日韓芸術・文化交流を目指して

金 テレサ (Teresa Kim)

■女史は現在"J&Kインターナショナル"主催

1 生い立ち

1957年1月10日、私は韓国の「群山」という田舎で生まれました。商人である父、助け手の母そして4人兄弟の6人家族です。貧しい暮らしでした。でも両親はせんべい屋、果物屋、韓国料理店などの仕事を営みながら徐々に貧しさから抜け出していきました。私が高校2年生の時、長男の兄は医大卒業後軍役の義務を果たしてから家に戻り、韓国料理店を漢方医院に建て替えました。そして今日に至るまで家族を支えています。彼は弟を米国に留学させて、7年間演劇と映画を学ばせました。自分の意志で日本に留学したにもかかわらず経済的に苦しんでいる私のために、大学3年から大学院卒業まで5年の間援助してくれました。

親戚の中に熱心な仏教信者がいました。彼女は母を娘のように可愛がりがり、お寺に度々連れて行きました。ある時、年に一度のお寺の行事に、幼い私も母と一緒に行きました。夜になると、母の仲間10人ほどが寺の庭で、真中に親戚のおばあさんを囲んで座りました。そうしてその年に一番罪深い人のお名前が書いてある紙をくじで引くのです。その年は、驚いたことに母の名前が出ました。母は呼び出されて円の真中に座らせられました。哀れな母は恥と悲しみで泣き続けました。親戚のおばあさんは、母の持ち物のうち余分な着物を出してそれを薪(たきぎ)で燃やしました。着物に罪をかぶらせるのです。母の着物は罪をかぶせられた一種の生け贄として炎を上げて燃えました。幼い私に強烈な印象を残したこの行為と理念は、舞台芸術を専攻する私にとって大変意味のある思い出です。なぜなら、舞台芸術は理念を行為として形象化することだからです。それにしても、罪を責められた惨めな母の姿を見るのは、幼い私にはとても耐え難いことでした。しかし、数年後に長男の兄の導きによって洗礼を受けてクリスチャンになった母は、罪責感などの束縛から解放され、平安と喜びに満ちた生活を送ることになりました。

2 10代の頃の出来事

末っ子として生まれ、幼い時から勝気だった私は、親の手に負えない子でした。小学校1年生の入学式には、前の席に座らせてくれないと言って泣き出したり、スカート一枚を買うのにデパート5ヵ所を回っても気に入るものがないと言って家に戻って、姉を困らせたりしました。

中学生になって、学校から特技のバレエを認められ、全校生中一人だけ髪を伸ばすことが許され、ますます鼻は高くなる一方でした。休憩時間に争って髪の毛を結んでくれるクラスメイトの前に、お姫さまのように振舞っていました。ピアノとバレエの稽古のため学校の成績が落ちると、親からバレエの稽古をやめさせられましたが,、舞台に立ちたくてそのことを言いませんでした。貯金箱の裏を破って衣装代を払い、母親にむちを当てられたこともあります。謝ることをしらない生意気な子でした。ところが高校2年生の時姉の死に直面してから、私の心に大きな変化が起きたのです。

銀行支店長夫人として幸福だった姉は、クリスチャンとして模範的な人でした。ビリー・グラハム牧師の来韓の際には大きな伝道集会で聖歌台に立って歌いました。教会の奉仕にも熱心でした。他人の借金の保証をした責任を問われて退職した夫の代わりに、家庭を守ろうとした姉のちょっとした仕事の失敗によって、彼女は自己虐待に陥ってしまったのです。そして自ら命を断ちました。30代の若さの姉の突然の死。それは、兄の結婚式、母の60才のお祝い会を間近にした時のことでした。平和だったわが家はめちゃくちゃになってしまいました。家族の苦しみはとても深く、高校2年の私には耐え難い日々でした。ソウルの大学に入って、姉一家としばらく一緒に暮らす私の予定は外れてしまって、気が抜けてしまいました。受験勉強の成績も悪くなる一方でした。

高校を卒業して浪人になっても、すぐに勉強に取り組むことが出来ません。生、死、空しさ、苦悩、あらゆる概念にかられて、部屋に閉じ込もって読書に没頭しました。唯一の楽しみは本の中の主人公との出会いです。ゲーテ、スタンダール、モリエール、セルバンテス、ベケット、シェークスピア、ギリシア悲喜劇などに精通しました。「 ファウスト 」の苦悩に同情し、「ジュリアン」の情熱的恋の結末に驚き、「ドンキホーテ」に大笑いし、時には作家「モリエール」の皮肉な話術に感嘆し、また時には作家サムエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」のゴドーとは何かを考え込んだりしながら、現実の惨めな思いと苦しみから逃れようとしたのです。しかし結局のところ、いろいろな作家や主人公との出会いも、私の悩みや疑問の解答にはなりませんでした。同じ芸術を専攻する兄との日頃の対話も、私の人生の苦悩や疑問にはあまり役に立ちませんでした。はっきりとした生きる意味もなく、漫然と塾に通う日々でした。

