Doing から Being へ

堤 重和 (Shigekazu Tsutsumi)

■氏は株式会社夢屋代表取締役(デザイン事務所経営)。本稿はインタ−ナショナルVIPクラブ<大阪>での証しです。

1. ビジョンのなかった学生時代

1953年生まれの47才です。京都のど真ん中、京都弁で言うと『ええ所のボンボン!』として生まれました。父は、ハンドバック販売の仕事に成功し、毎日のように先斗町を遊び歩き、酒に飲まれ、放蕩を続けた結果、私が小学校に入る頃には、生活保護を受けるまでに落ちていきました。酒による家庭内の騒ぎが絶えない生活の中で、「何で生まれて来たのか?」と、小学生の時からよく考えたものです。

高校に入ってからは、アルバイトばかりしていました。初めてもらったバイト代で買ったのは、電気洗濯機でした。母の苦労を知っていましたから、母を喜ばせ、また生活の重荷を少しでも軽くしてあげたかったからです。アルバイトをすることで自立できる自分を感じ、家の環境に振り回されることが少なくなりました。

バイト先は、遅くまで営業しているガソリンスタンドでした。バイト仲間に「エホバの証人」を信じている方がおられ、ある日ザラバン紙で作られている小冊子を私に渡しながら、「君が25才になる頃、1978年にこの世は終わる」と言いました。初めは、「変な人だな」と思いましたが、「本当にそうかもしれない」とも感じました。当時は高度経済成長の時代です。私は、通学で毎日三条大橋を渡っていましたが、鴨川を渡ると異臭がし、川の色も毎日のように変わっていました。川に捨てられた自転車やリヤカ−にゴミが引っかかり、死んだ川でした。しかし、東アジア地域の経済発展と共に、それらも全部プレゼントしてしまったかのように、今は清らかなものです。

大学は、大阪工業大学の建築科に入りました。別に建築家になりたいとか、設計士になりたいとかいう夢を持って入ったわけではありません。高校が建築科だったのと、その大学には夜学があって、授業料が安かったという単純な理由からでした。高校時代から自分で学校の授業料を払っていたので、当時の私には、それがベストの選択だったのです。昼間は同じようにガソリンスタンドでバイトし、夜学へ通う。これは明確なビジョンを持っていなかった当時の私にとっては、非常に大変で、疲れが溜まりました。そして、「何のためにガンバルの?」との問いが、社会に対しても自分に対してもいつもあり、ついにドロップアウトする時がやって来ました。

2. 自分探し(Being)

「なぜ生きるのか?」、その答えを探すために旅に出ようと思いました、と言えばカッコイイですが、その本当の理由は3つありました。1つは生きる目的探しであり、2つ目は現実からの逃避です。そして、最後の一押しは、何と先のエホバの証人の言葉です。「1978年にこの世は終わる! 25才で死ぬ」。決して信じていたわけではないのですが、私の無感動な日々に終止符を打つ決断をするための説得力は十分に持っていました。

大学を辞め、旅に出ました。北は北海道から南は沖縄。沖縄で成人して、海外へ・・・。実は、この沖縄で知り合ったのが、私にとっての天使! 現在のクリスチャンの妻でした。旅費が無くなると、季節労働のバイトを1〜2ヶ月して、また旅へ・・・。その繰り返しでした。この道、この山、この海の向こうに何かあるのか・・・。自分の想像を遙かに超えたすばらしい自然との出会い、バイト先での心温かな人々との出会い、そして新たな自分の発見・・・。

旅して2年半を過ぎた頃、ロンドンで皿洗いのバイトをしていました。10月のロンドンは、重たそうな低い空です。生きる気力のなくなる暗い空にギブアップして、パリに逃げました。そこで、出逢いました。リュクセンブルグ公園に栗の実がたくさん落ちている一角に、何とも言えないメランコリックなカフェがありました。「このステキなカフェ・テラスのオ−ナ−になりたい!」。私は、努力すれば確実に手に入れることが可能なこの夢に夢中になり、すぐに日本へ帰りました。22歳の秋のことでした。「Being」(何のために生きているか)を探すはずなのに、簡単に「Doing」(何をするか)に呑まれてしまいました。しかし、その時は、そのことに全く気づいていませんでした。

