たたかれると強くなる

青木 秀雄 (Hideo Aoki)

■氏はMKグループ副会長。本稿は2000年6月24日インターナショナルVIPクラブ<京都>オ−プニング集会におけるスピーチの原稿です。

1. たたかれて強くなった私

皆さん、こんばんは。今日のタイトルは、「たたかれると強くなる」です。正に、MKはたたかれて強くなりました。私は、小さい時に、7歳から8歳の時でしたが、教会に行くようになりまして、一番長男の兄貴に、「教会に行ってはいけない」と迫害を受けました。七人兄弟の中で、一番上の兄貴が一番の実権を持っていました。現在のMKグル−プの会長は四番目で、私は六番目です。この長兄に、「教会に行くな」と言われて、非常に強くたたかれたので、私は逆に強くなりました。

クリスチャンとして私がこういう話をしますと、今ここ(前席)に座っている私の家内は、「なぜ私がこんなに強くなったか知ってる? 貴方と一緒に住んでるからよ」と言うのです(笑)。私は、そう言う記憶はないですけどね・・・。最近良く考えますと、私もこの年で非常に強くなっております。なぜかと言いますと、家内のお陰です(笑)。いずれにしましても、人間は「たたかれると強くなる」ということを、今日は皆さんにご理解していただければと思います。

2. MKグル−プ会長の実兄青木定雄について

MKグル−プの会長は、皆さんも良くご存知の青木定雄で、私の兄です。この会長がMKグル−プを設立して、今日までの様々な苦難を通りながら、MKグル−プをここまで引っ張って来ました。私は、兄貴をただ助けて来ただけなのです。ですから、兄貴の方がMKグル−プの全ての実権を持っていますし、また、兄貴の方が立派で優れているのです。

ただ、私は、兄貴より一つだけ優れているところがあります。それは何かと言いますと、私は兄貴の持っていない神様と共にいる、という点です。これが故に、兄貴は、私に対して不満を一つ持っています。「お前は自分の力を信用しないで、どうして神ばかりに頼るのだ。お前は、世の中で一番かわいそうな人間だ」と思っているのです。ところが、私は、逆に、「会長の兄貴こそ一番かわいそうな人間だ」と思っているのです。人間の力って、どのくらいあるのでしょうか? 皆さん。「神様を信じなくて、自分の力だけを信じろ」と言うこの人間の弱さ。私は、このような兄貴が世の中で一番かわいそう、と思っているのですが、お互いに「かわいそう」と思っているので、仲良くやっているのです(笑)。

3. 迫害の中で教会へ行く

私は、南海島という島で生まれました。7歳か8歳の時に、先輩に連れられて教会に行き始め、2〜3年は無事に行っていたのです。ところが、ある日、クリスマスの準備をするために、教会の役員の家に行きました。先生が来るのが遅いので、かくれんぼしながら遊んでいました。

私は、家の塀をつたって裏手に回り、隠れ場を探そうとしました。すると、そこに小屋があり、その前におがくずをいっぱい入れた大きな叺(かます)が立っていて、その側の大釜で塩辛を炊いていました。私は、その大釜と叺を飛び越えて向こう側へ行こうとしました。勇気を出して飛び込えようとしたのですが、計算通りにはいかず、私は、叺に身体の一部が当たって、私の足が大釜の中に入ってしまいました。何日も何日も炊きこんだ塩辛でしたので、中はおそらく150度から200度近くはあったのではないかと思います。そこに足が入ってしまったので、ひどい火傷をしてしまいました。

真っ赤な新しい肉が見えるような状態で、とにかく痛い。起き上がることもできません。それで、40日間も泣いていました。昔の田舎のことなので、薬も何もありません。もう痛くて痛くて、朝、昼、晩、ただ泣いているだけでした。長兄が、かわいそうに思って、どこかで薬をもらって私の足に塗ってくれましたが、いくら塗っても治りません。今考えると、それは薬ではなくて、塀に塗るペンキではなかったかと思いますが(笑)、そういうものでも塗らないととにかく耐えられないような状態だったのです。このようにして、40日間痛みをこらえました。

