3つの大きな出来事

荻野 博恵 (Hiroe Ogino)

■氏は株式会社荻野取締役。本稿はVIP大宮(2月9日)の証の原稿です。

1.自己紹介

ただいまご紹介に預かりました荻野です。

現在、私の父と叔父が創業した会社に勤務し、役員として経営を補佐しております。私の会社の内容は衣料品(特に建設・建築関係のユニホーム)を扱う卸売業、問屋です。ワーキングウエアを企画して中国で製造し、小売店へ納入販売をしています。住んでいる所は宇都宮線沿線の久喜市です。家族構成は、妻と子供3人の5人の構成です。

2.勤務する会社が変わった頃

結婚して、勤務する会社が変わってから1年半くらい経った私が32歳の頃、キリスト教と出会いました。この頃の私は、新しい職場の生活と結婚生活にも慣れていろいろな事を模索始めた頃でした。今まで積み上げてきたキャリアや人脈は何だったのか?繊維業界、繊維という業種・問屋業の将来について非常な不安感と閉塞感を持って仕事を続けていました。同族会社における自分の位置付けに悩み思い煩っていました。また、以前勤務していた頃の、海外出張時の楽しみも皆無となり、羽目をはずして遊ぶこともなくなっていました。

以前、勤務していた会社は、紡績会社でした。私は、新しくできる貿易事業部に配属され、上司を含めた部の構成人員も部長と係長、商社出身の部長補佐と私という4名ほどの小所帯でした。新事業部は、何をするのも初めてのことでしたが、順調に部としての体裁を整え規模を拡大していきました。出張が多く月の内半分以上を営業のための国内出張、仕入のための海外出張という生活を7年間おくりました。部の立ち上げのときから参加しましたので、働き甲斐もありました。

その生活が一変したのです。実家のほうの事情と私自身の結婚という事もあり退社し現在の会社に移りました。毎朝、7時15分に家を出て、会社へ行き午前中は経理事務、午後は荷物の配送、夜7時頃には家で、夕食をいただく生活へと変わりました。この生活は1年半くらい続きました。規則正しい生活を送り、子供の面倒をみる理想の父親生活を送っていたのですが、心の中では葛藤がありました。早く帰って夜を家で過ごす男は有能な男がする事ではないという想いが強く、また、家族と過ごす時間が多い事は「恵なのだ」という事が判りませんでした。

仕事の内容も、事務と配送業務です。今まで営業のことのみを考えていれば良かった私にとっては、営業以外の仕事・コンピュータ導入や経理、出荷業務に嫌気がさしていました。覚悟していた事とはいえ、小企業のスケールの小ささに驚きを隠せない毎日でした。

また、都会育ちの妻は田舎の久喜の地での生活に馴染めなく、一人目の子育てのことでノイローゼ気味になっていました。親戚関係の複雑な田舎の生活、近所に友人もなく、子育て初体験の不安な生活、相当な不満が有った事と想います。私は、小学生のころから道場に通っていた事もあって、体育会出身特有の、男尊女卑、目上の者は絶対者、という事が体にしみついていた性格でしたので、妻に優しい言葉もかけずに俺について来いという感じで突き放す事もたびたびありました。思想的にも妻は、洗礼を受けていなかったのですが、ミッションスクールに子供の頃から通っていた事もあり、私とは意見の合わないことも多いようでした。

私達家族の将来はどの様になっていくのか?表面的には平安でも心の中は不安と不満が交錯していました。私は自分を変革しなければいけないと想い、自己改革・思想・宗教のたぐいの本を多く読みました。自己改造のための教材一式も購入しました。その教材に入っていたテープは繰り返し聞くことによって、深層心理に働きかけるという洗脳に近い形で用られるものでした。