3 「神」との出会い

生きる意欲を失ってしまった私に、生きる意味と喜びを与えてくださり、私の運命を大きく変えてくださった方との出会いが起きたのは、18才になった年の9月、ある秋の夜のことでした。当時、浪人の私はいつものとおり自習室で勉強していました。突然、激しい雷とともに嵐が吹き荒れ、いきなり大雨が降り出しました。市内は停電で真暗になりました。その時私はどういうわけか、これまで一度も行ったこともないのに急に教会に行きたくなったのです。外に出て傘を買い、大雨の中で教会に行く道を尋ねて歩きました。ようやく見つけて初めて足を踏み入れた教会では、水曜日の礼拝が始まっていました。電気が切れて真暗になった礼拝堂は、ろうそくの光で明りをとっていました。ろうそくの明りに照らされた祭壇に牧師が立ってメッセージを語っていました。牧師はまるで神のような威厳と尊厳を感じさせました。21年も前のことなのでその時のメッセージの内容ははっきり覚えていませんが、「芸術家の受ける霊感のすべては神から来る」というテーマでした。「イデア」、「プラトンの理論」などの哲学的な内容で、私には理解し難いお話です。でも聞きながら胸が熱くなるのを感じ、感動のあまり泣いてしまいました。

その日のメッセージは私のこころを非常に強く打ちました。その日以来、「芸術家の霊感が神から来るのであるなら、芸術家は芸術をもって神の栄光を現すべきだ」という思いが芽生えてきました。後になってこの牧師がイエス教長老会という大きな教団の会長であり、米国の大学の名誉博士であることを知って驚きました。あのような尊敬される先生が、このような田舎で教会をしていたことを感謝せずにいられませんでした。

次の日から私は聖書を読み始めました。また、毎朝5時に起きて朝の礼拝に行って旧約聖書の詩篇を学びました。学ぶ度に詩篇のことばに陶酔しました。礼拝が終わってからは一人で残って祈りました。広い礼拝堂の暗闇の中で一人で祈るのは、とても勇気がいることです。勝手に電気をつけるわけにはいかないため、祈り始める2、30分は恐怖との闘いです。涙と汗に塗れて祈り終わると、もう7時を過ぎていました。朝の礼拝がない日は礼拝堂に入ることができないので、教会の階段に座り、暁の空の下の教会の屋根の十字架を仰ぎながら祈る日々でした。

そのようなある日、忘れていた幼い時の思い出がよみがえってきました。4才頃だったと思いますが、友達と教会の庭で遊んでいた時のことです。しばらくすると礼拝堂の中から、誰かが私を呼んでいるような気がしたのです。でも礼拝堂には誰もいませんでした。ところが、礼拝堂にかかっている十字架が、私に何かを話しているような気がしたのです。私はその十字架の下に黙り込んで日が暮れるまで帰りませんでした。そんな思い出が記憶に鮮明に残っているのが不思議だと思いましたが、あるときその疑問が解けました。それは旧約聖書のサムエル記3章の中の、幼いサムエルに神が直接呼びかけた記事を読んだ時です。今回がまるで2度目に神に呼び出されたような気がしました。14年たった今、神は雷と嵐の中から再び私を呼び出し、牧師のメッセージを通して「真の芸術の意味」と「芸術家の本当の生き方」を語り、これからは神の栄光を現すために生きるように私を新しく生まれさせたのです。それからの私は、家族が驚くほど大きく変わっていきました。

4 大学時代

浪人後の大学入試。目指した第一志望の大学は失敗しました。その時初めて受験勉強を怠けていたことを悔い改めました。「せめて短期大学でも入ることができますように、主よ、どうか兄の心を動かしてください」と切に祈りました。そうしたら兄は私をソウルの芸術短期大学に入学させてくれたのです。初めて自分の祈りがかなえられたことを実感しました。

入学式は2ヶ月も先のことなので、家に閉じこもって毎日聖書を読みました。そして夜更けまで、聖書を映画の絵コンテ式にどんどん書いていきました。家族は私の様子を異常だと思い、警戒していました。夜11時過ぎるとかならず、電気を消すようにと母から言われました。仕方なく密かに机にろうそくを立てて聖書を読んでいました。ある夜そのまま居眠りしてしまって、額の前の髪の毛がろうそくの火で燃え、膝にかけた掛け布団、カーテンまで燃やしてしまいました。そのため私の大学入学の取り消しをめぐって家族会議がありました。結局無事にソウルに上京したものの、家族の指図によって下宿の家主にまで私の行動を監視されるはめになりました。

