イエスさまは 100% 愛、100% 善、100% 私たちの味方

歯学博士 佐藤 義高

インターナショナルVIPクラブ品川 でのスピーチ

 今日は金森様をはじめ皆様にこのような機会を与えて下さいましたことを本当にありがとうございます。感謝致します。今練馬区でサトウ・デンタルクリニックという歯科医院を一応やっております。一応やっているというほうが適当だと思います。あとは想像におまかせ致します。金森様は何をやっていますかといいますと一応銀行員をやっています。しかし、本当にやっていることはイエスさまのメッセンジャーなんですよね。佐々木先生も一応弁護士ということで自己紹介をなさっておられましたので私も真似を致しました。
 第1回の集会は三谷先生、2回目は金森様で、お二人ともすばらしいお方なので、気がひけたのですが、強い賢いすばらしい代表選手として、三谷先生、金森様がおられる、そういう方も神の家族には必要なのですが、ところが、聖書を読みますと、とるに足らない弱いものそういうものももちろん救われて神の家族になれるわけですが、どちらが多いかと言えば、やっぱり弱くて悲しくていじめられている人の方が多いのではないかと思います。そういう人を代表して、私の証しもいくらか価値があるかもしれないと思い、今回お話しをさせて頂くことになりました。

 今回のテーマとしてこんなことを考えてみました、
(1)「劣等感のかたまりの男、いじめられていた弱虫の男でも本当に幸せになれるか、
(2)神様は強い人も弱い人もおつくりになり、金持ちも貧しい人もおつくりになり、頭のよい人も、それほどでもない人もおつくりになり、また健康な人とそうでない人もいる。そういうことで、はたして神様は公平といえるのか。この二つは私の深刻な人生のテーマでした。これは自分の生涯でもって解決していかないと、神様は良い方、愛なる方、公平な方と、言うには言っても、説得力が伴わないのです。

 私は歯科医師の長男として生まれましたので、何も迷うことなく歯科大学に行ったのですが、私の母が牧師の長女でした。母が歯科医師にとついで、私が長男として生まれました。私の祖父は、静岡の安倍川の近くで教ライ事業といいまして、ライ病の方のお世話をさせて頂く、そういうことをしていた牧師で飯野十造といいます。子供が7人いました。その長女ルツ子が歯科医師にとついで私が生まれました。私は歯科医師の息子ですが、牧師の孫という血が流れています。

 私は小さい頃から、体が小さいだけでなく病弱でした。体がちいさくて、おまけに私は気が弱くて、おまけに病気がち、そういうわけで学校に行くようになると、急にいじめられるようになりました。その原因はいくつかあると思います。ひとつは、特別かわいかったということでした。田舎なのに僕だけがおかっぱで半ズボンをはいていたので、同級生や上級生からもいじめられたのです。人生を悩み始めたのが、小学校一、二年生なんです。本気で悩んだのが小学校三年生でした。

 僕はある決心をしました。幸せなるためには、男は強くならなければならないと。劣等感が身について、それからのがれようと本気で柔道をならい始め、中学で黒帯、高校で二段、高校二年の時、群馬県学年別個人選手権大会で三位になりました。結構強くなりました。高三になり大学受験を経て日本歯科大学に入りました。

 柔道をやっていましたので、体重が82kgになり、今度はスマートになりたいと思いました。柔道は相手をつかめば勝てるのですが、喧嘩すると相手をつかむひまはないので実践的でないのです。次は剣道と空手ときたのです。剣道は防具が38,000円、空手は、けいこ着が1,800円なので、その当時はあまりお金がなかったので空手部に入り、6年間やって空手二段になりました。

 このようにNo.1になることで幸せを求めました。そうしなければ劣等感から解放されないと思っていましたから。しかし強くなっても上をみればきりがないのです。大学を卒業して空手をやめ、大学院を卒業して良き妻が与えられ、西武池袋線の桜台で開業し、仕事の面で励みました。