この事件をきっかけに、「教会へ行ったらいかん」という、長兄をはじめとする家族からの圧力がひどくなりました。お袋は、仏教の大変熱心な信者でした。ですから、「同じ家の中に、二つの宗教があったらいけない」という発想で、私が教会に行かないように厳しく監視しました。教会へ行って来たことがわかれば、棒でしばかれました。あまりにも強くしばかれるので、私はたまらなくなり、ある日逃げ出しました。その時、長兄は、その棒を私に投げつけ、その傷が今でも残っています。一生涯消えないと思います。

そんなにされても、私は教会に行きたかった。「行くな」と言われたら、余計に行きたくなる。不思議ですね。私は、隠れて教会に行きました。ある水曜日の日、「今日は雨が降って暗いから、知られないだろう」と思いながら、いつものように隠れて教会に行きました。教会では、150人から200人ぐらいが、今のように椅子もなく、地べたに座って礼拝をしていました。すると、突然お袋が、私を引っ張りに来たのです。ドアを空けても、人の頭しか見えないので、誰が誰かわかりません。そこで、お袋は、礼拝中にもかかわらず、私の韓国名で、『テーシ、出て来いー!』と大声で怒鳴るのです。礼拝中ですので、仕方なしに出て行くと、家まで引っ張られていき、家に着くと、今度は兄貴が棒をもって待っているのです。

その時の兄貴の顔を見るのは、大変な恐怖でした。「今日、私は殺される」と思いました。そこから逃げ出そうとしたら、庭にある、焚き火に使っていたドラム缶を半分に切ったものを、私に投げつけるのです。あれに当たっていたら、今日皆さんの前に立ててないと思うのですが、幸いに当たりませんでした。それから10日あまりも、家の中に入れてもらえませんでした。泣きました。「なぜ私は神を信じることができないのか。好きな教会にも行けないのか」と、心の底から泣きました。

私の行ってる教会の牧師さん、信者さんが、徹夜をして私のために祈ってくれました。「あのユウ・テーシ(青木秀雄)少年を、神様どうか守ってください」と、何日も何日も祈ってくれたので、その祈りの故に、私は今日まで生きてこれた、と思っております。私は、韓国以外に、アメリカでも暮らしました。日本でも暮らしました。いろいろなことがありましたが、私は、幸いにも、この64年間どこへ行っても神様と離れたことがありませんでした。これも、全てあの時の教会の祈りのお陰だと思います。

4. 日本への神の導き

私は、家が貧しくて貧しくてどうしようもない状態でした。高校までは何とか出ましたが、大学へ行く資金もありません。商売する金もありません。就職する当てもありません。日本へ行くという道がありましたが、「自分の生まれた国に住みたい」という思いの方が強かったのです。

そのような中で、「士官学校へ行ったら、国が全て学費を出してくれる。卒業したら、海軍少尉になって生きていける」という情報を得たのです。それで、私は、「海軍士官学校へ行こう」と考えました。ところが、士官学校は、まず身体検査があり、身体検査をパスしてはじめて学科試験を受けることができるのです。私は、「身体に傷があったら入学できない」ということを聞きました。「虫歯一つあってもいかん」と言うのです。

私は、身体検査の前夜、一緒に試験を受ける友達2人を誘って教会に行きました。この2人は教会に一度も行ったことがなく、徹底的な儒教の家庭で育ったので、教会に連れて行くのは大変だったのですが、私が「教会へ行こう」と強引に誘ったので、私の一度言い出したら聞かない性格を知っている彼らは、仕方なく教会へ行ってくれました。私は、その日、教会で一晩中泣いて祈りました。「神様、この足の傷を見えないようにしてください。私の行く所は士官学校しかないのです。この傷が発覚したら合格できません」と。この時のことを、友達2人は、私が泣きながら、訳がわからん祈りをしていた、と今でも語ってくれます。

翌日、身体検査の部屋に入る前に、私は、膝まで上がる靴下をはきました。皆はパンツだけはいているのに、私だけが膝までの靴下をはいているものですから、どうしても目立ちます。思ったとおり、試験官が、「おい、君、どうして靴下をはいてるんだ」と聞くのです。「嘘はいけない」と思って、正直に「傷があるからです」と答えると、「傷があると、海軍少尉にはなれない。不合格」とあっさり言われてしまいました。帰り道、「神様私の行く道はどこですか? もうどこにも行くところがないのです」と祈る中で、再び「日本に行こう」という思いが強くなっていきました。