このようにして大学生活が始まったのです。新入生歓迎パーティで聖書に出てくるマグダラマリアを2人芝居で演じました。審査を担当した演劇学科の教授は、「身体に総合的芸術の表現力が宿っている」と感想を述べ、1等賞をくれました。たちまち学校で話題になり、他学科の教授の助言を受けることもしばしばありました。イエスさまの役を演じたクラスメートは、ただ無言で舞台を歩いていく脇役だったのに、数年後イエス・キリストを救い主として信じることになりました。彼はそれまで一日もその舞台を忘れなかったと言いました。

私は1985年12月のクリスマスに永楽教会で洗礼を受けました。日曜日は永楽教会の礼拝に出席、同教会大学部に所属しました。兄が学生時代に通って聖歌隊で奉仕した教会で、主任牧師、牧師、10人程の副牧師がいます。礼拝は5部まであり、通常1万人の信者が日曜日の礼拝に出席している大きな教会です。聖歌隊の指揮と独唱はプロの方々が担当していて、教会が舞台のコンサ−トか見分けがつかないほどです。4部の礼拝はあらゆる楽器の演奏者が動員されます。下宿から歩いて10分という恵まれた環境で、日本に留学する直前までその教会に通いました。大学部、青年部、日本語のバイブルクラス、平信徒宣教師訓練学校一期卒業まで18年間通いました。

教会で自分の才能が生かされ始めたのは、同教会の大学部の一年生の冬のことです。私はクリスマスの行事のため、当時海外で話題になっていた「ジーザズ・クライスト・ス−パ−スタ−」のロックオペラを演劇に書き直して、教会の礼拝堂で上演しました。百人近い大学生が協力してくれました。公演は予想をはるかに越えて5百人位の入場者となり、用意しておいたお茶が、あっという間になくなるほどでした。公演は好評で大成功に終わりました。

5 結婚と挫折

大学卒業後、雑誌社へ入社しました。同時に、教会も大学部から青年部に移りました。貯めておいたお金2百万ウォンを聖書劇団の資金として使う予定でしたが、教会の長老の反対で計画がつぶれました。今考えてみると納得がいきますが、当時の私にはそのことがとても不満でした。祈祷室に入って祈りました。そして社会に出て自分の力でやっていくことを神に固く誓ったのです。青年会1年目に、朗読を取り入れた聖書劇公演、中学部の聖書劇指導を終了したときに、教会での活動も辞めました。雑誌社を辞職し、韓国の5大劇団の一つである「実験劇団」に入りました。その年のことです。神が私の賜物を演劇界で用いたのは。韓国の中から7つの優秀な劇団を選んで、国が上演料を払って行なわれる、大韓民国演劇祭に実験劇団が選ばれたのです。社会的に大きな話題になった事件を、作家が台本に書き下ろした「神話1900」を上演することになりました。

私はその作品の振り付けをする幸運に恵まれました。でも振り付けの締め切りが近づいても霊感が湧いてきません。これ以上時間が経つと、プロの振り付け師に任せるしかないと言われ、永楽教会の祈祷院に入って三日間切に祈りました。最後の日のことです。大勢の人が踊る中で、真中に立っている十字架が、まるで喜びに満ちて踊るように輝き揺れる夢を見て目が覚めました。次第にインスピレ−ションが湧いてきました。そのようにして祈祷院から韓国演劇作品賞、演出賞に選ばれました。再公演されてたちまち演劇界で私の名前が知れわたるようになりました。自分で振り付けした作品に役者としても出演したので、演出家は次の作品に私を女優として用いようとしました。でも私はこれを断りました。またミュ−ジカルの振り付けを頼まれましたがこれも断りました。私はエンタ−ティメントそのものには興味がなかったからです。それから聖書劇専用の劇団作りだけを目指すようになりました。

劇団をやめてから一年後、忘年会のパ−ティである男性に会いました。34才の独身の歯医者でした。家族に結婚をせかされていたときだったので、結婚を前提に交際しました。社会人としては申し分ない人でした。無神論者でしたが、知人と牧師も彼に好感を持ってくれました。

一年の交際後、結婚しました。家族も牧師も大歓迎でした。漢方医者である兄はとても喜んでくれました。何度もお見合を断った私に「生意気」だと怒っていたからです。しかし、ときが経つにつれて問題が起きてきました。彼は無神論者でしたので、私の信仰とビジョンを理解できないのです。夫婦の愛情だけでは心の底に満たされない大きな空しさがありました。私は夫の費用で劇団を作ろうとして夫を説得しました。それは失敗に終わりました。次に夫の同意を得て夫のお金で不動産屋でアパ−ト推薦権を2枚買いました。お金を増やして劇団を作るつもりだったのです。しかし推薦に落ちても、不動産屋は渡した大金を返してくれません。そこで裁判をして勝ちました。判決によって財産を差し押さえることにしました。ところが調査の結果、不動産屋の財産はごく僅かしか残っていないことが分かったのです。僅かの財産を差し押さえるのは、クリスチャンとしてあまりにも残酷なことだと思いました。
差し押さえを断行すべきかどうかについて3日間神に祈りました。祈った結果、神は私がその家族を許すことを願っておられることを知りました。私は差し押さえを諦めました。