ある日、いつものようにテープに聞き入っていますと、「何事でも,自分にしてもらい
たい事は、他の人にもそのようにしなさい。」マタイ7:12という言葉が出て来ました。妻が「今言ったことは聖書に書いてありますよ」と言うのです。他の箇所からも多くの聖書の言葉が引用されているようでした。その都度、妻が「聖書に書いてありますよ」とコメントをするのでした。またぞろ妻が変な話を始めたぞと想ったのでした。しかし、この時の言葉、聖書という言葉は深く心に残りました。聖書の言葉がキーワードとして用いられているこの自己変革の教材を再び活用し始めました。

3.教会の門をたたく

ある日私は妻になにげなく、「近くの教会に連れていってほしい」と頼んで教会へと連れていってもらいました。教会の説教は本当に難しく理解できませんでした。理解できないどころかそのときに何の話をしていたのかいまだに思い出せません。

ただ、中学生の頃から死ということについて考えていたこともあり、何かを求めて、成長の家や霊友会・曹洞宗等に1・2年間づつ通っていましたので、今回もとりあえずしばらくの間、話を聞いてみようと思ったのでした。始めて聞いた説教は難解で、何を言っているのかさっぱり判りません。その後の礼拝も何を言っているのかさっぱり判りません。妻が近所に友人がいませんので、社交場の気分で日曜日の礼拝に出席していたのでした。毎週特別な予定の無い限り礼拝に出席していました。

子供と妻は教会で主催していた、ロバの子という幼児向けの会合へ、私は夜と土曜日が比較的暇でしたので、英会話・バイブルクラス・求道者向けの聖書クラスに出席していました。

始めて教会で説教を聴いてから1年程度経った頃の事です。妻が妊娠して臨月まで後わずかとなった6月の聖餐式のときに、「母子ともに元気で赤ちゃんが無事生まれますように!」私は心から祈りました。祈っているときに、なにかが心の奥からこみ上げて来ていつのまにか右手を上げ、「主イエスを信じます。」「イエスはよみがえりです。命です。」と告白し、パンと葡萄酒を口に含んだのでした。

このとき私の右手を上げさせ、体が浮いたような感覚を受けたのは不思議なことだったと思いだします。

4.二人の自分

クリスチャン生活を始めたところ、今までは考えられないことが生活の中に現れてきました。二人の自分です。1人はクリスチャンとしてふさわしい者となるように懸命に努力する人。教会学校・英会話クラス・バイブルクラスでの奉仕を積極的に行い、奉仕そのものに喜びを見出さずに努力している人。葬儀そのものが偶像礼拝であるとかたくなに思い、葬儀や法事等に理由をつけて出席しない自分や、私がクリスチャンである事を伝えていないのに、キリスト教式の祈りを行い遺族の方を戸惑わせたこともなど、相手の感情を考えずに自分のことしか考えない私がその場に居たのです。私の意識の中では「私が主を受け入れた」ということが強かったのでしょう。「主が私を赦し、救ってくださり、受け入れてくださった」という事が私の霊的な部分でわかっていなかったのでした。

また一方で、クリスチャンですと声を大にして、証する事ができない自分もいました。洗礼を受けることを両親に話したところ、父と「会社に関係する人にはクリスチャンである事を隠す事」という約束をかわしてしました。会社の中で私はクリスチャンですと。証できない日々がありました。

したがって一部の人にはクリスチャンである事を隠したまま、会社に関係の無い親戚や近所の人には証をする・伝道するという二重生活がしばらく続く事となりました。

特にクリスチャンになり立ての頃は、会社での自己と会社以外の自己を完全に使い分けて生活していました。取引先の倒産があり売掛金の取立てに走り回ったときがありました。このときなど相手と担当者だった社員とには厳しい言葉を投げつけながら、祈祷会では相手のために真剣に祈る自分がいました。

主は、自己中心の私を投げ出さずにいつも手をさしのべていてくださるという事実を10年かけて、さまざまな事を通して分らせて下さいました。私の傲慢で頑なな心は本当に少しづつしか動かされないのでした。

主はその中でも、3つの大きな出来事を通して私を砕かせてくださいました。1つは飲酒事故、1つは新規事業の立ち上げ、1つは会社の分裂・分派でした。

5.主の恵み(奇跡)