3. 成功したビジネス(Doing)

コ−ヒ−ショップに勤めながら、珈琲について勉強しました。しかし、1年もしないうちに辞め、小さな店舗工事中心の工務店に入り、自分で造る仕事をしたいと思うようになりました。工務店の場所としては、自分の実家がぴったりの立地です。その工務店も約1年で退職し、資金を作るために、店舗工事屋を始めました。コ−ヒ−ショップの知り合いを通して、初めはメニュ−を作ったり、看板を作る程度でしたが、すぐに仕事は一杯になりました。

24歳で独立、25歳でマンション購入、26才でコ−ヒ−ショップの経営、27歳でU.S.A.小物ショップの経営、琵琶湖に別荘を持ち、ポルシェに乗っていました。29歳で小さいながらも一戸建の事務所を購入、31歳で株式会社夢屋を設立、嘘みたいに物事がとんとん拍子で進んで行きました。幸運にも恵まれていたと思います。自分の才能にあった仕事は疲れにくいし、365日24時間営業のような意識でよく働きました。

このような早い成功(私にとってはですが)の大切なポイントは、「相手に仕える」という点にあったと思います。自分のカフェを造りたい想いで工事屋になったので、自然に依頼者である経営者、さらには最終消費者であるお客さんの目線に立って、依頼を受けた工事を手がけることができました。また、できる限り経営者側の利害に立って設計するようにしました。どんなファサ−ドが人を引きつけるか? 店内の居心地の良さは? 小物から花まで、そして、メニュ−内容、音響関係、立地・客層に合わせた価格帯・・・。ここまで来ると、もう工事屋のレベルではありません。大切なお店のコンセプトを、オ−ナ−と一緒になって創り上げました。

お客さんに対するアプロ−チの方法、食器質感と価格等についてもアドバイスし、設計図では、伝票の位置、コ−ヒ−チケットの場所、コ−ヒ−サイフォンの位置からその他フィルタ−の保管方法、場所まで決めてしまいました。コ−ヒ−のための専門器具も作りました。私が26歳で始めたコ−ヒ−店は、コ−ヒ−ショップ経営を目指す人のために作った店で、ここに、そのような人を集めては、経営のノウハウを指導したりしました。

本来ならば、はじめてコ−ヒ−ショップを経営する人には、コ−ヒ−の焙煎業者の営業マンが、サ−ビスで、手取り足取りアドバイスします。ところが、私が店舗工事をした店では、それを全て私が代わってしていたわけです。メニュ−は、私が作ったものが核となる。牛乳も砂糖も食器類も、オ−ナ−と一緒に行って私が中心となって決める。だから、コ−ヒ−焙煎業者の営業マンも、私が工事した店の仕事は楽なので、非常に喜んでいました。

私が工事屋を始めた頃、私は工事代がマイナスでもやりました。若いですから、「自分の勉強になるから良いのでは」と思ったのです。これが当たりました。今から思えば、すばらしい広告代であったと思います。客が客を呼ぶだけでなく、先のコ−ヒ−の焙煎業者も喜んで、私の会社「夢屋」を顧客に紹介してくれました。27歳の頃、忙しすぎて、「もう工事はできません」とバンザイして、デザインのみに専念することにしました。

もう一つ大切なことは、特にサ−ビス業においては、タ−ゲットと同じライフスタイルで日常生活を送る、ということです。そして、その上の非日常を、最低年2回は世界を回ってでも体感しておくことです。お客様の夢と憧れを知っておくためです。タ−ゲットが変われば、勿論生活のベ−スが変わります。お客さんの喜ぶ姿を見るためには、そのお客さんのライフスタイルで考えないとどうしても無理なのです。例えば、私たちは住宅設計もしますが、冬に設計した家はどうしても冬型になってしまうものなのですね。十分に四季を考えていても、色使いや、ちょっとした配慮の中に冬が出てしまう。無意識の力というものは、本当に怖いと思います。