これは私には主の御声に従った最善の思い出となりました。差し押さえ状の代わりにケ−キを手に持って不動産屋の家を訪ねました。夫人は私を見た瞬間、ついに時が来たかのように肩を落としました。不動産屋の主人は差し押さえられるのが恥ずかしくて家出をしていませんでした。家には夫人と娘の2人だけでした。絶望している2人にひざまずいて言いました。「私は、財産を差し押さえるつもりでしたが、神様が止めさせました。ですから、私ではなく神様に感謝してください」と。すると、クリスチャンである不動産屋の夫人は泣きながら言いました。神を呪って家出をした夫を待ちながら、毎週牧師と家庭礼拝をもち、私が差し押さえをしないように、私の名前を呼びながら皆で祈っていたことを。夫人のあかしを聞いた一瞬、私の祈りだけで一家を救ったと思っていたうぬぼれが崩れ去りました。それにしても、その一家を救った喜びは口では表現できません。賛美が絶えず口から溢れ出てくるなんとも言えない歓喜そのものでした。

神よ、私を平和の道具にして下さい。
絶望があるところに希望を
悲しみがあるところに喜びを…
(アシジのフランシスの言葉より)

数日後の日曜日の朝、家出をした不動産屋の主人から私の家に電話がかかってきました。家に戻って家族と教会に行って来たというお礼の電話でした。家族全員が救われたのです。

でもこれを夫が理解できるはずがありません。ついに夫と別居することになりました。夫と別居中子供を妊娠していたことが判りました。妊娠初期でした。嬉しいあまり、心でお腹の中の子を神に捧げました。しかし、親から「私の新しい人生のために」とのことで堕すことを勧められました。私たちを見守っていた牧師は、胎児の命が手術台で消えることを悲しみ、3日間山にこもって祈ってくださいました。そしてまるで神に指図されたかのことく、手術の前夜に家に訪ねて来られました。牧師の3日間の祈りと神の答えを聞いて、私は神を恐れ、産むことを決心しました。牧師は息子に「金勝久」という名前をつけて下さいました。「永遠の勝利」を意味するすばらしい名前でした。和解を祈っている牧師の誘いで夫と再会しましたが、私たちはおたがいに相容れないことが多く、結局別れを告げなければなりませんでした。私が日本に来て2年後、彼は再婚して一人の娘の父親になりました。それからまもなく、彼は無慈悲だった昔の行動を心の底から私の家族にお詫びしたのです。

1人で育児をしていたある日のことでした。夜中に急に頭が2つに割れるような頭痛があって目が覚めました。同時に旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が胸を打ちました。瞬間的出来事でした。

私を呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、
理解を超えた大いなることを、
あなたに告げよう。
(エレミヤ33章3節)

私はこの日の体験から、聖書の御言葉を単にその抽象的意味だけでなく、私の実生活における具体的、現実的意味として把握するようになりました。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し(ヘブル4章12節)

その日以来、毎日一時間以上の祈りの時間を持ち、神とのもっと密接な交わりをするようになりました。また私の家で月2回の永楽教会の家庭礼拝(聖書の学び)をするようになりました。

ある日のことです。永楽教会の祈祷院で行なわれている、アメリカから赴任した牧師によるすばらしい礼拝のことを耳にしました。私はその時ふっと旧約聖書の創世記35章3節の御言葉を思い出しました。

私たちは立って、ベテルに上って行こう。
私はそこで、私の苦難の日に私に答え、
私の歩いた道に、いつも私とともにいた神に祭壇を築こう

神がベテルでヤゴプを呼んだように、まるで私をそこで呼んでいるように思いました。次の日に祈祷院に行きました。祈祷院に赴任した牧師は、私のために一年間心を尽くして祈って下さいました。私は今から何をなすべきかを断食しながら神に尋ねました。

6 日本留学:主の召命

祈りつづける私のために、神は道を開いてくださいました。日本への留学でした。当時、振り付け師として演劇界で名前は知られていたものの、2年間の大学の学びだけではいつかは仕事につまずくような気がして不安を感じていました。もう一度真剣に学びたいと思っていたのです。