@ 飲酒事故

洗礼を受けた後も1ヶ月に3〜4回程度の飲酒を続けていました。受洗してから2年半くらいたったころでしょうか。いつもはビール1本程度飲んで実家で休んでから帰途につくのですが、その日は焼肉店で、会食時にビールを2・3本程度飲んだ後に全く休まずに、車で帰りました。自宅までは30分位かかります。その日はいつもと違う道を通って帰りました。久喜駅の東口を知っている方なら判ると思いますが、線路沿いの狭い道を通ったのです。駅前の交番の手前10m位のところで、居眠りのため横転してしまいました。家まで、2分くらいの距離のところで居眠り運転をして車が塀に激突してしまったのです。気がついたときは天地がさかさまになっていて警官が横にいました。そして、何かを話していました。「大丈夫ですか?」「車から出られますか?」このような事でしょうか。

私はシートベルトをしていたために、天井やフロントガラスに頭をぶつけずに車の座席に縛り付けられたようになっていました。すぐに、シートベルトをはずして外にでようとしましたが、ドアが開きません。窓から外に出て、立上がって車を見ました。見事なまでに車が反転していました。

この道は通勤通学帰りの歩行者が多いにもかかわらず、接触して怪我をした人も誰一人としていませんでした。奇跡でした。すぐに警官に交番に来るように言われ酒酔いの検査をしましたがアルコールがでませんでした。奇跡でした。

私自身は意識が朦朧としていて主に感謝どころではありません。まして、この間のことはあまり記憶がありません。歩くときも、会話をしているときも平常どおりの様子だったようです。警官の質問に対し、丁寧に答え、ビールを飲んだ事も答えました。また、私の事故を見た人が対面車両を避けるためにハンドルをきったと取り計らってくれました。

しかも、警官はこの事故を居眠り運転として処理して全ての保険が扱われるように取り計らってくれました。車は当然自走出来ないためレッカー車で移動されそのまま廃車となりました。しかし、私自身はシートベルトの痕が肩と横腹に少しついただけでその外の外傷は全くありません。医者に行っても異常無しという事で、湿布薬を戴いただけで、2度通院したのみでした
。奇跡です。

塀に激突した瞬間は全く覚えていませんが、警官に呼ばれた瞬間からの事はいまでも鮮明に思い出します。(特に私が飲んでいるときにですが)このときから、お酒の度が過ぎるというときに事故の幻を見せて止めてくださる、酩酊してはならないと叱ってくださるという事を主はなして下さいました。奇跡です。主は私に命を与えてくださいました。

A 新規事業

会社を移ってから3年後1992年頃、洗礼を受けた直後に、中国での縫製を行い本格的に製品を輸入する事になりました。自社でL/Cを開設し製品の生産・輸入・販売を行う事にしました。以前勤めていた会社で、製品の輸入販売をしていた事もあり、何ら問題もなく軌道に乗ると考えていました。自社で生産して輸入する、輸入したものを小売店に販売する。

簡単な事のように思えました。今までは、商社へ商品を発注し商社側で生産管理を行っていました。商社に取り引き口座開設を申し込んだときも、なかなか相手にして戴けず何社もにも足を運びました。各取り引き商社に対して、毎期事に決算書を提出し、年毎に仕入金額枠をお願いするという、悔しい思いをしながら仕入を続けていいました。この点だけを捕らえても挑戦する価値はあると考えました。

このことは思いもかけず無謀であることが直ぐに判明しました。銀行との信用状開設の金額枠の設定をおこない、増える資金需要をまかなうための借り入れを増やしました。年商も7億円くらいでしたが、会社として信用がなくてもバブルの中盤頃でしたので、この事は比較的スムースにできました。

しかし、生産委託をする信頼すべき相手がなかなか見つかりませんでした。1991年92年当時は商社の力が強く、一小企業が信用状を開設して海外から商品を輸入する事は特別なノウハウの無い限り考えられない事でした。特に中国は改革開放の波が始まったばかりで、国営企業が幅をきかせていたころです。

