あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ

佐藤明男  (Akio Satoh)

■氏は三菱総合研究所・情報技術開発部勤務。本稿は2000年6月6日、パレスホテルでのインターナショナルVIPクラブ(大手町)におけるスピーチをまとめたものです。

はじめに

職場で悪戦苦闘中の身である私のような者が、数々の成功や業績を収められた諸先輩方の前でお話するのは、まことに恥ずかしく思います。今日は、自己紹介を兼ねて、私の今までの人生について、といってもまだ33年しか生きておりませんが、お話しさせていただきます。私が唯一誇れることは、クリスチャンの両親に育てられ、小さい頃から教会に通い、「若い日に創造者を覚える」という特権に預かったことです。本日は、幼年期や学生時代の思い出、クリスチャンになった時の証、家族のこと、仕事のこと、現在所属している教会(ニューホープ・インターナショナル・フェローシップ東京)について、お話したいと思います。

1.クリスチャンホームで育つ

 

私の母は、私が2歳のときにクリスチャンになりました。母は、クリスチャンの祖母の影響もあり、幼い頃に日曜学校に通っていました。母は、結婚して子供(私)が生まれた頃から、平和な幸せな家庭を築きたい、母の周りの者全てが幸せになってほしいという願いをもっていました。この頃から、近所に住んでいたカナダ人の宣教師さんの教会に通い始め、1969年、母が28歳のときに信仰を持ったと聞いています。

無神論者だった父は、その5年後、私が7歳のときにクリスチャンになりました。父は、5歳のときに父親を亡くし、5番目の末っ子で、私の祖母でもある母親の苦労をみて育ってきました。そのため、「男は一人で強く生きていくのだ」と硬く心に決め、キリスト教には全く興味がなかったようです。「宗教は弱い者のためにある」、と考えていたようです。しかし、父は幼いときに父親を亡くしたため、自分に父親像がなく、父として二人の息子をどのように育てていけば良いのか真剣に悩んだそうです。私が幼稚園の時に、家族でアメリカに旅行しました。その時、父は、大陸の大自然に触れて創造主の存在を確信し、また米軍の海軍中佐だった宣教師に導かれ、キリストの十字架の愛と復活を信じ、イエス様を受け入れるに至ったそうです。また、聖書を読むにつれ、天の父である神様から、自分が長い間追い求めていた、「まことの父親像」を得ることができたそうです。

このようにして、私は、物心ついた頃から教会や家庭集会に連れて行かれ、家族で一緒に祈ったり聖書を読んだり、というクリスチャンホームに育ちました。父は、あまり戒律的なクリスチャンではありませんでした。私達にも、聖書の戒めや教えの全てに従いなさい、守りなさいとは言いませんでした。ただ一つ、「旅人をもてなしなさい」という御言葉だけは従っていきたいと言って、これを「佐藤家の家訓」としていました。ですから、子供の宿題や試験があろうとも、「外国からの旅人が我が家に泊まるときは、必ず家族全員でもてなす」ことになっていました。

2.3歳からのピアノ

さて、私は1967年6月に埼玉県新座市に生まれ、2歳のときに東京都練馬区の西大泉に引っ越しました。両親は念願の戸建を購入し、母が昔から持っていて人に預けていたピアノも運び込みました。私は、活発な子供だったらしく、ピアノを遊具代わりにして、鍵盤の上を走ったり、上によじ登ってジャンプして遊んでいたそうです。母は、高校生になってからピアノを習い始めたため、なかなかマスターできず、将来、自分の子供がピアノを弾けるようになるのが夢でした。完全にジャングルジムと勘違いしている我が子に、何とか本当の遊び方を知ってもらいたいと、私が3歳半の時に、近くのピアノ教室に連れて行き、ちゃんとレッスンを受けたら、お菓子を買ってあげるとか、ミニカーを買ってあげるとか、嫌がる私を、なだめすかせながら通わせたそうです。ちなみに、洋楽の好きだった父は、息子に伴奏させてエルビス・プレスリーを歌うのが夢でした。