ある日、大韓民国演劇祭に招かれた世界的劇団である日本の「鈴木忠志劇団」の公演を観に行きました。私はものすごい衝撃を受け、日本留学の決心を強めました。演出家は、日本の伝統芸能を取り入れたギリシア悲劇を公演しましたが、日本の伝統芸能の多様な表現性に感動しました。韓国の芸術は、豊富な内容に満ちている反面、表現形式に欠けている。すぐれた内容であっても、それをまとめ上げる表現形式がないと、無限に広がるばかりです。音楽の「パンソリ」、舞踊の「サルプリ」がその例です。聖書の内容は表現の広がりをもっています。「創世記」だけを考えてもそうです。聖書の豊富な内容を多様な芸術に表現するためには、日本の伝統芸能の多様な表現形式を研究する必要があると思いました。

祈祷院の牧師と相談して祈っていただきました。ちょうど永楽教会で海外に出かける信徒を対象に宣教訓練学校一期を募集していましたので、神の導きだと確信してついでに申し込みました。当時留学ビザを得るためには、難しい日本語の試験にパスしなければなりません。1年間息子を田舎の親戚に預け、留学準備に入りました。日本語学校の近くに下宿しながら留学試験勉強に励みました。月に1、2回、田舎に息子に会いに行くのが唯一の楽しみでした。留学試験が近づくにつれ極度の疲労と限界を感じました。ある日、孤独の闘いの果てに布団の枕を涙で濡らしながら寝込んでしまいました。朝4、5時頃でしょうか、夢うつつに、私はイエスさまのふところにいました。イエスさまの暖かい眼差しと、大きな安らぎを感じました。韓国訳の「主のやさしい胸に抱かれよう」という賛美歌にこういう歌詞が書いてあります:

主のやさしい胸に抱かれよう
私たちのこころが癒されるから
喜びに満ちる永遠なる胸に抱かれよう

主の胸に、その大いなる胸に抱かれよう
主の胸に、その大いなる胸に抱かれよう

イエスさまのふところには、人間の想像をはるかに超える安らぎと暖かさがあります。私は今も当時のそのすばらしい感覚を生き生きと覚えています。

留学の道は驚くほど速やかに進むようになりました。日本語の試験の合格、学校の選択、ビザ手続、大学留学試験、合格発表、授業料振込手続などを、留学情報センタ−の手を借りず、1人で全部済ませました。イエスさまが共にいてくださったからです。永楽教会の日本語のバイブルクラスの顧問である峯野龍弘先生(淀橋教会牧師)が保証人となってくださいました。また講師である武田姉妹が小竹聖書教会の菊池先生夫妻に手紙を送って住まいを頼んでくれました。2人の先生のご協力をいただいて、1988年4月6日、日本に留学することができました。

日本に出発する一週間前、借りた創世記の解説テ−プを返すため、持ち主の長老が通う賛美集会に尋ねて行きました。救世軍が礼拝するすばらしい集会でした。しかし、長老が私をそこに呼んだのではなく、神の導きであることが後でわかりました。牧師は「一方的な神様のお示しがあって、予定を変え、特別のメッセ−ジを用意しました」と言いながらヨシュア記17章18節を読み上げました。

山地もあなたのものにしなければならない。
それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、
あなたのものとしなければならない。
カナン人が鉄の戦車を持っていて、強いとしても、
あなたは彼らを追い払うことができる。

続いて、「神は自分の信仰を守る者ではなく、周りの状況を変える者を探しておられる。自分だけの信仰を守るためにおかれた社会、文化から逃れるなら、誰が闇のなかの人々を救うことができるか。おかれた場所、社会文化を変えて神の栄光を現わす者こそ、神の尊い者であり、神の喜ぶ信仰である」との解説も付け加えられました。「私はこのメッセ−ジが誰のためかはわからないけれども、本人がわかるはずです」と言いながら最後に、「神さまがその人に伝えるもう一つの御言葉があります」と、イザヤ書49章2,3節を読み上げました。

主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。
そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。
わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」

最前列の真中の椅子に座って聞いていた私は、次第に御言葉を通して私に語る神の御臨在を悟ることができました。礼拝後私のあかしを聞いた牧師は、今日のメッセ−ジが私に与えられた神の御言葉だと判断し、日本に向かう私を祝福をもって見送って下さいました。

7 第2の人生:最低の生活と最高の教育

学費を払って手元に残った全財産はわずか5万円でした。これを持って1988年4月5日2才の息子と共に東京に着いたのです。私の懐の事情を知っているのはただ主ひとりでした。私を遣わす主の御言葉だけがまことの保証人です。小竹聖書教会の菊池牧師夫人が予約して下さった部屋に着くと、私は部屋代さえも持っていないことに気がつきました。「明日銀行に行って来てから払います」と家主に言って、夜は祈るしかありません。翌朝早く家主から、「急に田舎の姉が具合が悪くなったので、田舎へ行かなければならなくなったから、家賃は帰って来てからちょうだい」と言われました。家賃を払えない恥を免れた私は神に感謝しました。その週に外国人登録を済まし、質屋に行って宝石を預けて必要な家賃、敷金を用意しました。

