いつきます。そのビジョンをいのちのことば社ライフ企画に伝えたことがきっかけでCD「きみは愛されるため生まれたALL FOR YOU」が生まれました。また05年ですが、トラクトを制作・発行しているEHCのあるスタッフがこの記事を読んで感動し、ぜひCD付トラクトを制作したいとの申し入れがありました。同じ頃、あの「冬のソナタ」で日本中にブームを巻き起こしたヨン様ことペ・ヨンジュンさんは、この「きみは愛されるため生まれた」がお気に入りの歌で、ファンミーティングでもよく歌っているという情報が入ってきました。余談ですが、私はたまたまその年の4月に韓国に行く機会があり、ある韓国人の方のつてでペ・ヨンジュンさんの事務所であるBOFを訪れることができたのです。あいにくペ・ヨンジュンさんは「四月の雪」の撮影でいらっしゃらなかったのですが、ペ・ヨンジュンさんのチーフマネージャーとお会いすることができました。その方ははっきりと、「確かにこの歌は、彼のお気に入りの歌です」と、おっしゃっておりました。また、この訪韓の時に、作詞・作曲者のイ・ミンソプさんとも初めてお会いすることができ、この曲がどうして生まれたのか、どんな思いでこの曲を作られたのか、お話を聞くことができました。今思うに、あの訪韓は、すべて神様のお導きだったと言えます。さて、これらの情報を整理し、私はトラクトの文章を書かせていただきました。こうして、CD付トラクト「きみは愛されるため生まれた」が誕生したのです。
さらに、最近出版されたこの「奇跡の歌」も、私の取材がきっかけとなって本になりました。著者のベー・チェチョルさんは、「アジア最高のテノール歌手」と言われ、将来を嘱望されていた方でしたが、05年に甲状腺ガンに罹り、手術でその美しい声を失ってしまいました。しかし、彼の歌を聴いて感動した輪嶋東太郎さんという日本人プロデューサーが助けの手を伸ばし、日本で声を回復させる手術を受けて、昨年12月、奇跡的に舞台復帰を遂げるのです。その復活までの道のりには様々なドラマがあり、本当に感動的です。ぜひ、一読をお薦めいたします。
このように、神様の深い恵みと憐れみにより、この小さな者が、このような形で神様に用いていただくことができ、主の御名を崇めます。

 さて、クリスチャン新聞記者、いのちのことば社の職員として働いてきた経験を通して教えられていることを一つお分かちしたいと思います。それは、日本における効果的な福音宣教についてです。日本では、いまだにクリスチャン人口が1%しかいないと言われ続けております。何とかこの1%の壁を破りたい、ではどうしたらその壁を破れるのか? 効果的な日本宣教のあり方とは何なのか? 多くの先生がたが、試行錯誤されていると思います。
でも、いのちのことば社の職員として働いてきた私の中には、神様が日本でなさろうとしている効果的な宣教方法とはこれなのではないのか? というものを見させてもらっております。しかも、いのちのことば社の職員は、たぶん意識する、しないに関わらず、日本のオリジナルな宣教方法として、この方法を有効に用いてきた実績があります。では、それは何なのか? それは、「弱さ」、しかも「半端ではない弱さ」を用いるということです。
キリスト教書籍の商品の中で、最も読まれ、売れている商品を見てみると、それがよく分かります。例えば、三浦綾子さんの小説、星野富弘さんの詩画、水野源三さんの詩、90年代はレーナ・マリアさんの本とCD、最近では自動車事故で身体中に大やけどを負ったイ・チソンさんのエッセイなどです。そして今月、「奇跡の人」が出版され、昨日からベー・チェチョルさんの日本コンサートツアーが始まりましたが、このベー・チェチョルさんのお証も結構反響があるだろうと予測できます。
共通しているものはなんでしょうか? それは、みなハンディキャップをもった方々、不治の病と戦ってこられた方々、大きな痛みを経験してきた方々、つまり「弱さ」をもった方々です。しかも、このような方々の本、CD、用品は、よく読まれ、よく聞かれ、よく用いられ、しかも継続的に売れているのです。また、キリスト教という垣根を越えて、一般の人々にも共感を与え、クリスチャンでない人たちの間にもファンや愛読者が多いという傾向があります。この本の売り上げ数、一般の人々への浸透力を見ても分かるように、日本の宣教には、この半端でない弱さ、痛みを経験した方の証が特に有効ではないかと私は思っております。そのヒントが、最近出版されたばかりの「奇跡の歌」に書かれていたので、ご紹介いたします。ベー・チェチョルさんの奥様が書かれた文章です。