ビジネスの話はこれくらいにして、私史に戻ります。31歳で株式会社を設立した時に決めたことは、「年間160日休む」ということでした。経営者として成功しておられる方の、忙しい生活には魅力を感じなかったからです。そして、それが自分の姿でもあると感じ、思い切って年間160日休日制をスタ−トさせました。私は、幼い頃貧しかっただけに、自分の家、店、事務所、別荘、ポルシェ・・・、もう十分でした。このころは本当にバラ色でした。友人家族と一緒に、別荘を中心に、幼い子どもを連れて、ウインドサ−フィン、バ−ベキュ−、スキ−、海外旅行・・・。経済力、時間、知恵・・・仕事本位ではなく、人間本位に成功している、と悟ったような日々でした。アメリカ西海岸のサンタバ−バラでの休日は、30歳の私に、満足感と何でもできる自信を与えてくれました。

4. 母の癌告知(再びBeing)

しかし、32歳の時、1回目の人生の地震が起こりました。私の生活は、すばらしく調和のとれたライフスタイルで、喜びのある幸せな毎日でしたが、そこに、母の癌告知という突風が突然吹いてきたのです。砂の上に建てた立派な家(ライフスタイル)は、簡単に傾きました。自分が良しと思う道を歩んできたこれまでの人生に、私は満足していました。しかし、一番大切な人生の土台とでも言うべきものがないから、このような試練に直面した時、どうすることもできないのです。これまで生きてきた結果、「何をしたか」(Doing)については120%満足していました。しかし、私は、「なぜ生きるか、死ぬか」(Being)については、全く答えを持っていませんでした。私は母の苦労をよく知っていました。「この愛する人のために、今私は何もしてあげることができない。私が、母に代わって手術を受けることもできない・・・」。私は、自分の無力さをいやという程感じました。
後で知った聖書の中に、次のようなことばがあります。

ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」。そして言った。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ』」。しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」。(ルカの福音書12章16〜20節)。

貧乏旅行時代のゴーギャンの問い(絵の題名)、「我々はどこから来て、我々は何をして、我々はどこに行くのか?」が再び私の問いとなって、「何をしたか」(Doing)ではなく、「存在理由」(Being)を求める、新たな旅が始まりました。いろいろな本を読み、いろいろな宗教の本を読みあさりました。専門書になると私の頭ではすぐに眠くなるので、小説的なものを1週間内に2〜3冊程度、インナートリップのような感覚で読みました。しかし、小説は、文字通り「小さな説」にすぎません。しかし、人生は大説です。この問いの答えは、そう簡単には出ませんでした。

しかし、不思議なことに、若い頃の長い旅行中に、自分の想像を遙かに超えた自然の美しさをたくさん経験するうちに、何かしら宇宙の意識とでもいうべき力を感じていた私は、まだクリスチャンではありませんでしたが、自然に祈り始めていました。勿論、全て自己中心な祈りで、宇宙を支配する人格者をイメ−ジしながら、「こんなに小さい私達です。あなたは大いなる方です。私達を見守りたまえ」というような感じでした。母の癌手術は成功し、5年を過ぎても再発しませんでした。しかし、私は、なお祈ることを続けました。子どもの寝顔を見ながら、「このあまりにも大きな幸せを守ってください」と。この祈りは、ある意味ではクリスチャンになってからも続いており、積算するともう17年になります。振り返ってみれば、愛なる神は、この頃からすでに私を導いてくださったとつくづく感じます。

5. 教会へ

40歳までの10年間、事業的にはそれ以上成功する気もありませんでしたから、仕事の枠が拡がった程度で、特に大したことはしませんでした。しかし、仕事をするスタンスは一緒であり、年160日の休みをとりながらの生活に十分満足していました。

40歳の時、長男が中学に入ると、妻に連れられて教会に行くことをさぼるようになりました。ある日、妻が「お父さん。子供が教会に行くように協力しなさい」と怒るのです。私の妻は、幼い時からクリスチャンです。少し社会勉強と人生勉強の進んだ私は、子供のことを考えると、「この社会の価値観の中だけで生活すると、本当の夢や希望が持てないのではないか。楽しいこと、快楽だけが幸せに思えてしまうのではないか。変化する自分の価値観に振り回されて、人生をつぶしてしまうのではないか」と心配になりました(実は、これは私自身の不安でもありました)。そこで、長男に学校でいう道徳的なものを身につけさせようと考え、そのために私も一緒に教会に行くようになりました。