 私は大学院の矯正科を卒業しましたので、歯科矯正を中心に一般診療をしたいと思い、保険を扱わないクリニックとして開業いたしました。保険を扱わないクリニックというと、相当有名な先生でないと患者さんはこないのです。実際来たとしても、保険を扱わないと知るとほとんど帰ってしまうのです。それでも必死で二人で一生懸命祈ると、患者さんがだんだんとついてきました。そのとき、人間のおつきあいの仕方を勉強させて頂きました。私の先輩など「診てやる」という態度の人が多いのですが、私たちのクリニックでは保険を扱っていませんから、そういう態度でやっていれば絶対患者さんはこないですから。こびるというところまではいきませんがお客様扱いでした。しかしこのことがあとでとても役に立ちました。

 そして私は、人間は二つのものに敏感であるということに気がつきました。一つはお金、一つは痛みです。このふたつを安心して頂くと、人間は信頼して下さると実践的に知ることができました。学生時代は強くなりたいと思いましたが、開業してからはお金をかせぎたいと思いました。今はないのですが、その当時は事業主報酬といっていました。事業主でありながら自分で自分の給料をもらうということですが、一所懸命働きました。

 当時は家内の父が、日本歯科医師会の副会長をやっていました。資料室には日本中のデータがありますが、父が「おまえの事業主報州は東京一だ」と言いました。もちろん規模的にもっと大きく代診を何人もつかって何件もやっている歯科医はたくさんいました。しかし個人においては東京でトップだと言われました。正しい意味で節税をするために事業主報酬を高めたためです。当時の多額納税者の本に名前が載りました。

 今はNo.1の話をしているのですが、私は思いますがお金ってそんなに簡単に入ってきませんよね。お金というのは命とひきかえで入ってくると思いました。私はお金をもうけるためこれだけ一所懸命やっている。たくさんの税金を払わせて頂くというのは日本の国に貢献しているわけですから無駄ではないけれど、どうせなら神の国のためにこの命をすりへらしたいと考えるようになりました。

 皆様の中にはクリスチャンの方が多いと思います。しかし、まだクリスチャンがどういうものかはっきりつかんでない方がおられますなら、アドバイスをさせて頂きます。絶対的に聖書を読む量に比例します。聖書を圧倒的に読むこと、そしてわかってもわからなくてもよいですから、とにかくイエスさまにお祈りすること。どこからはじめるかというと、最初は全然わからないけれど、その時間をつくること、それがきっかけだと思います。今まではNo.1を求めて、歯科医師としてある程度成功らしきところまでいきましたけれど、自分の人生を本気でもう一度考えはじめました。

 永遠的な神様の国、イエスさまの働きのためにほとんど何も貢献していないし、これで一生終わってしまうのはむなしいような気がしました。そしてヨハネ 15章 4 - 5「わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたにがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができない。わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしから離れてはあなた方は何一つできないからである。」

 18歳で洗礼を受けてクリスチャンになったのですが、ほとんど聖書を読まない、お祈りしないクリスチャンでした。ところが25歳位から本気で聖書を読み、お祈りするようになっていきました。聖書の中のこういうところが少しずつわかってきたのです。それまでは、クリスチャンというのは名ばかりでした。イエスさまからほとんど離れたままで、自分が強くなりたい、自分がやらなきゃだめ、自分が、自分が、と思っていました。

 ある程度、人間的にはいくのですが、なにせ疲れは罪ではないけれど、罪と等しい効果があります。自分がやっているから疲れるんですよね。疲れるとどんなに仕事がうまくいっていても、たとえどんなにお金が入っても、人生がいやになってしまったり、心のなかに不満やうっぷんがたまってしまうわけですよね。何のために強くなったのか、何のためにお金をかせぐのか、結局、幸せや喜びはないわけですよ。