入学した4月は2才の息子と一緒に大学に通いました。息子を預けられる保育園がなかったからです。初めの授業の時はその都度各先生の許可をもらいました。息子は退屈して教室にじっといるのが堪らなくて、度々「トイレに行きたい」とうそをついて困らせました。今度こそうそだと思って息子の要求を無視したら、本当に失礼をしてしまって教室の床を汚したこともあります。5月中旬になってやっと保育園に席が空いて息子を預けることができました。神の教会保育園の皆さんはとても親切でした。韓国語を知らないため保育園の先生は息子を世話するのに大変苦労したと思います。言葉の違いのため仲間にからかわれた息子は韓国語さえもしゃべりたがらなくなりました。「おしっこ」ということばが言えないため息子が下着に漏らしてしまい、代わりものがなくて若い先生の下着を着せられて家に戻ったりしたこともありました。

独身者用アパ−トの1部屋で息子と2人で、りんご一つを四切りにして二日間食べる日々がつづきました。冷蔵庫がなかったため、1リットルの牛乳はすぐ腐ってしまい、その腐った牛乳を持って泣き出したりしました。往復の航空券が手にあったなら、もうとっくに韓国へ帰ってしまったと思います。共同用洗濯機が壊れて雪のなかを息子と2人で遠いランドリ−ル−ムまで洗濯機を運んだ時もありました。お風呂がついてないため銭湯に通わなければなりません。よく熱を出す息子の体質のせいか、寒い時は銭湯からの帰りに体が冷えて、次の日にはもう風邪気味です。病院に行くお金がなくて大変困りました。

牧師が蕁麻疹で病院に入院したときは、お見舞いに持って行く5百円のシュ−ス代もなくて胸が傷みました。理由を知らない牧師夫人は手ぶらで見舞いに来た私を恩知らず者だと思ったのか、失望した顔をしたように見えました。しかし、牧師は手ぶらで来た私を見て初めて、私が全然お金を持っていないことに気づいたようです。退院してから牧師は説教のなかで「私たちは身近な人の苦しみに気づかないときがある」と言いました。

慣れない貧困生活でしたが、肉眼では見えない神の恵みを徐々に感じ取ることができました。私にはとても都合の良い住まいです。息子の保育園と私の大学は家から15分程の距離、教会は目と鼻の先、市場と商店は歩いて10分程の距離でした。また来日当初は毎晩、牧師夫妻が夕食に呼んで下さいましたので、一ヶ月の生活費を6万円でおさえることができました。韓国の永楽教会の伝道部の副牧師から、お金が送られてきました。留学する5ヶ月前のことでした。文字のない国のために聖書を作っていた宣教師に永楽教会が一億ウォンの宣教献金を出して援助しましたが、私はその聖書の校正などの仕事を無報酬で引き受けて、出版の完成に至るまで協力したことがあります。この思いもかけない送金は、その時のお礼の送金でした。何十万ウォンという韓国の紙幣が送られてきても、日本円にするとただ一ヶ月の生活費にしかなりません。しかしそのお金を送るまでには、長老と副牧師の見えない大きな努力がありました。このように、思いもかけないいろいろな方法を通して、主は私たち親子を養って下さったのです。

授業がない日は洋品店でアルバイトをしました。神はその店を大いに祝福して下さいました。店主は私の売り上げに驚きました。私は仕事に自信がつきました。夏休みに韓国に帰って母を説得してお金を借り、そのお金で大学の前で洋品店を開きました。仕事をして学費と生活費を稼いでいくしかないと思ったからです。菊地牧師夫人の友人で同じ教会(小竹聖書教会)に所属している永山やえ姉妹が授業のある昼は全面的に協力して下さいました。まるで親子のような関係でした。けれども半年後、洋品店は倒産してしまいました。

次にジ−ンズの洋服を扱う貿易をしました。永山さんは私を立ち直らせようと思って甥である大内会計士を紹介して下さいました。おかげでデパ−トに品物を売りこむ道が開かれました。韓国に行き来しながら貿易を始めたのです。最初は評判が良かったのですが、次第にクレ−ムがでてきました。韓国人と日本人の体型が違うため、肩のパッタなどが合わなかったのです。また糸がはずれたり、ボタンがとれたりして大量に返品されました。全てを整理すると大きな借金だけが残りました。悔しくて、断食しながら神に理由を尋ねました。「他人の洋品店でアルバイトをしたとき注いでくださったその祝福を、なぜ独立して事業をした私に注いでくださらなかったのですか」と泣きながら尋ねました。2日目の断食の日、聖霊の助けによって倒産した理由が判りました。仕事をして学費を作るという理由でしたが、つい貪欲の罪を犯してしまい、本来の目的である勉強まで怠けようとしていたことが判りました。
大いに悔い改めて主の導きを祈りました。