高慢な私は、はじめの頃、教会は、気の弱い男性と女・子供、そしてお年寄りが行く所と考えていました。しかし、いつの間にか、私自身が聖書のみことばに引き寄せられるようになり、毎週率先して教会に行くようになりました。しかし、「人は何のために生きるか?」(Being)について、自分で本を読み、友人とも話をしてみましたが、頭ではわかったように思えても、信仰を持たない私にとっては、所詮他人事(信仰者の世界)のようにしか理解できませんでした。聖書のみことばが心に響いても、その時限りでした。「聖書が一体何を伝えようとしているのか?」と、いろいろな伝道テープを聴いたり、参考書も読んでみましたが、その求める姿勢はまだ本物ではありませんでした。

その2年後に、2回目の地震が起こりました。

6. 友人の死、そして洗礼へ

近所に住む尊敬する1年後輩が白血病にかかり、「余命6ヶ月」と彼のお父様から聞いた時、またしても何もできない自分を知らされました。涙を流しながら仏壇の前で祈る奥様、悲しみの中の娘3人と妻の姿を切々と私に語る父親の嘆き・・・。彼の家の前で、インタ−ホンになかなか手が届かない自分・・・。「俺ってこんなものか!」。自分に心底絶望したその時、それまで「無意味な形式」と馬鹿にしていた洗礼を受ける決断がつきました。42歳の9月15日、その3日後に、彼は白血病で亡くなりました。残されたご家族に、伝道用のテ−プを渡しました。今でもそのご家族は、私に対して喜んでくださっているようですが、私には、それ以上のことは何もできませんでした。


7. 得意先の社長のご子息の死

そして、昨年(1999年)、3回目の地震が起こりました。11月の初めに、ニュ−ジ−ランド沖で小型飛行機が墜落し、1人の日本人の26歳の若い命が失われました。私共の、20年来の得意先の社長の一人息子さんでした。その社長宅を造らせていただいた時、キ−コキ−コとバイオリンを弾いていた彼の幼い日々が思い出されました。お葬式に参列した時、お母様の、「私たち何も悪いことはしていないのに・・・、一生懸命生きて来たのに・・・」という嘆きの言葉が非常に印象に残りました。これを聞いた時、「伝えたい、主の愛を!」という思いが、私の内に起こってきました。

8. Winning Wayとインタ−ナショナルVIPクラブ

その頃、「インタ−ナショナルVIPクラブ」というビジネスマン伝道の団体が中心となって開催する「Winning Way(ウイニング・ウェイ)」という大会が大阪であることをクリスチャンの友人から聞き、「一緒に行きましょう」と誘われました。スピ−カ−は、富士銀行会長の橋本徹氏、衆議院議員の土肥隆一氏、コリアンエア−ライン(大韓航空)の金光石氏でした。この時、これまで自分の心のどこかにあったマイナ−なクリスチャンのイメ−ジが一掃されて、突然立派になったように思われ、私は非常に恵まれました。そして、エンデイングの聖歌アメ−ジンググレイスを歌った時、もう一度ビックリしました。「クリスチャンは半分もいないかもしれないから、大声で歌わないだろう」と私は思っていたのですが、全員がクリスチャンではないかと思うほどに「豊かな合唱」で、驚きと共に大変恵まれました。

「このVIPクラブの福音の伝え方なら、人生哲学を確立されているマインド、プライドの高い人達にも福音を伝えやすいかもしれないと思い、それから毎月、VIP<大阪>の定例会に参加するようにしました。この世で仕事をしながらクリスチャンライフを送っている人が語る体験談は、私の魂の奥底にまで響く何かを与えてくれました。そして、洗礼を受けてもまだまだ高慢な私であること、神様に対して心がフルオ−プンになっていない自分を知ることができました。主を見ないで人を見てしまう自分が、本当に嫌になりました。