 もう一度聖書の原点にたちかえって、クリスチャンというのは、一体どういうものかということを見直した時、クリスチャンというのは、ぶどうの木であるイエスさまにつながっていればいいんだ。つながっているなら、自分でやらなくても「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。もし人がわたしにつながっており、わたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる」。イエスさまから離れては何もできない。ここのところが、もう一度目が開かれて、自分は、自分一人で強くなりたいとか、成功したいとかやっているけれど、これでは先は真っ暗だ。もうひとたび、ここで本当のクリスチャンとしてイエスさまにつながるということを考えよう。それが私のターニングポイントとなりました。

 それからVIPのコマーシャルですが、イザヤ書43章4節「私の目にはあなたは高価で尊い」この御言によっても目がひらかれました。結局私は、強くならなければ幸せになれない。神様にも人にも認められないだろう。世の中で歯科医師として成功しなければ、お金をかせがなくては、いい仕事をしなければ、神様にも社会的にも認められないだろう。そういう意味で劣等感、劣等感がバネになったといえばいい言い方かもしれないですが、本人は決して幸せではないのです。何やっても、いくらやっても劣等感、そして、空手、柔道でいうなら二段になったって、まだ、三段、四段、五段がいるわけですから、決して達していない。歯科医師になったってきりがない。もっと優秀な先輩、もっとすばらしい先輩がたくさんいるわけです。

 ですからきりがないわけです。しかしNo.1をめざさなくても、イエスさまはこう言って下さる。「私の目にはあなたは高価で尊い」これで充分なわけです。聖書の御言ですからこれで充分なわけです。私はこれでほっとひと安心です。けんかがつよくならなくても、歯科医師としてそんなに成功しなくても、そのままの私でいいとおっしゃるのです。神様の前に体が弱くても、それほどお金がなくても、そんなの関係ない。本質的に関係ない。イエスさまにつながっているならば、それだけでイエスさまの目に高価で尊い。それが本当の安らぎと安心感というものです。トップをねらって、No.1をねらっていたら、いつだれかにおいこされるかもしれない。その時の絶望感、敗北感というのは、もう大変なものですからね。

 そういう方法では、人間は幸せにはなれないと思います。やはりイエスさまにつながっていることよって、イエスさまからくる平安と喜び。これがすばらしいことだと思います。そして、そのことによって劣等感から解放されて、このまま、ありのままでいい、ありのままでイエスさまに愛されて、受け入れられている。理屈でなく心でわかってきました。

 そして又その時、こういうことも考えました。世界には60億近い人間がいるわけですが私と同じ人は一人もいない。もちろん顔も指紋も違います。人間はみんな違う。そうするとNo.1といっても同じ土俵ではないわけですよね。遺伝子も違うし、生れ育ちも違う、環境も違うし、親も違う。そうしたら、No.1と言ったって比較の対象にならないですから、No.1をめざすということは実際はありえないことなんだ。みんな土俵がちがう。みんな遺伝子が違う、みんな生まれ育ちが違う、みんな親が違う、そして生活の様式が違う。これじゃ比較の対象にならない。

 神さまはNo.1の生き方をめざせというのではなくて、あなたはあなたでいい only one でいい。世界60億近くいる中で、自分は一人しかいない。ですから、自分はこれで最高なのだ。ありのままで最高の人間なのだと、心から知ることができました。私はそういうことで劣等感から解放されていった人ですが、自分より優秀な人がいるとします。以前の私だったらうらやましいというか、その人の前に立つことができないというか、はずかしいというか、尊敬するけど反面おもしろくないという思いがあったのです。

 しかし今は違うんです。あの人はあの人でそういう遺伝子をもっており、そういう親がいてそういう生まれ育ち、そういう境遇があって今の立場がある。あの人が私と同じ遺伝子で、同じ親で、私と同じ家族で、私と同じ場所で育ったならば私と同じ人間になったであろう。その人は私とすべて、遺伝子も生まれ育ちも違うのですから、比較の対象になりませんから、あの人と比べて私はダメ人間で劣っていると考える必要がないと言うことです。

