一層奮励努力せよ・・・そのかげに隠れているもの

早船 真一 (Shinichi Hayafune)

■氏は現在、丸紅株式会社原子力・電力用炭部に勤務

「他人の力を頼らずに、自分の力で道を切り開け」、「努力に勝る天才なし」、「負けずに頑張れ」、これらの言葉は、日本人が子供のときから繰り返し聞き、美意識として日本人の心の深層に沁みこんでいる概念です。そして、努力して成功することが日本人にとって美談です。私自身も、典型的な日本人の家庭に育ち、例外ではありませんでした。でも、これらの美徳と思われている概念は、私が重大な真理へ開放される障害となっていたのです。

確かに、自分で努力し、工夫し、成功への道を切り開いて獲得することは、生きがいを感じることであり、誰しも望ましいと思うことです。そして成功体験を多く重ねるにつれ、次の成功の目標を設定してチャレンジしようとします。このような生き方はいいことで、おかしいところはない、私は長年そう思ってきましたし、実際私自身社会の一般的な基準で言えば、成功している部類に入ると思います。ですから、この概念が心の奥底から私自身にしみついていました。

私の場合、何か大きな問題に直面して主イエスを求めたのではなく、将来にわたって守られるよう、「人生の道しるべ」ということを期待したことが大きな動機でした。イエス・キリストを信じた後も、いいクリスチャンでありたいと願いつづけました。主の栄光のために生きるのがクリスチャンとして生きる使命だと考えていました。頭の中では、「ただ、お金、名誉、権力、成功を求めてもむなしい。会社でどんなに一生懸命頑張っても、どんなに経済的に成功しても、神から離れれば虚しい」、とわかっており、「自分は神様に仕えているから虚しさとは関係ない、事実神様から聖書を通して慰めと平安を与えられている」ことや「主に頼って生きることが大切だ」と明確に理解していましたし、「神様の前にいい人でありたい」と願っていました。

そうでしたから、クリスチャンとしての生活も、一生懸命頑張って、神様に仕え喜ばれたいという、一般の社会生活の延長の意識で考えていました。これは、まさに日本人の美徳とする概念にピッタリくるところです。

今から振り返って考えると、心の奥底にある自分の無意識の世界にあるもの、これが私の行動原理に大きな影響を与えていましたが、これにほとんど気づきませんでした。意識の根底にあったのは、自分中心の思いであり、他人を本気で顧みることのない傲慢な思いでした。でも、それが、勤勉・努力という美徳のオブラートに包まれて存在していたために、非常にわかりづらい状態であったのです。

聖書には、人間には罪があると書かれており、その意味するところは、完成された人格からずれているということです。私はとても完成された人格とは思えませんでしたので、自分がずれているということは素直に納得でき、イエス・キリストを信じることで、このずれが赦されるということは、受入れるのに苦労しませんでした(苦労したのは、むしろ科学と聖書の整合性でしたが、これは主から完全に納得できる解決を与えられました)。

自分に罪があること、すなわち自分が完璧からずれていることには全くの疑問を持ちませんでしたが、自分の心の奥底における歪み、自己中心の思いが、自分にとっての本当にずれたものだと気づくのに相当長い時間がかかりました。

私はできるだけ、神様の役に立つことで貢献したい、教会でもできることをして仕えていきたい、という願いがありましたが、私の妻は最初、私が様々な活動に加わることに強行に反対しました。私は主に祈りました「あなたに仕えようとするのに、なぜ、家内が反対するのをお許しになるのですか」と。このときに、自分で満足の行く仕え方をしていないと、神様に喜ばれないであろう、という勝手な恐れが自分の内側にあったことに気づきました。神様は「天の父なる神」であり、アバ父と呼ぶことができる特権を与えられていることは、聖書を読んで頭には入っていたことですから、自分が何ができようかできまいか、神様が私を子として扱われることに何ら変わりはないのだ、ということに気づいたとき、この縛りから開放されました。日本で、父親が子供を励まし、できたらほめる、ということは、健全な姿として考えられていますが、私の場合、これが強すぎて、逆にできなかったら、嫌われるという恐れにつながっていたのです。