5、MKグル−プ誕生

そして、日本に来たのです。今考えると、あの傷さえなかったら、私は、韓国で海軍に入って、違う道を歩んでいたと思います。日本に導かれたことによって、私は、現MKグル−プ会長の兄貴と一緒に、まずガソリンスタンドの商売を始めることができたのです。つぶれたガソリンスタンドを買い取り、兄貴が自転車で一灯缶を積んで配達に行き、私は店番をしました。ガソリンを買いに来る人に、漏斗(じょうご)を持って量り売りをしたのです。

兄貴は、それまでにいろんな事業をしては失敗していました。その中に食堂をした経歴もあり、料理も作れたのですが、配達に忙しくて料理を作る時間がありませんでした。私は、食事を作ったこともなければ、台所に入ったことすらありません。このように、2人共に食事を作ることができないので、朝、昼、晩の三食の全てが食パンと牛乳で生活していました。ガソリンスタンドが4箇所に増えた時に、MKを申請しました。「タクシーをすれば金もうけになる」と言うので、申請したら、運良く10台の認可を受けることができたのです。

6、日本初のタクシ−運転手社員寮

これが、MKタクシー会社の始まりです。「タクシーは金儲けになる」と聞いていたのですが、いざ始めてみると、問題ばっかりです。タクシー運転手は遅刻、無断欠勤が多いのです。また、乗車拒否等のお客様からのトラブル、苦情が絶えません。中でも一番深刻なのは、無断欠勤でした。当時のタクシーの運転手は、朝起きて気分が良かったら出勤しますが、そうでなかったら休むのです。なぜかと言いますと、当時のタクシ−運転手の給料が専ら出来高払いだったからです。私らのように、固定給ではないのです。ですから、「出勤しなければ売上もないが、自分の所得もなくなるので、休んでも自分が損するだけや」というように考えていたのです。

私は、「この問題を何とかしなくては」と思いました。タクシ−は、計10台しかありません。会社としては、10台の中の1台が動かないと、売上も10分の1減ってしまいます。経営者にとっては、非常に大きな問題です。10名の配車予定をしても、朝会社に来てみれば8〜9名しかいないということであれば、予定が全く立ちません。「仕事を休むのであれば、前日までに申請し、会社の承認を得なさい」と言っても、運転手は、「届け出したら、その分金をくれるのか」といったような感じで、全く話になりません。当時の運転手の常識では、無断欠勤は当り前で、事前の欠勤届など全くする必要のないものでした。

私たちは、「この問題を改善しなければいけない」と考え、当時の14名の運転手の一人一人の家を訪問してみました。その結果、この問題の原因がわかりました。当時のタクシーの運転手は、大変貧しかったのです。一部屋の住宅を借りて、5〜6人の家族で一緒に暮らしていました。ですから、タクシ−の運転手は、疲れた身体で家に帰ったら、疲れをとらなければならないのに、それができないのです。同じ部屋に大人が4、5名いて、また子供も騒ぐといったような生活が続くから、疲労が蓄積される。これでは、出勤の次の日には休みたくなる気持ちもよくわかります。そこで、私たちは、「タクシ−会社の経営を上手にしていくためには、運転手の住みよい家を作らなければならい」と考えました。

1960年10月に認可を受け、12月から営業を始めたのですが、1961年4月に、私たちは、社員の家を作りました。他社の経営者たちは、「そんなことをして、タクシ−会社がもつわけがない。MKはタクシー経営の経験がないから、あんなことをしているのだ。タクシー運転手は重労働だから、若い人を入れて働かせ、年をとり生産能力がなくなれば、会社から追い出して、若い人と入れ替えるというような新陳代謝を進めていかなければいけないのに、MKは、それと逆のことをしている。住宅を作って住まわせれば、年をとってもそこに住むため、新陳代謝が進まず、MKはもう長くは続かないだろう」と言いました。