幼稚園になると、バイエルやハノンを一通り終え、ブルグミュラーとかメンデルスゾーンの簡単な曲は弾けるようになりました。幼稚園でも、可愛い女の子達に囲まれてピアノを弾いていたのを、今でも覚えています。また、6歳の誕生日に、両親にバン・クライバーンの「ショパンの珠玉」というショパンの名曲集のレコードを買ってもらいました。ショパンの英雄ポロネーズと革命のエチュードに憧れて、「早くこういう曲を弾けるようになりたい」と夢見ていました。

小学校は近所の公立に通っていたのですが、合唱団の指導に非常に熱心な音楽の先生がいて、よく全国大会レベルのコンクールに入賞していました。私も、4年生の後半ぐらいから伴奏者として使ってもらえるようになり、中野サンプラザホール、TBSホール、厚生年金会館やNHKホールのような大ホールで伴奏させていただきました。また、その頃「おはよう子供音楽会」という早朝テレビ番組があって、オーディションを受けたところ、出演することになりました。その時、司会者である星新一に、「明男君の将来の夢は、シュバイツァーのように教会でオルガン(ピアノ)を弾きながら、困っている人を助けるお医者さんになりたいそうです」と紹介されました。我ながら立派な志を持っていたなぁと思います(笑)。小学生時代を、私は「過去の栄光」と呼んでいます。

3.中学校生活は音楽とボクシング

中学校に入ってもピアノは続けていたため、友達に誘われてもバスケットボール部やバレー部には入れませんでした。そこで、ピアノが続けられるスポーツを探していました。当時、校内暴力が盛んで、学校でも殴り合いの喧嘩がありました。先生が生徒に殴られたり、学校のガラスが割られたりで、警察や救急車が駆けつけて来たこともありました。血の気の多い学生が多かったため、昔ボクサーだった体育の先生が不良生徒達を集めてボクシング部を始めました。体育の先生が、「バンデージを巻くから突き指も心配ない」と、私も誘ってくれました。私は映画のロッキーに憧れていたし、ピアノの先生も突き指の心配がないならと許してくれたので、ボクシング部に入部し、血の気の多い連中に混じりながら、殴り合っていました(笑)。結構はまってしまって、自分の部屋にサンドバックまで吊るしてもらいました。

中学校3年になると、進路のことで悩み始めました。学校の音楽の先生からは、「君はどうせ勉強はできないのだから、音大の付属を受けたらどうか」と薦められました。しかし、両親に相談すると、「音楽で生きていくのは大変だ、人生の幅が狭くなってしまうよ」と猛反対されました。親に諭されて、仕方なく普通校の受験を目指しました。受験用の予備校にも通いました。退屈だった日曜学校に両親公認で行かなくても良くなるので、開放感に浸りながら電車に乗って、毎週日曜日通っていました。しかし、予備校では定期的に模擬試験があり、結果の順位によってクラス替えがあったり、成績優秀者は上位何位まで表示されたします。私は、負けん気が強かったため、成績の結果に一喜一憂していました。思うように点数が取れなかったり、試験の準備がはかどらなかったりすると、イライラして物に当たったりしていました。ボクシングのお陰で力が余っていたため、家の壁や棚を殴って、穴を空けたり壊したこともあります。

ちょうど高校受験の前後3ヶ月間、カナダの宣教師さんが家に滞在しました。(両親は、「旅人をもてなす」という佐藤家の家訓の下、子供の受験など関係なく人を泊めていたのです!)。このカナダの宣教師さんによって母は信仰を持ったのですが、当時、彼は既に80歳を過ぎていました。私の隣の部屋に泊まっていて、こっちが、模試の結果でイライラしている時に、隣では“Praise the Lord(主を賛美します)!" です。全く別世界でした。宣教師さんが外出している間に、私がカッカして壁を殴ったため隣の宣教師さんの部屋の本棚が倒れ、部屋中ひっちゃかめっちゃかになったこともあります。そんな時でも、帰宅した宣教師さんは、何とも言えないやさしそうな微笑を浮かべながら、「もうちょっとの辛抱だよ」と言いながら片付けるのを手伝ってくれました。