神の栄光ということも、教会の人数が増え、勢力が大きくなり、多くの人がクリスチャンになるという表面的なことが頭にありました。これ自身は決して悪いことでありません。ただし、私の場合、神の栄光のために生きる姿、というのを思い描くとき、神の栄光という名目に乗じて自分の意識のうちにある自己実現をはかろうとしていました。これはたちの悪いことです。というのは、明らかに自分のわがまま、というのが見えれば、早く気づくのですが、「自分が神の栄光を願っている」という美徳意識の中にあっては、なかなか自分のズレに気づかないものです。

恵みにあふれる主は、このような私にずっと語りつづけられました。次第に、私のうちにある根源的なズレは、イエス様の意識・愛を全く持ち合わせていないということが、わかってきした。これこそ、本質的な私のうちにある罪だったのです。そして、これから解放されるためには、自分自身どんなに頑張ってもどうしようもない、聖霊様が心の奥底に触れてくださり、ズレをいやされるしかどうにもならない、ということもはっきりしました。そして、今、ようやく求め始め、人格がイエス様に向かって変えられ始める段階です。主は聖霊様を求める人に必ず与えてくださると約束してくださっていますから、安心しています。

本当に心の奥底から変わり、愛の人として生きるようにならなければ、この世の人生の意味が薄れてしまいます。どんなに、自分の欲求が実現できたとしても、また、途中で挫折する場合においても、愛のない生活は、成功していずれは虚しさに直面するか、失敗して挫折します。また、愛しているつもりになっている自己中心的な愛も、他人との摩擦を呼びます。本当に自分自身が変えられ、イエス様と同じように愛の人として生きることができるとき、すばらしい人生が体験できるのです。すなわち、努力して自己実現する成功体験が人生を豊かにするものではなく、主の器として自分が社会の中に派遣されている意識こそが、人生を意味付けるものになります。かかる意識のもとでは、仕事の上での失敗を恐れる不安感や失敗したときの挫折感を大きく軽減します。「人は愛されて安息し、愛して満足する」という新井牧師の言葉の意味が、人生の生き方を動機付けるものとして、ようやく重みをもって心の中に入ってきました。

私自身、まだ人格に変貌をきたした、ととても言える状況にはありません。ただ、変えていただける、という約束をいただいているだけですが、この約束をされた方は、必ずなすことのできる方ですので、期待して待ちます。

また、私は決して努力を否定しているわけではありません。問題は、日本人にしみついた美徳意識に隠れた自分の内側のズレをなかなか発見できなかったということです。この意識をもつと、神の栄光ということも、教会の成長ということについても、人数が増え、規模が大きくなり、多くの人が主を礼拝しているということ、これも日本人の感覚から行けば当然のような感じでしたがそうではなく、本当に一人一人が過去の重荷、縛り、傷から開放され、人格が変えられ、喜んで生きることができることこそ、主が求めておられることだということがはっきりわかりました。

心の根底から変えられ、新しい人格となった人が、謙虚に主イエスの導きのもとで、奮励/努力すれば、大きな力となることでしょう。また、自分がてがけるプロジェクトの失敗を恐れる不安は軽減され、失敗・成功にかかわらず主が守り導いておられるという平安のうちに歩むことができます。これは、サラリーマン生活において、本当に貴重なものと実感しています。

私もまだ自分自身の心の奥底のすべてを把握しているわけではありません。ただ、これからも主の働きに期待していきたいと祈っています。そして、いつの日か、「心の奥底から、生ける水が川川のように流れ出る」状態になることを期待しています。これは決して自分の頑張り・努力でなく、主の働きだというのは確実にいえます。