人生をコントロ−ルする秘訣

菰渕 泰 (Yasushi Komobuchi)

■氏は大阪地方裁判所執行官。本稿はVIPクラブ大阪2000年3月14日の証しの原稿です。

1. 裁判所とはどんな所

ただ今ご紹介にあずかりました菰渕です。本日はこのような機会を与えていただいて、神様とVIPクラブ<大阪>の皆様に感謝申し上げると共に、最後まで聞いてくださる皆様に心から感謝したいと思います。

裁判所に勤めているということで、まず最初に「裁判官ですか」ということをよく聞かれます。裁判所といえば、イメ−ジとして一番相応しいのが裁判官ですが、かといって全員が裁判官では、会社で言えば課長とか部長といった方々ですから、その人たちばかりでは営業ができませんので、実戦部隊として「書記官」や「速記官」、全体的には「事務官」がおられるわけです。それに対応して、「裁判部」と「事務局」といって、普通の会社と同じように、総務課とか人事課とかに相当するものがあります。そういう複合体の中で、裁判官の数は本当に限られています。

裁判所というと、よく「怖い所ですね」と言われますが、私が保証します。怖い所ばかりではありません。確かに、私なども法服を着て法廷に入り、刑事事件で人の刑罰を決めるという時などは、やはり厳しい感じになります。しかし、戻ってみれば、皆さんと同じように讃美もしますし、冗談を言ったり、明るく笑いながら会話しています。

昔「ツインピークス」という映画がありまして、その中に変な人たちがいっぱい出て来るのですが、それを観た人が、「あっ、この人は役所のあの人に似ている」などという人もいますので、一度持田弁護士に連れて来てもらって見学してください。

裁判というと、「私には関係ありません」と言う方がおられますが、例えば、もし取引や何か工事をしてもらって、その代金を払わなければ、民事事件として裁判を起こされるでしょう。家庭の問題、お子様の問題で裁判をされたりすることもあると思います。ですから、必ずしも刑事事件を起こして、悪いことをして捕まった時だけ関係ができる、という所ではありません。また、裁判に関係する多くの人たちを周囲が支援していくということもあるわけですから、「全く自分とは関係がない」というわけではないと思います。

私も、最初は「裁判所は裁くところじゃないか」、「クリスチャンが裁いていいのか」と思いましたが、そうではないのですね。聖書をきちんと読めば、「裁き司を作れ」という話とか、裁判官の話が出てきまして、社会機構、国家機構の中で、裁判所という制度自体は聖書でも認められていることがわかります。そして、最終的な裁きは勿論神様がなされますが、私たちが人間の知恵を結集した合理的な判断に基づき、神様から託された範囲内で、日常的な諸問題を、私たち自らの手で、裁判を通して解決していくことは必要なんだろう、そんなふうに思っています。

. 書記官という仕事

書記官というのはどういう仕事をするのか、ということですが、基本的には、法廷に入って記録をとる仕事です。裁判手続の関係で、答弁されたり、陳述された記録を書きます。判決書に代わる調書を作成することもあります。このように、裁判の経過の概況を記録しておいて、後日の争いや混乱が生じないように明確にしておくのです。これによって、他の裁判所、特に上訴裁判所における原審判決の適否の調査・判断が可能になるわけですから、正確に記載しておくことが要求されます。民事裁判において、判決の言渡しがあったかどうかの証明については、私たちが作成する調書に絶対的な効力がありまして、他の証拠によっては証明することができないことになっています。たとえ裁判官が、「あの日、調書はないけど、私が判決を言い渡した」と言ったとしても、上級裁判所では一切認めてもらえません。つまり、私たちが作る調書には、一定の範囲内で公証力(公に証明する力)があるのです。私たちが作成した調書にその旨の記載がない限り、判決の言渡しはなかったことになるのです。

このように、基本的には記録をとる仕事ですが、実際にはもっと多くの仕事をしていまして、判決が出ると「判決正本」というのを作って、相手方に送達します。そして、相手方が判決内容を履行しなかったために、強制的に執行する段階に来た時、つまり給料や不動産の差押えをする時には、判決書に執行文を付けることが必要になって来るのですが、そのような執行文や証明力をつけたりする作業も書記官が致します。それをまた郵便で送ったり、ファイルに綴じたり、実に多くの仕事をしていますので、週に一回法廷に入ればそれでよし、というわけではありません。

裁判の中で、証人尋問や当事者尋問がある場合、重要証人や長時間かかるような時の記録は速記官がとりますが、それ以外の時は書記官がとります。ですから、私たちも、証人や当事者が証言する内容をノートに早く取る訓練をしていて、それを証人調書などにするわけです。非常に要領よくやりますので、弁護士の先生にはいたく評判が悪いのです。「大事な質問をしたところが載ってない」とか、「この辺は細かく聞いたのに飛ばされている」とかよく言われます。逐語録的な速記録のようなものが、弁護士さんには好かれるのですが、裁判全体からいうと、速記録というのはすごく膨大になるので、裁判官は「書記官の調書の方が簡単でいい」と言われるのです。いずれにしても、尋問中は常に筆を走らせているので、殴り書きになります。実は私は書道を習っていたのですが、だんだん字がひどくなっていくのを感じています。今はそれを直すために、神様のために教会の前の張り紙を作ったりして、矯正するようにしています。

. 信仰を持って変えられたこと

私が信仰を持つことによって、ご利益ではないですが、どんな特典を得たんだろうか、とじっと考えてみましたら、やはり心の平安、英語ではPEACEですが、穏やかな気持ち、落ちついた気持ち、そのような状態を得られた、ということだと思います。というのは、私は、小さい時から、自分の力で一生懸命結果を出すように努力してきました。ところが、今は、結果を出すのは私の力ではない、ということが聖書を通してわかったのです。一生懸命努力しますけど、結果を出すのは、天におられる「あの方」なんです。私ではないのです。例えば、植物の種をまいて、水をやって育てていても、「私が大事にしたんだ。この冬の寒さから守ったんだ」ではなく、「本当に植物を成長させ、実を実らせるのは天におられる『あの方』なんだ」ということがわかって来たのです。それからは、とても気持ちが穏やかになって来て、一生懸命努力はしますけど、成果は「あの方」の御手の中に委ねるということがわかって、非常に精神的な安定感が得られるようになりました。

. 大量生産と大量消費の社会の中で

最近、黒田禎一郎先生と福田充男先生が書かれた論文を読ませていただいて、資本主義を成り立たせているものの中に、大量生産と大量消費があることに気がつきました。世の中が何か落ち着かないのは、私たち、特にビジネスマンが、この大量生産と大量消費という両面で強くかかわっているからだと思います。

一つは、大量消費の中での消費者の立場です。「今の状態で満足しようと思っていては、ダメですよ。ワンランク上へ行きましょう。でも、そこでも満足しようと思ったらダメ、もう少し上へ行ってもっと沢山買いましょう」。つまり、一台の車を買って満足したと思ったら、もう一つ上のランクの車を買いましょうという形で、心の中に、次々にプレッシャーが際限なくかかって来るのです。このように、消費者の立場として、かかって来る日々のプレッシャ−があります。また、大量消費というのは、大量生産を確保するためにありますから、大量生産をする手段としても私たちは存在していると見ることもできるわけです。

次に、大量生産の中での生産者側の立場です。例えば、一つの物を作るにしても、もっと早く、もっと安く、もっと大量に作ることが要求される。また、次々に新しい物を作ることが要求される。しかも、限られた時間の中で、これら多くのことが要求されるわけです。私達がしているほとんどの仕事には「納期」というものがあって、その時までに作らなければ、いくら一生懸命良い商品を作ったとしてもダメです。だから、必ず「納期」に間に合わさなければなりません。このように社会の隅々で、「納期」という足枷があるから、多くの人々は、単に働けばいいというのではなく、必死になって働かなければならないわけです。「できれば明日にしたい」と思ってもダメなのです。ここがポイントです。だから、私達はいつまで経っても、足枷を履かされたまま、走り続けなければなりません。

さらに、このような大量生産を確保していくために、私達一人一人に厳しい「責任」が課されています。結果が出なければ、倒産、リストラ、配置転換等が待ち受けています。私たちが働き続ける限り、いつまで経っても、このプレッシャーから逃れることはできません。このように、生産者側の立場からしても、厳しい「納期」、厳しい「責任」等があって、私たちの心の中がなかなか安らかにならない。時間をかけ、工夫して仕事をやればやる程一杯仕事が溜まってきて、「私にはどうしてもできません」というパンク状態になっていきます。本当に落ち着いた状態というのがありません。

このようにして、社会の中は、ものすごい速度で振り子が動いているような仕組みになっています。そんな所に、もう一つの振り子を置いたらどうなるかわかりますか? 最近読んだ本の中に出て来たので知ったのですが、一つの振り子にもう一つ振り子をつけると、どっちも同じ速度で振れるのです。これを「同機」と言います。だから、忙しい大阪とか都会に出たら、本当に心が落ち着かなくなる。また、忙しいビジネス社会にいると心の平安が失われてしまう。そんな時に、私たちは、一体どうしたらいいんだろうか・・・。その解決方法は、基本的には人生の優先順位を決めることだ、とある本に書かれていました。

. 優先順位の第一とは

その本を書かれた方は、キリスト教関係のスタッフを3年くらいやって、それからカウンセリングとかコンサルティングのような仕事をしている方ですが、その本の中で、「振り子の中で自分を取り戻す方法は、立ち止まることだ」と言っています。ほんのちょっとでも、長い時間でもいい。それと同じように、自分の生活、すごい速度で走っている中で、ほんの少し立ち止まること、それをすることによって精神の安定が得られるし、自分が大切に思っている優先順位を掴むことができる、と言うのです。

私たちクリスチャンは、祈る時間を朝に備えたりします。そのことによって、大きな振り子から離れて、止まることのない暴走列車から飛び降りた時のように、静まった時間を持つことができます。私の好きな持田弁護士が、「静まることです。これが大切です」といつも言うのですが、本当にそうだと思います。ブランコのような振り子から思い切って飛び降りて、静まる時間を持つ。それから、また進む。

優先順位について、聖書は、「イエス様のことをまず第一にしなさい」と言っています。つまり、まずあの方のことを第一に考えるわけです。神様のことを第一にして、優先順位を決めたらいいのです。また、そうすることによって、はじめて自分の本当になすべきことが見えてくるのです。普通の順番では、神様、家庭、仕事でしょうが、人によっては、家庭や仕事などを、ぐるぐる回る輪のようにしてもいいと思いますけれど、中心の所には必ず神様を置く。そういう優先順位をつけない限り、心の中に本当の平安は得られません。

6、信仰、希望、愛

世の中にはいろんな物の考え方がありますが、「脳みそを思いきり絞ったら、この世の中のことがすべて解決できる。神ですら、人間の脳で作ったんだ」というような考え方もあります。しかし、本当にそうなんでしょうか? 本当に誰かがデザインして作らない限り、私たちのこんなすばらしい脳みそはできないと思います。人間の手足にしてもそうです。下等な細胞がある日突然変異して、私たちにとってなくてはならない高度な目の水晶体に、いきなり変わるのでしょうか? そのようなことは到底考えられません。誰かがデザインし、誰かがこの世の中のすべてを計画し、すばらしい見事な秩序と調和の中にこの世界を作られた、ということがわかる時、私たちは精神的な安定を得ることができます。そして、もっとすばらしいことは、この世界や私達を創造してくださった方が、愛の神様だということが、信仰によってわかることです。そのようなお方が、本当に自分のような者さえも忘れることなく、愛してくださっているということがわかった時、真の意味で精神的な安定、心の平安を得ることができるのです。

聖書の中に、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」(Tコリント13:13)とあります。聖書が信仰の書であることからすれば、この中でも、当然信仰が一番すぐれていると思われるでしょう。ところが、聖書には、その後に、「その中で一番すぐれているのは愛です」と書かれているのです。本当に神様は愛の方で、一人一人を愛しておられます。愛は、ピアノのように目に見えるものではありませんが、人の行動を通してその存在を知ることができます。同様に、神様はご自身のひとり子であるイエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけることにより、その愛の大きさを示してくださいました。それと共に神様は、今も私たち一人一人に直接はたらきかけてくださり、どれほど私たちを愛してくださっているかを教えていてくださるのです。