「この復活の舞台の実現は、韓国では不可能だったと思っています。日本の方々が助けてくれて可能になったのです。日本の方々は、何というか、弱っている人と一緒にその痛みを感じるという温かさがあり、音楽家の実力だけを見るのではなく、その人の痛みや人生までをも含めて音楽を理解してくれるということを感じました」
実は、聖書にもこの奥義が書かれています。第一コリント1章にはこうあります。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」(27、28節)
神様の方法は、時に私たちの思い、常識をはるかに越えた方法で行われるようです。いのちのことば社は、商品づくりの中で、このような日本人に届く宣教のアプローチへと導かれました。日本宣教を考える上で、なぜハンディキャップの方々の本が売れるのか、大きな痛み、苦しみを経験された方々の証が読まれるのか、一度じっくり考えてみるのも面白いかもしれません。

 最後に、私自身を解放してくれた「賜物」というアイデアについてお話しして、終わりにしたいと思います。
聖書には信仰、預言、奉仕、教える、異言、見分けるなど、いろいろな賜物が挙げられています。ここにいる私たちも、皆、一人ひとりが違った賜物を与えられていると思います。才能は努力して勝ち取るものでなく、神様から与えられるもので、それを育てて用いることが御心だということを知った時、私は本当に解放されました。
先にお話ししたように、私は10代、20代の頃は、この賜物というアイデアをもっておりませんでした。当時の私の価値観は、アニメ「巨人の星」ではないですが、才能というものは何でも努力と根性で勝ち取れるものだと考えていたのです。しかし、人間は誰にでも得手不得手があります。どんなに一生懸命頑張っても、その人の頑張っていることが「賜物」でないなら、何十倍ものエネルギーを注いでもうまくできないのかもしれません。
しかし、「書くこと」が神様からの賜物だと確信し、またその賜物を用いることを始めてから、私の人生は本当に楽になりました。しかも神様は、私が高校時代、世の中の不平不満、人を批判し攻撃するために使っていたこの賜物を、人を助け、励まし、応援するために用いられたのです。そのことを考える時、神様ってすごいことをなさるお方だなあと、驚かされます。
また、「賜物」について理解すると、自分を誇れなくなります。なぜなら、「賜物」は神様からの与り物で、もともと自分のものではないからです。自分の能力は神様からの与り物だと受けとめて用い始める時、誇り、高ぶり、自慢から解放されるのです。
また、「賜物」を理解することによって、自分にない良い賜物をもっている方々をうらやむことからも解放されます。それどころか、私は自分にないその「賜物」を一緒に喜べるようになりました。「賜物」というアイデアを知らなかった時は、自分にないものをもっている人がうらやましくてなりませんでした。そして、自分と比較して、「何で自分はもっていないのだろう」と劣等感にかられるわけです。神学校時代が、まさにそんな状態でした。しかし、今はそれを喜べるだけでなく、そういう方々を記事で紹介して応援したくなります。また、すばらしい賜物が与えられているのに気づいていない人がいたら、「その賜物は本当にすばらしいからもっと用いたら」と教え、励ましてあげたくなるのです。
新聞記者の働きの一つは、ドミノの最初の駒を、ちょこんと倒すようなものです。一つの駒が倒れれば、後の駒もバタバタっと倒れていきますね。今まで全く知られてこなかった、すばらしい賜物をもった方々、良い働きを始められた方々を、記事を通して広く紹介していく。そしてその記事を読んだ方々が、その方々を教会に招いたりし、その人の活動を支援するようになっていく。そのお助けをすることが、新聞の使命の一つではないかと思っております。
その使命を果たすために、私は記事を通して、多くの方々の活動を助けたい、本当にすばらしい賜物をもった方々、良い働きを始められた方々の応援団でありたいと常に願っております。また、そうすることで、伯父の言葉ではありませんが「助けることは、助けられること」を実践し、体験していきたいと願っております。本日は、ありがとうございました。