ところが、私たちは、彼らの考え方には従わずに、私たちの常識で経営方針を貫いたのです。30年前に、私たちが社員のために作った家をお見せ致します(スライド)。南ホームセンターという家ですが、2階建です。1階に家族が住めるようにし、2階を社員寮にして、社員が家族と離れて休めるようになっています。この建物は、立派なビルではありません。しかし、この家は、タクシー会社が労働者のために初めて作った、大変記念すべき建物なのです。私たちが初めてタクシー運転手のための家を作ろうとした時、銀行は全く相手にしてくれませんでした。ですから、私たちは、知人や親戚から個人的に借金して、この家を作ったのです。

これをしたことで、多くのことが変わりました。住居が安定したことで、まず交通事故が激減しました。次に、欠勤者が減りました。これらのことによって、私たちが当初思っていたよりも早く、借金が返済できるようになりました。この時点で、私たちは、「私たちの経営方針は正しい」との確信を得て、住宅を増やすことに専念しました。

次のスライドは、MK団地という所です。46の家を建てるという情報を得て行ってみました。同じ敷地に46の家が並んでいるので、「これはいい」と思ったのですが、一戸当たり350万円ということでした。ところが、当時の運転手は、誰一人として350万円という大金を持っていません。その頃は、キャッシュがなければ家が買えない時代でしたので、京都銀行に相談に行き、キャッシュがなくても買える方法を考えてもらいました。その結果、月々23000円を返してゆけば、元金と利息を18年で返せるという、今でいう住宅ロ−ンの方法を提案してくれました。それで、46の家に運転手が入居致しました。当時、タクシー運転手が家を買うと言うのは、奇跡中の奇跡だったのです。

次のスライドは、一級のアパートです。これは、4000万円で三井不動産が建てた物です。この時は、55%の2200万円を運転手に負担してもらって、残りを会社が支援したのです。これがまた成功して、自信を持ちました。

7、サ−ビスの原点は挨拶から

その頃から、社員教育を少しずつするようにしました。「サービスの原点は挨拶から」ということで、まず4つの挨拶のマニュアルを作りました。一つ目は、「MKでございます。ありがとうございます」。二つ目は、「どちらまでですか? 京都駅までですね」と、はっきりと復唱すること。3番目は、「青木がお供致します」というように、自分の名前を紹介すること。4番目は、お客様が降りられる時には、「ありがとうございます。お忘れ物はございませんか?」という確認をすることでした。

「これらの挨拶は、運賃の中に含まれているサービスです。ですから、これらの挨拶をしない時は運賃をいただきません」ということを説明したのですが、運転手から反感を持たれました。当時は、「お客を乗せてやっている」という感覚の社員が多く、「なぜ、こんな挨拶をしなければならないのか」と反発する運転手が、大勢辞めていきました。他のタクシー会社では、挨拶などする所は全くなく、景気も良かったため、気に入らなければ他に行く所はいくらでもあったのです。あまりにもたくさんの人が辞めていくので、会社の経営が危なくなってきたのですが、私は、「今のような景気の良い時から教育は始めるべきで、経済が悪くなってから教育しても遅い」という考え方を持っていました。ですから、お客様の多い時に、より良いサ−ビスを提供できるようにしておきたいと思いました。社員の反発はありましたが、このように簡単な挨拶から変えることによって、お客様の評判も徐々に良くなり、たくさんの方々がMKタクシ−を利用してくれるようになりました。

8. 同業他社からの迫害と市民の支持

あまりにMKタクシ−を利用する人が多くなってきたため、また別の問題が発生するようになりました。他社のタクシー会社が怒ったのです。「MKがいらない挨拶をするから、わしらの仕事が減った」、「MKをつぶしてしまわないとだめだ」と言い出したのです。ここに、タクシー業界の後進性があります。普通であれば、自らの会社の質を上げ、より良いサービスを提供してお客を獲得しなければいけないのに、タクシー業界はそれをしたくないから、「MKをつぶそう」と立ち上がったのです。

タクシー会社の経営者、労働組合が、お金を集めて、右翼等の団体に金を配り、MKをつぶそうとしました。私たちは、本当に苦労しました。会社に行くと、街頭宣伝カーが朝から晩まで怒鳴るのです。あまりにも音が大きく、電話の音も聞こえず、仕事ができなくなりました。また、MKのタクシ−が走っていると、わざとぶつかってきて嫌がらせをし、「MKタクシ−は危険で、事故がよく起きる」という噂を流して、MKタクシ−に人々を乗せないようにしたのです。ある時は、MKタクシ−の前後をトラックで挟んで、動けなくさせられたこともありました。