 それと同じように、自分より貧しい弱い人間を見たときに、以前は私はあの人よりも強い、あの人よりましだと優越感にひたっていました。しかし、あの人も私と同じ遺伝子、同じ親ならば、同じ環境で育ったなら、私と同じようになった。そう思うようになりました。そうすると、人間はみんな神さまの前に同じで、神さまがそれぞれの遺伝子、親、立場につかわして生れさせてくださっている。神さまの目には、だれ一人かけたところなく、みんな平等に高価で尊いものとおっしゃって下さったことが、本当によくわかるようになりました。

 そして私は劣等感から解放されました。劣等感のかたまりのいじめられて弱虫の男でも幸せになれるかという、これは私の生涯のテーマだったのですが、この様なものでも結果として今本当に幸せになることができました。それは聖書を読んでいてイエス様という方がよくわかり、このまことの神様につながることによって、劣等感にとらわれなくていいということがわかりました。

 もう一つ最初に申し上げましたが、強い人間、弱い人間、豊かな人間、貧しい人間、健康な人間、病弱な人間、これで神様が本当に公平といえるのでしょうか。そういうことも私は悩んでいたのですが、それが又すばらしいのです。劣等感で悩んだ弱い立場を、もし味わうことがなければ、こういう聖書の真理を知ることができなかったでしょうし、劣等感にとらわれていた自分、が本当に劣等感から解放されたという喜びを知ることができなかったでしょう。

 生まれ素生もよく、ものすごく優秀で頭が良く、お金があって劣等感をあじわったことがない人だったら、私のこのすばらしい大きな喜びは味わうことができないでしょう。もちろん彼は彼なりに神様からすばらしい賜物を頂いているので比較にはなりませんが、弱いいじめられていた人間であったとしても、神様はそういう立場でなければ味わうことのできない、すばらしい私独自の喜び、楽しみを与えてくださっているのです。

 私は、今は神様は公平なお方であると思っています。公平というのは、みんな同じという意味ではありません。それぞれ立場がちがいますが、その人に納得のいくかたちの、喜びと平安と力を与えてくださっている。やっぱり神様は公平だということがよくわかるようになりました。

 先程も家内が話をさせていただいたのですが、聖書を読んで学んできたことは、イエスさまは100%愛の方であるということです。神様が愛なら、どうして私ばかりがいじめられるのか、神様が愛なら、どうして私だけが弱いのか、少しこのへんに疑いがありましたが、劣等感から解放されることによって、その劣等感があるがゆえに、強い人がもつことができない、さらにすばらしい神様の恵みというものを味わうことができました。もう今はイエスさま(神様)は、100%愛であることを自信をもって告白することができます。

 それだけでなく具体的にイエス様は100% 善なる方であることをも、自信をもって告白することができます。愛と善は少しニュアンスが違うとおもうのです。私は、イエスさまは良いことだけをする神さまであるということに、少し疑いをもっていた時があります。イエスさまは、よりすばらしいことを教えるためにちょっとだけ悪いことをする、いじわるをする。自分にとってひどいことをする。しかし結果はよくなるからまあそういうことはありうると思っていたのですが、そう風に考えるとイエスさまを信頼することができなくなってしまうのです。

 今の結論は、イエスさまは100% 愛のみならず、100%善、徹頭徹尾善、イエスさまのなさること、おっしゃることは、私にとって善、そしてみなさんにとって善、イエスさまは良いことしかなさらない。もし悪いことをするならそれは悪魔であって、イエスさまは善のかたまり、善しか計らないことを私は知りました。

 それからイエスさまは、私の100% 味方、そしてみなさんの100% 味方です。私が良い人間だからではありません。良いことをしたからでもない。お金があるからではない。イエスさまという方は、私を本当に愛して下さって、私がクリスチャンになる前から、この私がイエスさまを信じる前から、2000年前から、はじめから信仰をもって、十字架にかかって死んで下さった。