8 支援してくれる兄に注がれる神の祝福

断食を終えて、兄に1通の手紙を送りました。そして、祈りながら連絡を待ちました。手紙の返事の代わりに、学費と生活費が送られてきました。その後も私が大学院を卒業するまで学費と生活費を送ってくれました。今度は神は兄を大いに祝福して下さいました。物質的祝福だけではなく、家族の上にも祝福して下さいました。神は兄に癒しの知恵を豊かに与えて下さいました。ラジオの医学カウンセリングに出るようになった兄の評判は、遠くの地方まで広がったのです。多くの患者が兄の手によって癒されました。私に大金を送りながらも兄はソウルに1億ウォンほどのマンションを買うことができました。医学大学に通う長女の結婚、次女、3女の進学など、4人の娘達も祝福されました。

しかし、今日まで私の借金のことは兄に言うことができませんでした。韓国に戻ってくるようにと言うに違いないし、そうなると、私の過ちのため、主が私を日本に遣わした目的が達成できなくなると思ったからです。結局、貿易をやめて、韓国の友人に借金を残したまま、勉強に進むことになってしまいました。当時主に誓って祈りました。今からひたすら熱心に勉強に励むことを。その代わりに生活費の全てを主に委ねること、また、友人に借金を返すことができる日がくるまで友人に借金の返済を催促されないことを。神はその2つの祈りを聞き入れ、私の学費はもちろん、息子の習い事の月謝などのすべてを備えてくださいました。また、私にお金を貸してくれた友人も長い間、返済を要求しませんでした。

9 日本大学百周年記念奨学生に選ばれて

こういうわけで、学費と生活費の心配から解放され、ひたすら学業だけに専念するようになったのです。耐えられない試練は与えない神の優しさと貧乏のなかの自由を満喫しました。したがって授業のない日は他科の授業を聴講することにして、毎週5日間ずっと学校に通い、無駄な時間を省きました。放送、映画、写真文芸科の授業にも頻繁に顔を出しました。放送科の聴講生の時には、取材に出かけて原稿を書いたり、アナウンサ−コ−スの学生と一緒にアナウンサ−実習をしたりしました。映画の授業もいくつかを聴講しました。古い映画のビデオを探しに浅草に行ったり、映画学科の先生の「日本映画研究」の授業も3年間聴講したりしました。写真学科の先生の写真展示を拝見したり、芸術理論の先生の配慮によって、大学4年生の時、大学院の授業を聴講することもありました。絶対にA点はくれないと言われていた科目のA点を取った時は本当に知恵の神に感謝しました。

そして日本大学百周年記念外国奨学生として選ばれる幸運に恵まれたのです。成績、人格を問われる厳しい選別でした。各学部から選ばれた対象者のため主任教授は推薦状を国際本部に出し、対象者は4百字原稿用紙4枚に小論文を書かせられました。保証人、私生活まで調べられ、最終的には学部の代表者の審査会議で決まりますが、「競争が激しいため、あまり期待しないほうが良い」と学校側から言われました。しかし神の恵みによって選ばれて賞状と奨学金を貰いました。今までの学業の辛さを主に誉めていただいて喜びが溢れました。

10 脚本「エステル王妃」

あらゆる問題、孤独と闘いながら勉強に励み、日本大学芸術学部演劇学科、日本大学芸術学部研究所、日本大学大学院で7年間学びました。学校の勉強だけではなく、歌舞伎、能、日本舞踊、茶道、生け花などの日本の文化、芸術を総合的に学ぶことができました。「葡萄酒とパン」の聖書の型に影響を受けた利休の「お茶と和菓子」の茶道など、比較研究もしました。また、外国人としては1人で、大田区舞踊連盟第十周年記念公演の舞台にも立ち、「藤娘」を踊らせてもらいました。また、人間国宝の宝生閑先生にお能の指導を受けることができました。

大学部時代に、旧約聖書のエステル記をもとにした「エステル王妃」の脚本を書いたのが話題になりました。10人ほどの先生が読んで下さいました。戸部銀作先生(国立劇場文芸部会長、歌舞伎演出家)の口添えで、台本が歌舞伎立女形の役者として大活躍している坂東玉三郎さんに渡されました。彼の芸術活動は世界から注目されています。まだ上演に至っていませんが、この「エステル王妃」がまず歌舞伎に取り入れられることによって、現代劇や映画に広がっていくことを願っています。そして聖書にあるたくさんの壮大な神と人間のドラマが、次々に日本の文化に取り入れられていくことを信じています。