こんなことが続けば、会社がつぶれても決しておかしくなかったのですが、そんな中でも、MKを支持するというお客様が大勢いてくださったお陰で、逆にマスコミがこの問題を取り上げてくれ、MKタクシ−の評判は益々良くなっていきました。苦難を味わえば味わう程、大変な試練を通れば通る程、MKの売上は上がっていったのです。京都市民の99%は、MKを支持してくれました。残りの1%は誰か? 他社の経営者・関係者です。このように、私たちは、今日つぶれるか、明日つぶれるか、来週つぶれるかという状況の中で、不思議なように守られてきました。本当に、MKが今日あるのは、市民の方々が私たちを支持してくださったお陰だと思います。

9. 社員教育の成果

私共の会社では、「MK新聞」というのを発行していますが、その中で、運転手の一人が、次のような作文を書いていました。「私は井上○○というMKの社員です。夜勤です。夜仕事をすると、いろんなことがたくさん起きます。今景気も悪く、その中でうまく行かない人達が、その腹いせを私たちMK社員にするのです。何の理由もなく、こぶしを私の頭の後ろに当て、『こらーMK、こらーMK、こらーMK』と叫んだり、ひどいのは、靴のまま私の頭に足を当ててきたりするのです。そのような時、私は、じーっとこらえます。しかし、このように辛抱しているのは、私の家族のため、生活のためと思われると、私は悲惨な人間になります。私が辛抱しているのは、この辛抱している姿をこの人達が見て、この厳しい世の中で、心を入れ替えて一生懸命生きていくことを教えるのが私の使命だと考えるからです」。私は、これを読んでびっくりしました。

続いて、次のように書かれていました。「2000年前に、ユダヤの国にイエスが来て、自分は何一つ悪いことはしていないのに、みんなのために十字架につけられて死んだじゃないですか・・・」と。私は、自分の会社の中に、このようなすばらしい社員がいることを知って、大変嬉しく思いました。新聞に書いたのは一人だけですが、このような崇高な精神を持っている社員が、他にもたくさんいると思います。

私は、今は副会長ですが、専務の時に、たくさんの手紙をいただきました。苦情も、お礼も、いろんなものがありました。勿論MKだからと言って、苦情がないことはないのです。ある母親から、次のような一通の手紙をいただきました。「私の娘が、ある時『東京に行く』と言って出て行きましたが、精神的に非常に不安定なまま出て行ったため、大変心配していました。しかし、夕方になって、娘から大変元気な声で電話がかかって来たので喜びました。『朝はあれだけ落ち込んでいたのに、どうしたことか』と思い、尋ねてみると、娘は、家から駅まで、たまたまMKタクシーに乗ったところ、その運転手さんが、『MKでございます。ありがとうございます』と元気良く挨拶してくれ、それで、いくら自分が悲しくても、返事をせずにはいられなくなってしまったとのこと、そして、『あのタクシー運転手も、あれだけプライドを持って仕事をしているんだ。私も強くならなければいけない』と思うようになって、東京に向かうことができた、という話をしてくれました」。

私は、この手紙に感動し、社員に読んで聞かせました。そして、「あなたがたの仕事は、偉大な仕事です。命を助ける仕事をしているのです。プライドを持ってください」と話しました。このように、MKにおける社員教育の成果が着々と実を結んでいることを、私は大変嬉しく思っています。

10. 身障者優先のサ−ビス

また、身障者の方から、次のような手紙をいただいたこともありました。「MKさん、私たちは外に出る時に、電車にもバスにも乗れません。タクシーしか使えないのに、そのタクシーにも乗せてもらえません」。