 その時から、私が罪人であった時から私の味方になって下さった。それならば私はまがりなりにも、18歳で洗礼を受けてクリスチャンになったのですから、今さら私をみすてるはずはない。どんな時でも、たとえ私がイエスさまに顔をそむけているような時でも、いつでも、イエスさまは私の味方となって万事を益となるようにしてくださるということを、いろんなことを通して私は悟りました。

 そして今まで聖書を読んで悟ったこと、そして自分が劣等感から解放されて今、本当に幸せの絶頂であるということをお話しさせて頂きました。今私はどういうことを心がけているかと申しますと詩篇108篇「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。私は歌い、かつほめたたえます。」

 今まででしたら環境状況、仕事のなりゆき、うまくいったか、いかないかによって神さまに不平をもらしたり又疑いをもったり、うまくいけば主をほめたたえかつ賛美し、しかしうまくいかなかければ不平不満を言ったり泣きごといったり、不安定なクリスチャンでした。しかし私は、しばらく前から私の心が定まったのです。定まったというか定めたというか、もう決めたのです。イエスさまは100% 愛、イエスさまは100% 善、イエスさまは100% 味方ということがわかりました。悟りましたので、私はもう定めたのです。

 そうしたらダビデが同じようなことを聖書に書いていたのです。ダビデの方が先輩ですよね。ダビデもそうだったのです。「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。私は歌い、かつほめたたえます。」ダビデはこれ以外はしないと宣言しているのです。それから私はまたすばらしいことを経験したのですが、同じ108篇「わが魂よ。さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。私はしののめを呼びさまします。」このしののめというのは夜明けのことでしょう。

 あの真っ暗だった所が、太陽が少し出てくる前の薄明るくなった頃でしょう。ダビデの生涯も暗黒の長い時があったようです。ダビデは「しののめを呼びさまします。」とすごいことを言っているわけです。まあダビデが先輩で私が最近気がついたのですけれど、これですね。

 私の心が定まって、「私は歌いかつほめたたえます。」とこれ一本でいくと問題の解決が早い、夜明けが早い、もう試練からの解決が早いと私は気がついたのです。その前に試練にあって問題にあって、悩むと泣いてわめいて叫んで、しかしそういうお祈りももちろん必要ですよ。そういうお祈りは聖書の中にもあります。しかし、そういうことを長くしていると暗黒のままですよ。これはダビデが発見した真理で、私の気がついた真理です。

 心を定めてしまってもうどんな問題があっても、目に見えるところ真っ暗やみで事件がおきて悲しいことやたとえ病気があっても、とにかく「私は歌いかつほめたたえます。」と心定めて、歌いかつほめたたえるとしののめが早いんですよ。そのとたんに、あるいは翌日にすぐ問題が解決して、すぐ夜明けがきて、その失敗やトラブルをこえるところの10倍、20倍の良き知らせがきたりして、これが「立琴よ、琴よさめよ。私はしののめを呼びさまします。」こういう意味だと思うのです。

 私はそれを自分で悟ったのです。ですから、皆さんも今暗礁にのり上げたり、もう人生の最底の所を歩いておられる方がいらっしゃるかもしれません。仕事のこと、御家族のこと、病気のこと、人間関係のこと。すばらしいダビデから学べばいいんです。どんなに泣きわめいても苦しんでも、しののめはさめません。心を定め、歌い、かつほめたたえると、しののめを呼びさますことができるのです。

 私がそうすることによって、歌いかつほめたたえることによって、普通でしたら今頃は朝の 4:30 にならないと明るくならないでしょう。しかし歌いかつほめたたえることによって、2時か3時 にしののめを呼びさますことができるのです。本当ですよ! みなさんやってみて下さい。本当の太陽がでてくるのは、やっぱり4:30頃ですが、事件が解決する、うれしい知らせがくる、問題が解決するということは、自分の信仰と意志によっていくらでも早くすることができるのです。