11 神に委ねる人生

大学院卒業後、永山やえさんの誘いで大内会計事務所で働きました。貿易のことでお世話になったこともあって経験を生かして約3年の間、貿易関係の国際業務の仕事をしました。現在、放映プロジェクトに所属して芸能活動をしながら、芸術関係の企画、制作の仕事をしています。

ところが、昨年の暮れから韓国の経済的大不況もあって友人から借金の返済要求がくるようになりました。私個人の力ではとても支払えないような大金ですが、今度こそ返済する目途がつくように神の約束を信じて祈りつづけました。ある日、夜明けまで6時間徹夜しながら祈った時、神は聖霊を通して私に1人の主のしもべを立たせることを告げました。その後不思議な導きで朴東先牧師と出会いました。故朴大統領の下で国家の繁栄のために長い間とりなしの祈り手として用いられた主のしもべです。その祈りの深さと霊感の働きの強さにショックを受けるほどでした。

次第に朴牧師と親しくなって自分の祈りの課題を打ち明けました。朴牧師と群馬県の祈祷院に上り、断食の祈りを捧げました。そして安易な生活より、神の栄光への献身をもう一度誓いました。切なる祈りの中で、主がこの問題を必ず解決して下さるとの約束をいただき、祈祷院から東京に戻りました。祈祷院から戻ってから朴牧師は私を東京のお茶の水で15年以上つづいている社会人クリスチャンの祈り会である「オアシス祈り会」に連れて行きました。インタ−ナショナルVIPクラブのすばらしいビジョンと祈りの力また数々のあかしは、私に新しい勇気とチャレンジを与えてくれました。また祈り会の皆さんは物心両面で私を支援してくれました。

12 すばらしい神の御計画

「神のなさることは皆時にかなって美しい」という旧約聖書の伝道の書の御言葉通りのことが私の身の回りに起きました。主の恵みによって出会った朴東先牧師によって「インタ−ナショナルVIPクラブ」の祈り会である「オアシス祈り会」に導かれました。「オアシス祈り会」に導かれた初めの日、その会のメンバ−の1人である佐々木満男弁護士から朴世直国会議員を韓国側ワールドカップサッカー組織委員長とする日韓共催2002年サッカーワールドカップのために祈るようにと頼まれました。その時は突然与えられた祈りの課題だったので私とは関係ないことだと思っていました。祈ることを忘れつつあったとき、木俣佳丈参議院議員の当選祝賀会で在日韓国大使館の呉元龍空軍武官に会いました。佐々木さんの祈りの要請と呉さんの助言の協力によって、ワールドカップ日韓共催を記念した文化イベント、公演の企画書を具体化していくことになったのです。

9月下旬、私は、日本武道館で行なわれていた全日本リバイバル・ミッション宣教大会に行きました。そこで、神は聖霊の働きにより、「2002年サッカ−ワ−ルドカップが日韓共催になった理由の一つは、日韓の芸術・文化交流を通して神の大きな栄光を現わすためであり、それに私が関わるようになる」と確かな御声で言われました。次の日私は秋川祈祷院に入って祈りました。神の本当の御計画を深く知りたかったのです。断食1日目に不思議な夢を見ました。十字架を支えている壁のタイルが汚れて、大部分が剥がれていました。私がそのタイルをきれいにつけ直すという夢でした。2日目の夢には目の前に聖書が置かれていました。聖書の中から「日本と韓国が一つになるように祈りなさい」という御声が聞こえました。霊感が鈍いため確かな解釈はできませんが、サッカ−ワ−ルドカップ日韓共催に対して神の大きな御計画があることを確信しました。そこで祈りながらサッカ−ワ−ルドカップ記念行事企画書を書きました。重大な発見がもう1つありました。これまで私が多くの芸術家、学者、文化人と関わりをもってきたのは、この企画を実現させるためなのだということでした。手を清め、物欲を捨て、力を合わせて、神から与えられた使命を果たしていきたいと思います。

13 芸術文化の向上発展とキリストの福音の拡大のために

事を行なうエホバ、事を成してこれを成し遂げるエホバ(エレミヤ33章2節)

秋川祈祷院における断食祈祷のなかで与えられた啓示と御言葉は、私をしっかり支えています。企画・製作コディネ−タ−としての仕事は、その日に企画書を書きながら頭に浮かんできたものです。人々の賜物を引き出す仕事、人々の優れた企画を生かす仕事、それぞれの企画をまとめあげて制作して社会に貢献する仕事です。神から私に与えられた仕事を通して日本の芸術文化の向上発展とキリストの福音の伝道に役立つように力を尽くしたいと思います。

1998年12月24日記す