親の強い薦めで、早稲田大学高等学院(早大学院)という早稲田大学の付属校を受けました。(私は、将来、音楽や医学を目指していたので進学する気はなかったのですが…)。数学の試験が配られたときに裏から見ていると、なんと最後の図形の問題が一週間前に私が悩んで解いた証明問題だったのです。早大学院は数学の成績が重視されるらしく、運良く合格してしまいました。息子がまぐれで早大学院に受かったということで、両親の半分強制的な決断により、そこに入学することになりました。残念ながら、小学生の頃に抱いていたシュバイツァーへの淡い夢は、この時点で音を立てて崩れていきました。

4.信仰を告白する

高校受験も終わって、一段落した頃、家族とカナダの宣教師さんと食後にお茶を飲んでいた時のことです。宣教師さんが私と弟に向かって、「君達は、クリスチャンかい?」と聞いてきました。聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあります。そこで、「両親がクリスチャンなんだから僕達も自動的に仕方なくクリスチャンなんですよね」、と答えました。すると、その宣教師さんは真剣な眼差しで、「いや、ちがう。あなたが救われればという意味は、お父さんやお母さんが救われれば、ということではなく、あなた自身が、ということだよ。救いは、一人一人が各人で受け入れるものなのだよ」と言われました。「それは大変だ」と思い、「どうすれば良いのでしょうか?」と聞いたところ、「自分が神様に背を向けていた罪人であることを悔い改めて、イエス様の十字架の血によって救ってください、と祈って口で告白しなさい」と言われました。私は、「カッカしては物を壊したり、思い通りに行かないと両親を呪ったり、自分はなんて罪深い人間なんだ、隣で、いつも平安の中で神様を賛美しているこの宣教師さんみたいに自分もなりたい」と願って、その場で、お祈りをして、口で告白しました。1983年の3月です。それから3ヶ月後に、洗礼を受けました。

5.高校生活もやっぱりピアノ

高校に入学して、ボクシング部はなかったので、水泳部に入ろうと思いました。けれども、水球部しかありませんでした。水球部の先輩に相談したところ、突き指は日常茶飯事とのことです。僕の指を見て、「もったいないから止めたほうがいいよ。自分もピアノやってたけど、水球やって、やっぱり弾けなくなっちゃった」と言われ、諦めました。仕方なく音楽に関係のある吹奏楽部に入り、ファゴットという二枚リードの楽器のパートにされました。先輩が厳しくて、「先生に習え」とか、「練習が足りない」とか言い合いになりました。最後は、「お前はファゴットとピアノのどっちを選ぶんだ!」と喧嘩になり、「もちろんピアノです!」と答えて退部しました。

教会では、毎週日曜日ピアノの奏楽をしていました。ただ、聖歌や賛美歌の歌詞の替歌を5回も10回も繰り返すような礼拝だったため、へきえきしていました。退屈なので、気がつかれないように、バリエーションにしたり、即興にしたりしていました。時々、皆にじろっと見られることもありましたが、構わず弾いていました。

高校3年になると、ピアノの先生から、「大学受験もないし、ピアノのコンクールでも狙ったらどうか」と誘われ、毎日新聞の日本学生音楽コンクールを目指すことにしました。その頃は、手も大きくなっていたし、テクニックもある程度身についていたので、リストの超技巧練習曲やハンガリー狂詩曲、念願のショパンの英雄ポロネーズも弾けるようになっていたのです。しかし、一通り自分なりの目標を達成していたため、ピアノに対する情熱や夢も冷め始めていました。そこで、「このあたりで一念発起してコンクールにでも挑戦しよう。あわよくば入選でもしたら音楽への道も開けるかもしれないぞ」と思い、チャレンジすることにしました。予選の課題曲は、難易度の高いバッハのパルティータとショパンのエチュード。バッハは、本格的に勉強したことがなかったので、アナリーゼと暗譜に四苦八苦しました。エチュードは、それなりにテクニックはあったため、何とか弾けるようにはなりましたが、勢いで弾きこなす感じ。先生のところにも週に2、3回通い、学校に行く前にレッスンを受けました。苦手だったパルティータも何とか暗譜することができて、次第に頭に楽譜をイメージしながら演奏できるようになってきました。本選まで意識し始め、本選の課題曲であるショパンのバラードにまで手をつけ始めました。