9. Beingの答え、そしてインタ−ナショナルVIPクラブ<京都>設立へ

私の人生における3つの地震を通して、またクリスチャンの友人の導きと恵みを得て、「VIPクラブ<京都>を設立したい」という具体的な伝道ビジョンが与えられたのですが、私自身、それを実行する決断がなかなかつきませんでした。というのは、バブル経済崩壊後の建設単価の下落や、新規事業を始めたばかりで資金が底をついており、また、事務所の移転や新規事業の営業等のためにしなければならないことがたくさんあり、時間的にも経済的にも余裕がなかったからです。会社や社員とその家族のことを考えると、VIP<京都>の奉仕をしたくても、とても動ける状態ではありませんでした。高慢な私でしたが、このために心から祈りました。「主よ。私を養い、私に知恵と力をください・・・」と。

年が明けた今年(2000年)の1月17日、冬の晴れた温かな朝のことでした。いつものようにガレ−ジに車を取りに行くために家を出ると、日だまりの中で、私は、本当に温かい、何か母親の胎の中にいるような気持ちになりました。そして、「ああ−、感謝だなあ」と祈るような無心のため息をついた時、突然主が語ってくださいました。「大丈夫! 私はあなたと共にいる。私はあなたを愛している」と・・・。それは、大きな、大きな、愛のかたまりでした。涙が、喜びの涙が、いっぱい出てきました。47歳の男が道端で涙を流している姿を、近所の人に見られるのは、恥かしいじゃないですか! 私は歩き出しました。そして、気づきました。「私は、今まで自分自身を本当に愛していなかった。また、自分の身近な人々に与える程度の、小さな、小さな、愛しか持ち合わせていなかった」と・・・。

「我々はどこから来て、我々は何をして、我々はどこに行くのか?」(ゴ−ギャン)。主は教えてくださいました。私たちは愛より生まれ、互いに愛し愛され、愛に帰るべきことを。そして命は、この天地と海や水の源を創られた永遠なる神の元に帰って行くことを。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコの福音書12章13節)と聖書は言っています。「自分を愛するように隣人を愛するために、神様が与えてくださったタラント(才能)を最大限に発揮したい、そして、主が喜ばれる人生を全うしていきたい」と心の底から思いました。

VIP<大阪>の(2000年)2月定例会で、安信リ−ス(株)大阪支店副支店長の矢野雅士さんが、「今日は、東京の同僚が仕事に追い詰められて自殺をしたので、本当はその葬式に出なければならなかったのですが、こちらの会の方が大切だと神様から示されて参りました」とスピ−チされました。私は、お話を聞いているうちに、「自分はまだそこまで本当に追い詰められていないではないか。経済的にも、まだ売ってもよいマンションや家があるではないか」と思い、まだまだ自分の生活のことしか考えていない自分を改めて示されました。「もういい! たとえ会社がつぶれたとしても、きっとその方が幸せで、喜びと平安がある・・・」。私は思い切って、「Doing」から「Being」の世界へ飛び込むことにしました。

同年2月、VIP<京都>の祈り会がスタ−トしました。行動に移してから、不思議なことに、本業の仕事の受注が次々と入るようになりました。しかも、私たちの仕事は、受注が一時期に集中したり空いたりと、波があるのが普通ですが、コンスタントに入るようになり、利益率も例年よりも大きくて、その年の秋には会社経営も黒字に転ずるようになりました。VIP<京都>事務局の人件費その他の経費を差し引いても、本年度は黒字が確実。3日前に税理士が来て、「調子いいですねえ。どうしてですか?」と驚かれていました。

私の必要は、主が全てご存じでした。そればかりか、主は、VIP<京都>の必要までも満たしてくださり、勇士による祈りの中で、さらに恵みが増し加えられて、私の会社は大きな祝福を受けるように変えられていきました。主の導きに従い、勇気をもってVIP<京都>をはじめて本当に良かったと思います。これからも、主の十字架を前面に掲げて歩んでいきたいと思います。

たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません。愛は、寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません(Tコリント13章2〜4節)

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です(同13章13節)