 心を定めればいいのです。定めなければだめですよ。ある時は歌い、かつほめたたえる、しかしある時は不平不満、そうすると太陽が出たいと思っても出られなくなってしまいます。心を定めると、イエスさまはやりやすいのです。私は毎日イエスさまとの関係を良い状態にしておくことを、この頃心がけています。

 私は、数年前からなるべく朝早く起きるようにしています。朝早く起きて聖書を読み、イエスさまと交わる。自分が弱いものであることを知っていますから、自分が弱いままで他の人に接したならば、共だおれになるということがわかっていますから、悲しみ、苦しみをもったまま、また翌朝も家族と食事をしたりしたら、自分も悲しいし、家族にも被害が及ぶと思うのです。私は決めたのですよ。少し早めにおきて、その朝のうちにイエスさまとの良い関係を確立するのです。

 まず自分がイエスさまによって満足するということを、これを口で言うと簡単ですけれど数年かかりました。私はにぶい方なので数年かかりましたが、今はわりあいスムーズになったのですよ。イエスさまによって自分が満足するということ。人は満足すると、ひとりでにニコニコしてきますよね。食べ物でなくて、お金でなくて、仕事の成功でなくて、もちろんそういうことも大切ですが、イエスさまによって、心から満足する、これが最高なんですよね。

 そうすると、暗黒の中にあってもこの満足をもちつづけることができます。そして、まず朝少し早く起きて、イエスさまによって自分自身が満足する。それから家族と患者さんと兄弟姉妹を100% 満足させることは、人間ですからできないのです。しかし何らかの形でその心に満足を与えることができるように心がけているのです。

 人間はお金を求めているのではないと思います。事業の成功を求めているのではないと思います。それは生活する上でお金はあった方がいいし、仕事はうまくいった方が良いですから便宜上それを求めているのですが、本当は心の満足を求めているのだと思います。心を満足させるために大きな家を建てたり、素敵なスーツを着たりすると私は思うんですね。

 しかしそういうものではなくイエスさまによって満足するということを体得し覚えると、そういうものがなくても怖くなくなるんですよね。それには自分が満足しないとそれができないので、朝少し早めに起きてイエスさまからその満足を頂きます。そして次に家内に満足してもらえるように努めるんですよね。

 仕事が始まりますと患者さんに満足して頂くのですが、患者さんは何のためにサトウ・デンタルクリニックに来るかというと、一般的には歯を治しに来るわけです。しかし実はそうではないんです。心の満足を求めてくるのです。私のクリニックはそうなのです。保険がきかない歯科医院になぜくるか、それは心の満足を求めてくるのです。正しい動機、と正しい方法で、患者さんをもてなして喜んで頂く。夫婦ゲンカしてきても、上司からおこられてきても、心が満足してニコニコして喜んで帰るとたいていサイフのひもをひらいてお金を払ってくれます。

 ところが、これが目的だと邪道に陥ります。最初に申し上げましたように、人間はお金と痛さに敏感です。ああこの先生はニコニコしておだてて、お金が目当てだと思ったら絶対失敗。はじめのころそうでした。同じレベルの歯医者はざらにいるんですよ。おまけに保険を扱わないで現金でというのですから来なくなります。ところがイエスさまによって自分が満足して、その与えられた満足を家内と患者さんたちに与え、それを目的とすると、すばらしいことがおきます。

 患者さんは本当は歯なんてどうでもいいんですよ。もちろんお金を出しますから、きれいに、痛くなく、よくかめるのが目的なのですが、心の満足が与えられるなら、歯医者にきて幸せになれば喜ぶわけです。おまけによく治すわけですら。結局患者さんを満足させるには、いいかげんな仕事はできないんですよ。

 心を満足させかつ、やはり人並以上にきれいに、早く痛くなく、しかし保険がきかないのが玉にきずですが、そういう風にすると患者さんは必ず来て下さいます。京都からも痛くなく、かつきれいに出来るので新幹線に乗って来て通った患者さんがいました。最近は、歯医者以外の仕事が忙しくなってきたので、患者さんをうち切ろうとしたんです。何回となく。ところが患者さんがダメだというのですよ。にげると追いかけて来るんです。こうなると、やりやすいですね。

 やりかただと、費用なんか問題でなくなる。頼むから、どうでもいいからやってくれと。しかし今はもうあまりやりたくないんです。まあ事業をやっている方には共通点があると思うんですが、私の場合は患者さんや兄弟姉妹、皆さまにはそれぞれお得意さん、顧客があると思うんです。結局皆さんのところと同類系統の会社はたくさんあるかと思います。あるいは皆さんの会社よりもサービスのいい会社がたくさんあるかと思います。

 しかし皆さんのところになぜ来るかといいますと、お客さんはきっとクリスチャンである皆さんを通して心の満足を求めていると思うのです。それを見抜いてそれを満たすと、仕事は二の次、三の次。あなたの会社、あなたのところにくると本当に幸せになるというと、他の競争相手の会社をおいて、必ず皆さまのところに来ますよね。時には私も患者さんを満足させることがうまくいかないことがあるのですが、患者さんを満足させることに自分の喜びを見いだしている、今その段階です。

 まず最初にイエスさまによって自分が満足する。二番目は家内と患者さんを満足させる。そして相手が満足したら自分が満足する。この手で今やっているのです。そうすると、非常にいい循環で、しかもストレスがたまらないのです。No.1を求めていた時は、自分がやっていましたからものすごく疲れました。しかしイエスさまにより頼んで、仕事がうまくいこうがいくまいが、イエスさまの御名によってやっているので、疲れないでストレスがたまらないのです。

 皆さまの参考になればと思い結論的に言わせて頂きますと、自分が本当に幸せになる秘訣というのは、神さまであるイエスさまを喜ばせることと、自分の回りにいる人々を喜ばせること、すなわち心を満足させること、そうするならばおのずと自分が満足し、自分が幸せになるということを体験します。これは一つの人生の真理といえるのではないかと思います。

 最後に 第2コリント 1章 3-4節「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる困難の中にいるときでも私たちを慰めて下さり、又私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる困難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである」。

 私の人生のはじめは、いじめられてきましたので、困難の中にある人々の気持ちが非常によくわかるのです。自分の辛かった経験を通して、弱いものの悲しさ、いじめられているものの悲しさ、貧しいものの悲しさが非常によくわかるのです。はじめから強かったならば、そういう人の気持ちは理解できなかったと思いますが、自分が弱かったために、弱い人をどのようにしてなぐさめることができるか、劣等感におそわれている者、本当に自信をなくしている者をどのようにして慰めることができるかということを、私は神さまによって教えて頂きましたので、苦しんでいる人を自分が神様にして頂いた方法で慰めることができるような気がします。

 そういうわけで神様は、結果として公平なお方です。私の人生の弱い所が、今は宝物になりました。世界中で同じ人間は一人もいない。皆がそれぞれの人生を歩んでいるのですから決して人をみくだしたりすることはできない。皆一所懸命やっている。それが自分より優れた人であっても、又自分より劣っていると思われるような人であったとしても、本当は劣っているということはありえないのですが、そういう人も結局みんな神さまは平等公平でそれなりのかけがえのない人生を与えて下さっているのですから、人間はお互い尊敬しあって、愛しあっていかなければならない。あたりまえのことなのですが、あたりまえのことがわかるのに僕はずいぶん時間がかかりました。そういうわけでイエスさまはすばらしいお方であると思いました。長時間、御静聴をありがとうございました。