 

コンクール予選の当日の朝も、先生のお宅でベーゼンドルファーというドイツの有名なピアノを弾いて練習し、先生から、「自信を持ってやりなさい」と励まされて会場へ向かいました。銀座のヤマハホールという小さいホールでした。最初は、バッハのパルティータ。バッハは、最初の1小節を頭に浮かべながら忠実に弾いていかなければなりません。先生から、「鍵盤に手を置いて最初の1小節を思い浮かべてから弾くように」と言われていました。しかし、会場のピアノはヤマハの小さ目のグランドピアノでした。その朝、先生のところで弾いた重い鍵盤のベーゼンドルファーの感触が残っていたため、鍵盤に手を置くと、楽譜をイメージする前に音が鳴ってしまったのです。そこで、もうパニック。指が先に動いても、頭はついていかないという最悪のパターンに陥ってしまい、曲も滅茶苦茶になってしまいました。弾き直そうとしても、動揺してしまって落ち着けません。ついに審査員から途中で止められてしまいました。おなさけで、ショパンのエチュードを弾かせていただきましたが、立ち直れずに、練習の成果は全く発揮できませんでした。これにて、「ジ・エンド」です。

家族は、「これでやっと家に静寂が取り戻せる」と大喜び。私は、絶望感と悔しさで胸が一杯でした。ピアノに対する夢や情熱は一気に冷めてしまいました。自分の音楽の才能のなさを再度確認し、大学の専攻を何にするのかを真剣に考えました。数学は好きだったのですが、群論や整数論をちょっとかじってみても抽象的でイメージが湧いてきません。そこで、数学はあまり自分には向きそうもないので、具体的な事象を対象とする物理学にしようと思いました。でも、本当の理由は単純で、高校時代に物理は一番勉強しなかったけれど、成績は一番良かったからなのです。暗記を要する化学は物理の2倍は勉強しても、点数は半分でした。また、神様の創造の御手を少しでも理解したいという自然科学への憧れもありました。

6.いざ米国へ交換留学

大学は早稲田大学理工学部の物理学科に進学しました。優秀な受験入学の方々に囲まれ、落ちこぼれまいと、最初の1年は必死に単位を取ることに専念しました。何とか必修科目も落とさずに進学でき、ちょっと余裕が出てきたので、1年くらい海外生活をして英語を身につけたいと思いました。国際学部で実施している1年間の交換留学プログラムに申し込んでみると、運良く合格することができ、オハイオ州にあるDenison大学という小さなリベラルアーツの大学に、3年生の時に交換留学することになりました。

Denison大学には、理学だけでなく芸術に関するコースも非常に充実していました。一応、物理学科の生徒という形で留学したのですが、ピアノが弾けることから、音楽学部にも籍を置き、個人レッスンを受けたり、アンサンブルの伴奏をしたり、ジャズバンドに加えてもらったりしました。最後には、個人リサイタルも開催してくださり、ベートーベンやブラームス、ラフマニノフやショパンを弾きました。当初、英語を身につける目的の渡米でしたが、周りに認めてもらうにはピアノのほうが手っ取り早いため、最終的にはピアノの腕のほうが上達してしまいました。その代わり、男子禁制のソロリティのパーティやピアノが置いてある女子寮から、よく招待されましたが…。

留学から戻ってから卒業研究として、所属した研究室で音楽によるヒューマンインタフェースを研究することになりました。その研究室では、コンピュータに繋がったグローブをはめて楽器を弾いているジェスチャーをすると、自分の声がその楽器の音色に変わる「仮想楽器」というシステムを開発しました。例えば、ピアノを弾いている格好をするとピアノの音になり、バイオリンを弾いている格好をするとバイオリンの音になるのです。サックスでもフルートでも自由自在に音色をリアルタイムでコントロールできて、当時テレビや新聞で紹介されました。また、自分の好きな曲を予めピアノでコンピュータに録音しておき、再生するときにジェスチャーで音色を変えることもできました。ここでも、ピアノのお陰で楽しい研究をすることができました。同じ研究室で、大学院まで進学し、国内学会や国際学会に参加したり、報道発表をしたり、色々な貴重な体験をしました。