. 神様は生きておられる

私にも、その不思議な体験があります。本当に神様が生きておられ、この世の中を支配(コントロール)しておられるとわかったことがあるのです。それは、日曜日にどうしても行かなければならない用事があった時のことです。私の行っている教会は、通りから奥まった所にあるため、私は、その用事のために、どうしても礼拝メッセージの途中から退席しなければなりませんでした。ですから、牧師に、「メッセージの途中で席を立つのは失礼なので、讃美の終った段階で帰らせてください」と言ったら、先生は、「メッセージの途中で帰ってもいいですから、そのままいてください」と言われました。「わかりました」とは言ったものの、メッセージの途中で時間が来ても、なかなか立てるものではありません。少し遅れ気味になってしまい、急いで表通りまで走り、タクシーに乗って最寄りの駅まで行くことにしました。

私が急いで教会を出て、最初の角を曲がると、何と、ちょうどそこへ、1台のタクシーが走って来るではありませんか! そして、私の目の前でピタッと止まって、お年寄りのご夫婦が降りられたのです。まるで私のために、神様が「このタクシーを用意しておいたから、早く乗りなさい」と言われたように思いました。正に、渡りに船。私は、すぐにそのタクシーに乗って、駅まで行きました。その後も、礼拝の行き帰りで、その場所をよく通りますが、タクシ−が近くに止まったのは勿論、タクシ−の姿すら一度も見たことがありません。あの瞬間に、私は、神様が今も生きておられる方であり、「わたしはここにいるよ。あなたの傍にいるよ」と言ってくださったように思いました。

その時から、神様は、私の人生にもすばらしいことを計画されていることがわかるようになりました。全くの偶然を超えた不思議な体験を、何度もしました。例えば去年(1999年)の2月、静岡県である大会があり、私もその大会に参加しました。その中で、ウエン・コデーロというハワイの先生が、聖書の中からヨシヤとカレブの話をされました。その後、私の教会の牧師が、礼拝メッセージの中でその部分を紹介されて、「うちの教会では菰渕さんと○○さんの二人がヨシヤとカレブだ」と言われました。私は、そのヨシヤが大変気に入って、早速「ヨシヤ」をミドルネームとした名刺を勝手に作りました。先生は、「あなたをヨシヤと言ったつもりはない」と言われるのですが、「それは先生が言われたのではなく、神様が言われたのですよ」などと冗談で言って、勝手に作ってしまいました。

私は公務員ですから、本来名刺など作ることはありません。必要ないのです。ところが、ミドルネームが嬉しくて、3月に名刺を作ったのですが、昨年(1999年)4月からVIP<大阪>が始まりました。持田弁護士から、「VIP<大阪>が始まるから、手伝ってください」というお声がかかって、その瞬間に神様の意図がわかりました。この名刺は私が作ったものではなくて、あの方が作らせたものなんだということが・・・・。VIPクラブでは、名刺交換をします。名刺がたくさんいるのです。「神様って本当にすばらしいな」と思いました。

また、本日、このVIP<大阪>の集会前に、祈り会をしていました。祈り会の後で、先程きれいなピアノを弾いてくださった中台さんという方が、「お久しぶりです」と挨拶されました。私は、どなたかわからなかったのですが、「7年程前にお母様を亡くされた時、お葬式で奏楽をさせていただきました」と言われた瞬間に、神様の不思議な導きを感じました。7年も前にお会いした中台さんと、このようにご一緒にVIP<大阪>でご奉仕できるように計画してくださったと。神様は本当に不思議なお方です。しかし、不思議なことだけではありません。全ての道を整えて、私たちの人生の中で神に仕えていくことがどんなに幸せなことなのかを教えてくださいます。

. 殉教

話は少し変わりますが、最近遠藤周作の『沈黙』、『深い河』、『侍』という本を読みました。それらを通して「殉教」という言葉が印象に残り、すぐに感激するタイプですから、「僕は殉教してもかまわない」と思いました。そして、それを人に話したのです。そうしたら、神様は、毎日夢を見させてくださいました。私は、夢の中でユダヤ人になって部屋の中に隠れているのですが、部屋の外で、ナチスの人間がノックするのです。「うゎー、死の恐怖ってこんなことかな。『殉教する』って言ったけど、簡単なもんじゃないんだな」。夢の中とはいえ、殉教していった多くの人たちの心情を少しは理解でき、「私にはそういう真似はできないし、軽々しく口には出しませんが、あなたのために殉教できる生き方は本当にすばらしいと思います」と言えるように、私を変えてくださいました。

. 神の思い

先日、聖書のイザヤ書の45章を読んでいて、神様が造られたものが4つ書かれてありました。「私は光を造った。私は闇を造った」。ここを読んだ時、「光の当たっていない所が闇ではなく、闇も神様が造られたんだ」ということがわかりました。続いて、「私は平和を造った」とあったので、感謝していたら、最後に「私は災いを造った」とありました。災いを造られたと知ってがっかりするんじゃなくて、この世の中の一切は、たとえ病気ですら、神様が許されない限り起こりえないということなのです。

阪神大震災で約6千人の方々が亡くなられましたが、それすらも神の許しがなければ起こらないことでした。辛いことですが、それを認めなければなりません。雀が落ちることすら、神の許しがなければ起こらない、と聖書に書いてあります。そのような災いがなぜ起きるのか、その深い意味を私たちは完全に理解することはできません。しかし、神様には、私たちの思いをはるかに越えたご計画があります。私たちは、その神の思いを祈りの中で常に受け留めていくことができるようにしていかなければなりません。

そして、祈りというものは、決して苦しいものではありません。あるカソリックの先生は、「祈りは、神様とひなたぼっこをするようなもの、太陽にあたるようなもの」と言っています。またある人は、「祈りとは神様の中に休息すること」と言っておられます。
つまり“行”のようにするのは、本来キリスト教的ではないのです。神様という方はもっと柔らかい方です。ある牧師は、「朝の静まった時、コーヒーを用意して、それをすすりながら聖書を紐解いて、みことばと共に生きる」と言っておられましたが、そんな祈り方でもいいと思います。そのような神様との親しい交わりを通して、私達は、神を愛した初めの愛に常に戻り、また、神の思いを知り、神の思いを自分の思いよりも優先していくようにする、これが大切なことだと思います。

10. 大阪法曹聖研(VIP<大阪ロイヤ−ズ>)

聖書は、言葉遣いが厳密で、また、1つ1つのことばの中に深い意味があります。しかし、時々、いろいろな方のメッセージを聞いていて、残念ながら、解釈の点で少し詰めが甘いのではないかと思う時があります。特に、ビジネスマンの方は、社会の中で常にもまれていますから、このような洞察力に富み、眼の肥えたビジネスマンを納得させるためには、もう一工夫必要ではないかと思います。

私自身も、学生時代から、また社会に入ってからも、ずっと厳密な法律の解釈の世界の中で生きてきました。その法律をどのように解釈するかによって、人の権利関係が決まり、あるいは有罪・無罪が決するわけですから、その解釈は慎重にしなければならず、かつ、その内容が他の人を十分に説得できるものでなくてはなりません。このような訓練を日頃から受けてきたものですから、どうしても詰めの甘い聖書の解釈、どこか曖昧で、痒い所に手が届かないような聖書の解釈が、どうしても気になってしまうことが多いのです。

しかし、神様は本当に感謝なことに、「大阪法曹聖書研究会」(現在のVIP<大阪ロイヤ−ズ>)に参加するように、私を導いてくださいました。ここでは、法律を専門とする者が、法律の解釈学の技術をそのまま自然に使って聖書も解釈する、そのような学びの時間を持っています。毎週火曜日のお昼休みに、弁護士会館4Fの一室でしています。もう始って今年で11年になるそうです。ここでの聖書の学びの中で、私は本当に気持ちが癒されました。「こういう解釈の仕方がある」、「こういう風に厳密に解釈するんだな」と、本当に楽しい時間を過ごさせていただいています。神様は、私たちそれぞれのニ−ズをご存知で、それに相応しい仲間や時間を与えていてくださることを心から感謝したいと思います。

最後に、聖書のみことばを一ヶ所読ませていただきます。私の非常に好きな言葉です。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書55章9節)。

神様の高い思いを、自分の人生の中で大切な指針として、それに導かれるように生きていきたいと思います。仕事の中でそれを果たすことができれば最高です。本日は、どうもありがとうございました。