海外の工場、エージェント発掘に関してはわが社の知名度の低さ、委託生産数量の問題、生産商品の選定で非常に難儀しました。販売ルートの確保(販売ルートの確保は他の営業担当)等、しなければいけない事はあまりにも多く働き手はいないという状況でした。

このころはよく祈ったと思います。特に洗礼を受けたばかりで、気持ちも高揚していたときでした。百万円単位の少量の製品輸入(台湾、韓国、香港)に付いてはうまくいっていたのですが、主力製品を中国で生産する最初の挑戦は見事に失敗しました。

このとき、主は「あなたがたの合った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを絶えることのできないような試練に合せるようなことをなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」コリントT10:13という聖書の言葉を与えてくださいました。

できあがった少々問題のある商品を安値で販売する事をとおして既存の得意先以外の顧客の開拓を行なう事ができました。また、海外生産に対する戒めを初期の段階で与えられたということは幸いでした。海外生産の失敗は会社の存続に関わるという思いが全社的な一致として生まれるきっかけとなりました。この後も生産に関しては100点を取る事が難しく、生産委託工場の倒産なども発生しました。

人は苦しいときに試されるものだと実感したのもこの頃の事です。倒産の処理にあったころ、資金繰り等の悩みは日本も中国も全く同じだなあと、かえって現地の企業のことを考えるきっかけとなりました。現地の方とより緊密な関係を築く事ができ、福音について話をしたり、「聖書の中にこんな御言葉がありますよ」と聖書について語るきっかけを作ってくださいました。もっとも親しくなった方には中国語の聖書を渡す事もできました。

中国にいるときはいつも主を身近に感じていました。現地で1人で行動していることと、中国という広大な土地とが、主のごりんざいについて素直に感じられた要因ではなかったかと思います。また、教会で朝や夜に一人祈ったのもこのころでした。

B 順調な売上から会社の分裂・分派まで

製品の輸入が本格的に始まると、製品が大量に倉庫に入ってきます。輸入拡大のためには現金支払いの取り引きを開拓することの必要に迫られました。製品をさばくための大量に商品を扱っていただけるチェーンストアの取り引き先を新規に開拓しなければならなくなりました。良い循環が生まれたのです。1991年に7億万円だった売上が1997年に13億円に、8名だった人員が26名に、他社が苦しみ始めた1994年以降も順調に業績を伸ばす事ができました。

ブランド力を持たないわが社は、比較的安い商品を供給する事に徹しました。大量に生産する事によって、コストを下げることを優先しました。取り引き先も、300件以上ある小規模小売店舗顧客を整理し、売上上位100に絞り込んでの販売に切り替えて、50店舗以上あるチェーンストアへの販売を重視しました。売上の比率も上位10社で80%となり、特に2社(同一のグループ企業)のみで売上の35%を占めるという事態が発生しました。

得意先の絞込みによって、生産する商品も大量少品種へと変わっていったのです。全てが順調にまわるときは、効率的な経営形態でした。この方針は5年間間違っていなかったのです。

しかし、主力先の売上比率が高まったことは、納入する主力得意先からの値引き要請、協力金要請、応援販売等の人的な要請が増える事を意味しました。会社の人員を安易に増やすことに繋がりましたが、売上が順調に伸びていく中で後の問題に繋がるとは考えても見ませんでした。

そのときのもっとも適した経営をしているという錯覚は、自らを慢心に導き、変化する事を恐れる気持ちを起こしていまいました。変革を伴うときは変化を認めにくい組織であったという事を学んだのは、赤字決算を計上してからでした。1999年の2月決算が円安の風をまともに受け、売上横ばいながら経常利益は大幅な赤字という決算を出してしまいました。このときの赤字の原因を円安と分析していましたので、特に販売方針を変えることなく、生産のコスト低減のみに神経を費やしました。製造コストを下げるため、協力生産工場の見直しを行いました。一時の損益で、長年にわたり信頼関係をきづいてきたエージェントを切り捨て、新しい生産基地へと移動しました。コストは確実に下がりましたが、物作り、特に私の扱っている服は、労働集約産業の最たるものです。人間関係が商品の品質にストレートに現れます。

また、社内においても役員の2年間の給与カット、社員の1年間の給与カットを決めました。人間関係がうまく機能しなければ良い商品ができるわけがありません。どの様に立ち回れば再び会社としての機能がうまくまわっていくのか?がむしゃらに進んでいきました。

心の中は、思い煩いばかりでしたが、周りの者からは「元気でいいなあ」といつも言われていました。私は、いつものごとく「困ったときは神頼み」の者ですから、また再び祈り始めていました。祈りは平安につながりました。正式な決算が出てから8月頃まで祈りを一人で続けていました。9月頃になると2000年2月の決算は減収ながら大幅増益の見通しがたったのでした。

いつもでしたら業績回復の見通しが建ったところで、祈る事をやめてしまうのですが、このときは、9月末から再び祈祷会へ出席するようになったのです。悩みの種が消え去ったというのにです。自分にとっては不思議な事でしたが、祈り会に続けて参加した事は、2000年に起こったことの備えとなりました。

業績の回復に確信を持った1999年年の暮れに、わが社の納品した洋服から縫い針が検出されました。コストを下げるために新規に取り組んだ工場の製品でした。検案していた事が現実のものとなりました。迅速な対応をしてお客様に対しては事無きを得ましたが、納入先等に多額のペナルティを支払いました。この事件がきっかけとなって、主力取り引き先との間に相互不信が生まれ、2月20日に売上の35%を占める主力取り引き先から取り引き停止の通達を受けました。

先方の代表と数回、話し合いのときが持たれましたが、最終的に3月10日までの取り引きと決まりました。私達は、直ぐに銀行からの借り入れを実行し、同時に中国の協力工場の生産は、中止・延期・キャンセルを実行しました。売上の減少を食い止めるため、親しい会社に対して仕入の一部を弊社経由で行う契約を行いました。配送出荷関係のパート社員は3月をめどに退職していただくことにしました。

これらの件について教会の友人に相談に乗っていただき、また、祈っていただき勇気付けられました。一連の手続きが終わると同僚の役員が私に対して、退職の申し入れをしてきました。「ともに会社を辞して別の会社をとまで」言われました。この役員は会社に30年勤務していた方で、売上の20%、仕入の40%を担っていました。私は、次の社長はこの人と勝手に決めていましたので、想像を絶するほど落ち込みました。退職の件は一ヶ月に渡って話し合いをしましたが、意見が合わず退社が決まりました。この方に商圏を譲り、商圏に見合う正社員とプラスアルファーの人員を引き取ってもらうことを決断しました。このことが正解であったのかどうか?いまだに判りませんが、現在もこの方と共同仕入を行いコスト低減に協力して頂いております。

7月にこの役員と行動をともにする5名の人間が退職するまでの間に、生産中止の理解を得るために月に1回程度の割合で中国へ行きました。やっと会社の中に落ちつきが戻ったと思っていた矢先に、経理を担当している私の弟が会社を辞めると言ってきました。よほど私に言いづらかったのか、私が中国に言っている最中に退職を申し入れていたのでした。弟とは仲が良く良き相談相手でしたので、3年前にもやめたいといった事もあり、今回は止めませんでした。

わずか半年の間に今期の売上予定は55%になり人員も60%になるという事態が発生したのです。「主われを愛す、主が強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ、」と口ずさんでいました。この出来事を通して神様は大いなる恵みを与えてくださいました。
私達夫婦の絆はかえって強められました。朝二人で祈るようになりました。ふたりで祈ってから会社へと向かいましたので、不思議と平安がありました。


6.VIPクラブとの出会い

以前は、苦しみは私のものという思いが強かったのですが、今回の苦しみはとても私1人では引き受けられないと思いました。クリスチャンの人生の先輩がたの話を聞きたいと思うようになりました。そして似たような経験をされたクリスチャン企業家やビジネスマンに話を聞きたいとの思いが強く与えられました。