7.シンク(辛苦!?)タンクに就職

研究室の先輩の紹介で、早稲田大学大学院生のときに三菱総合研究所でアルバイトをしたことがあります。これがきっかけとなり、卒業後、三菱総合研究所の情報技術開発部に入社しました。三菱総合研究所とは、名前は三菱とついていますが、実際のクライアントは官公庁が多く、6割以上は霞ヶ関の省庁や地方の自治体から受注している中立のシンクタンクです。残りの3割ぐらいが民間企業で、三菱グループからの受注は、1割にも満たないくらいです。

私の部署は主に、情報処理技術に関する調査研究や先進的な技術のプロトタイプを実装するシステム開発を行っています。私も今までに、コンポーネントウェア、プライバシー保護や情報セキュリティ対策に係る調査研究や、Webベースで畜産関係の論文を検索できるデータベースを構築したり、学校の先生や生徒向けのインターネット検索エンジンや、情報のやり取りを隠匿するためのインフォメーション・ハイディング・システムを開発したりしてきました。現在は、情報セキュリティ技術と法律との関係に興味を持っています。

周りは、有名大学の博士や修士を持つ優秀な人ばかりで、色々なことを良く知っているし、良く考える人ばかりです。運と思いつきで入ってしまった私は、構想力や発想力に乏しく、これといった専門性も高くないため、未だに自立してプロジェクトを生み出すレベルにまでは達していません。恥ずかしながら、与えられる仕事の分担をこなすのがやっとという感じです。一応、クリスチャンであることを告知していますが、さすが、「クリスチャンだから勤勉で真面目だ」とは受け取められてはいないようで、「自由でマイペースな奴」と見られているようです。早く職場でも「世の光」と認められるようなキリストの証人となりたいものですが、「こんな私でも神様に愛されている貴い存在なのだ」と居直ってしまった方が、手っ取り早いのかもしれません。

8.神様からの最高のプレゼント‐家族

家族は、妻の志緒と2歳になる息子がいます。妻とは、渋谷ハーベストで知り合いました。渋谷ハーベストとは、渋谷福音教会で日曜日の夕方に行われている賛美を中心とした超教派の集会です。学生の頃に何ヶ月かここに通っていました。入社してからは、同期との付き合いで、日曜の午後はテニスや飲み会に参加することが多くなったため、しばらく遠ざかっていました。入社同期には良家のお嬢様タイプの女の子が多く、彼等と一緒に遊びに行くほうが、ずっと魅力的でした。両親に同居させてもらっている手前、日曜の午前中は、近所の教会の礼拝に参加していたのですが、午後はさっさと切り上げて同期との付き合いや会社の人達との付き合いを優先させました。

彼等と仲良くしながら、福音を語るのが自分の使命であり、「素敵な女の子が興味を持って教会に来てくれてクリスチャンにでもなってくれれば結婚相手に!?」、なんて都合の良いことも考えていました。でも、キリストの話はできても、なかなか教会に来てくれませんし、自分自身が教会そのものに惹きつけられていなかったので、強く誘えませんでした。渋谷ハーベストで、「すべてを忘れて神様だけを思いっきり賛美したい、礼拝したい」という渇きが次第に強くなってきました。それまでは、「何とかして社会人の友達を主に導くんだ!」と粋がっていたのですが、聖霊に満たされず、ただ流されていくような日々でした。金曜日の夜にも、渋谷で飲んでいると、渋谷福音教会の前を通ることがあり、徹夜祈祷会に参加していた当時のメンバーに、女の子と楽しそうに歩いている私をみかけたと今でも言われます。

渋谷ハーベストに戻ったのは、入社してから1年近くたってからでした。アーサー・ホーランド宣教師が、「君達が神様の御声をはっきり聞けず聖霊に満たされないのは、自分自身をキリストに捧げきっていないからだ!」とメッセージしました。神の栄光を現すために社会に遣わされているのに、生半可な自分はいつの間にか社会生活を楽しむことに惹きつけられ、キリストに捧げきっていないことを自覚させられました。社会の人達との付き合い方はもう十分勉強したから、乾き切った魂を聖霊に満たされるためには、もっと教会に通って力強く賛美しつづけなければいけないと決心しました。自分が主に満たされていなければ人をキリストに導くことなどできるわけがありません。それからというもの、渋谷福音教会の水曜礼拝や金曜日のバイブルスタディや徹夜祈祷にも参加するようになりました。日曜日の渋谷ハーベストにもスタッフとして加わり、夜遅くまで片付けや交わりに加わるようになりました。