私は、早速タクシー組合に行きました。京都には、タクシー組合に66社が加盟していますが、そこで、私は、「MKは、身障者を優先的に乗せるタクシーをしたいのですが、MKだけだとサ−ビスが不十分です。皆さん、一緒にやりましょう」と提案しました。しかし、最終的に「できない」という結論でした。そこで、私は、MKのグループ会社だけで、それをやることに決めました。ご存知かもわかりませんが、MK、駒タクシー、三和交通の3社が、一時的に組合から脱退して、3社で新しい組合を作りました。そして、「身障者を優先的に乗せることをしたい。また、身障者を乗せる時には10%割引をしたいので、認可してください」と申請しました。強い反対や抵抗もありましたが、身障者の声にも後押しされて、最終的に認可をもらうことができました。このような認可は、MKがはじめてでした。

「身障者優先」のステッカーをつけて走ったのですが、運転手にとっては、最初は抵抗が強かったみたいで、出発する時に、このステッカーをはがしてしまう人もいたのです。しかし、次第に、このステッカ−による良い評判が広がって、MKの評価が益々上がってくると、そのようなことをする運転手もいなくなり、全国的にもMKの人気が上がっていきました。

11. 植樹祭における来賓輸送

海外からのVIPと呼ばれる人々にも、たくさん利用していただけるようになりました。常識が変わっていきました。今までは、誰かをお迎えする時は、自家用の一番いい車を用意するのが普通だったのですが、MKのタクシ−、MKの社員を持ってお迎えするのが最高のおもてなし、と認められるようになりました。

9年前に植樹祭が京都でありましたが、その時に、はじめて全ての来賓をMKタクシーで輸送したのです。今までは、タクシーで来賓を輸送など到底考えられもしなかったのです。しかし、その時は、全ての来賓を、最初から最後までMKタクシーだけで輸送致しました。植樹祭が終わり、来賓が帰られた後に、たくさんの感謝の手紙をいただきました。それから、社員のレベルが一段と向上しました。MKで仕事をすることに誇りを感じる社員が増えてきたのです。

その直後、MKの十条営業所に行った時のことですが、私は、1人の社員に、「あなたはあの植樹際の時はどうしていましたか?」と質問しました。「はい、副会長さん。私は、その当日は服装も細心の注意を払い、身に付けている物全てを新しいものに代えて参加しました。私があの隊列に参加できたのは、私の誇りです」と、その社員は言っておりました。

皆さんの中には、タクシーの運転手というと、地位の低い仕事だと思われる方もおられるかもわかりません。昔はそのような時期もありましたが、今は変わってきました。少なくとも、MK社員はそう思ってはおりません。大卒が、毎年学科試験を受けて、非常に狭き門の中で、MKに入社して来るのです。40人の採用枠に、8000人の求人があるのです。日本全国の大卒者が、タクシー会社にです。私たちも、10年前までは、こんなことが起きるなんて思ってもいませんでした。これらの若者に、MKの制服を着せて、MKのサービスで営業させると、今までのタクシー会社のイメージがなくなるのです。

このすばらしいサービスを元に、大阪でもMKが始まりました。3年ぐらいは赤字で投資をしなければならないと思っていましたが、1年で黒字に転じました。他府県でも、MKのサ−ビスが受け入れられたのです。

12. 竹の節=神からの試練

このように、私たちは、たたかれて強くなっていったのです。最後に、私は、森垣奈津子さんの本の中の一文を紹介したいと思います。この方は、癌におかされ、46年間という長い間、非常に苦しい戦いを送られてきたのですが、ある日、窓を開けて外を見ていると、竹薮があり、その竹には雪が積って、雪の重さで竹が大きく曲がっていたのだそうです。そして、しばらくしてから、再び竹薮を見ると、雪が解けて、曲がっていた竹が今度は天に向かってまっすぐに伸びていたのだそうです。この時の体験を、森垣さんは、次のようにまとめられています。

「このように、竹が力強く元に戻るのは、竹に節があるからだ・・・」と。節があるから、竹はどんな苦難に遭っても、また元に戻ることができるのです。続いて、森垣さんは、「竹の節の一つ一つは、神からの試練である」とも言われています。これを読んで、私は、「これは、正にMKの歴史だ」と思いました。

皆さんにも、たくさんの苦労と試練があると思いますが、この一つ一つの節が神からの試練であると、そして、私たちをもっともっと強くするための試練である、と思ってください。感謝し、皆さんのご成功を心からお祈り致します。