以前これらのことを相談した兄弟がVIPクラブの中心的な人物でしたので、大宮VIPクラブの事について尋ね、今日のような会合に出席するようになりました。VIPクラブに参加している方の体験談は、想像していたとおりでした。「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わる事がありません。」ローマ5:3,4,5聖書の言葉どおりを歩んでいる方々の証でした。仕事上の試練を、主に、より頼んで、解決されている事を知り大変勇気付けられました。

現在も、会社の状況は苦しく今期の決算は芳しくありませんが、私自身の思い煩いは少なく、不思議な平安が与えられています。


7.信仰生活で忘れられないこと

1999年の9月頃から再び出席するようになった祈祷会は、ちょうどヨナ書を学び始めたときでした。ヨナ書の影響でしょうか?私はいつのまにか中国へ伝道をしたいという気持ちが高まってきて、ついに聖書を中国へ運ぶ働きを手伝いたいという気持ちが起こされました。自分の出張に合わせて聖書を運んだのです。自分の都合で聖書を運ぶ働きを行ったにも関わらず、主は中国で伝道の働きをされている方々に引き合わせてくださいました。あらゆる艱難に遭いながら喜んで主に仕えている。死を前にしても、主を捨てない中国の伝道者たちと交わりの時を持つ事ができました。、ヨナのように自分の取った行動を誇っている自分、空港の税関や飛行機の乗り継ぎのときに聖書を抱えながら不安に陥っている自分の行動とを対比させながら、中国の伝道者が喜びを語る唇を見ていました。

中国国内の迫害の事を直接聞き、身近な事として感じるようになりました。彼らの話を聞きながら次のような聖句を思い起こしていました。

 

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25,26)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。(Tテサロニケ5:16-19)。

また、洗礼を受ける際に猛反対した父が、会社分裂の時に私の取った行動に対して、「クリスチャンになって良かったな」と言ました。キリスト教に対して始めての理解をしめしました。この言葉を聞いたとき改めてクリスチャンになって良かったという気持ちが沸いてきました。

忙しくて教会から離れそうになったときに、いつも頭から離れない事がありました。それはCSやJ.YLCの子供達の顔、特に目です。日曜日の朝今日は疲れているから教会を休もうとすると、子供たちの目が浮かんできて私を日曜学校へと遣わしました。このことが、わたしが教会を離れなかった要因の一つです。子供たちを教会学校で教えているというよりも、私が子供達に支えられ恵みを受けつづけたということが判るようになってきました。何よりも、妻と家族との間に共通のバックボーンが生まれた事は、生活する事の喜びを与えられました。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えをくちずさむ」

もし、私が、クリスチャンで無かったとしたら、聖書を読む習慣が無かったらさまざまな問題に直面したとき、判断を下す事ができたかどうか?自分の下した決断に納得ができたかどうか?少なくとも、聖書を開いて思慮する時間を与えられたという事はクリスチャンとしてのすばらしい特権を頂いたと思っております。苦しみのときに、祈りによって平安を与えられた事が何度あったでしょうか?妻が祈りの時をともに持ってくれるということが、なんと言う幸いな事、祝福でしょうか?(この場を借りて妻にありがとうを言ってもよろしいでしょうか?)喜びや苦しみを分かち合い、ともに祈ってくださる兄弟姉妹がいるということはなんと言う幸いな事でしょうか?御言葉を心の内に持っているという事はなんと言う幸いな事でしょうか?御子を信じる者は永遠の命を与えられるという事はなんという幸いな事でしょうか?主は多くの恵を晴れの日も雨の日も嵐のときも与えてくださいました。本当に感謝します。

20数年の自分の社会人生活や、洗礼に預かった当時のことを振り返ることができ、主の恵を改めて思い起こしてくださる機会を与えてくださったVIPクラブの方に感謝申し上げます。最後まで、私のつたない証を聞いてくださった事に感謝します。本当にありがとうございました。