しばらくすると、渋谷ハーベストのスタッフの中で仕事をしている仲間達と社会人向けのミニストリーを始めるようになり、「社会の人達に積極的にキリストの福音を伝えていくにはどうしたら良いか」と勉強会をするようになりました。外務省の上田奈生子さん、当時、国際交流センターに勤めていたアーサー毛保、服部セイコーに勤めていた熊谷真弓さん、国連のUNIDOに勤めており、後に妻となった志緒と皆で仕事が終わってから集まっては、祈りあったり、ジョン・ウィンバーの「力の伝道」を用いて学び合ったりしていました。それぞれの社会人の友達を招いて、一緒にレストランで食事をしたりしました。お互いの仲間が主に導かれるように、祈ったりしていました。1994年か1995年ごろです。妻の志緒とは、このような関係から次第に親しくなり、結婚することになりました。ちなみに、熊谷真弓さんは私の弟と結婚し、義理の妹になりました。上田奈生子さんの大ファンである私の両親は、もう一人息子を産んでおくべきだったと後悔しています。

結婚してからは、夫婦で渋谷福音教会のメンバーになり毎週、日曜日は朝から晩まで渋谷で過ごしていました。二人とも仕事をしていたため、土曜日は疲れて午後まで寝ていることもありましたが、日曜日は本当に楽しみにしながら渋谷の教会に通いました。妻の実家もクリスチャンファミリーで、私達は小さい頃から半強制的に教会に連れて行かれていましたが、渋谷福音教会には二人で初めて心から奉仕できる場として自発的に行っていました。自分達と同年代のクリスチャンも多くて、交わりも新鮮でわくわくするものでした。

9.ニューホープ・インターナショナル・フェローシップ東京

最後に、私の現在所属している教会について紹介させていただきます。以前、渋谷ハーベストのリーダーをしていたタロー・サタラカ師が、ニューホープ・クリスチャン・フェローシップ・オアフで3年間、牧師となる訓練を受けました。そして昨年10月に東京で枝教会「ニューホープ・インターナショナル・フェローシップ東京」を開拓するために日本に戻ってきました。私はこの教会に所属しています。ニューホープ・クリスチャン・フェローシップ・オアフ教会は、ウェイン・コディロ牧師によって4年前に始まりましたが、その間に6000名以上もの人々が集まる教会として大きく成長し、その成長率は全米でも屈指と言われています。これからの教会は、牧師一人が行うのではなく、信徒の皆が協力し合いながら福音を伝えていこうと、「チームでする教会作り」という方法によって、毎週、多くの人を主に導いています。

「どうやったら、今まで教会に来たことのない人が教会に来てくれるようになるか、また来てくれたら続けて来たくなるためには、どのようにして日曜日の礼拝を楽しく魅力的なものとするか」を皆で考えています。「クリスチャンでない人のための教会」を提供するために、皆が参加できるようなプログラムやエンターテイメントを毎週日曜日に提供できるようにアイディアを出し合っているのです。皆が楽しく賛美できるようなミュージックバンドやダンスを取り入れたり、メッセージを分かりやすくするためにドラマを入れたりしています。

また、コンサートを開催したり、カラオケパーティを開いたり、フラダンス教室やゴスペル教室を開いたりしています。今年は、ハワイの母教会のユースクワイヤによるゴスペルコンサートや、「As the Deer」の作者であるマーティ・ナイストロームのコンサートを行いますが、VIPクラブの方々には、佐々木先生を始め多くの方々にコンサート開催にあたってサポートしていただき、誠にありがとうございます。これからも、VIPクラブと協力しながらニューホープ東京も成長していきたいと思います。今後とも、よろしくお願いします。

本日は、長くなってしまい、また支離滅裂で脈略のない話になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございます。