虚無から文書伝道へ

執行 敬昌 (Yoshiaki Shigyou)

■氏は現在いのちのことば社月刊"sight21"E編集者(E-Mail:shigyou@geocities.co.jp)

<はじめに>

今回、証しをする機会を与えてくださったこと、感謝しています。その一方で、社会の第一線で活躍しておられる皆様の前でお話しすることに大きな戸惑いも覚えます。私は今、ちょうど30歳で、皆さんにとっては息子のような若者、あるいはひとまわり下の世代ということになるかと思います。しかも、年齢のことだけでなく、私は十代のころに社会からドロップアウトした経験があり、一応大学は卒業しましたけれど、高校時代から学校にはほとんど通わず、遊びほうけていたような者ですので、そのような者が果たしてこのような場で口を開いていいものかどうか、戸惑いを覚えつつも、イエス・キリストがこのような人間にさえ変わらない愛を注いで下さっていることをお話しできればと思います。これからお話ししますことの、すべての恥は私に、でも、いくらかでも「すごいなぁ」という部分があればそれはすべて神様のものだということを前もってお断りさせていただきます。

<現在の職業:「文書伝道」>

ほとんどの方は、私がどのような人間で、今何をしているのかご存じないと思いますので、現在私がしている仕事について説明しますと、キリスト教の専門出版社で「いのちのことば社」というのがあり、そこで月刊sight21(サイト21)という雑誌の編集をしています。この雑誌はつい最近創刊されたばかりのものです。編集とはいっても、非常に少ない人数でやってますので、企画から取材、執筆まで雑誌の発行にかかわる仕事全般を担当しています。

この月刊誌を手掛ける前は「クリスチャン新聞」という週間のキリスト教専門紙で記者を、それ以前は「キリスト新聞社」で同じく記者を、またその前には同社の『キリスト教年鑑』の編集に携わっていました。このように媒体はいくつか変わってきましたが、「文書伝道」あるいは「文書宣教」にかかわるようになって6年ほどが経ちます。キリスト教の文書伝道・宣教と言いましても、「そんな言葉初めて聞いた」という方も多いと思いますが、これは文字通り、印刷物を使ってキリスト教を伝道、あるいは布教する働きのことです。その中には牧師や宣教師として印刷物を出しておられる方から教団職員として機関誌の発行などを手がけておられる方、そして私のようにこの仕事だけで生計を立てている者までかなりの幅があります。

キリスト教はもともとかなり早い時期から文書による伝道・布教がなされてきた宗教です。古くはもちろん、キリスト教の聖典である「聖書」に始まる訳ですが、グーテンベルグ印刷機の発明後、印刷物は教会にとって非常に重要な役目を果たしてきました。印刷機の発明と同じ時代に宗教改革が起こり、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書をはじめ、さまざまな教会文書、信仰の文書が大量に印刷されるようになり、人々の信仰生活にも大きな変化をもたらしました。

今ではカトリック教会もずいぶんと変わりましたが、当時の強権的・権威的な「教会」という壁を越えて、市民一人ひとりの手に信仰が取り戻されたといってもいいのかもしれません。

それはともかく、この日本でも禁教令が解かれた明治以降、アメリカをはじめ、欧米各国から宣教師が来日するや、文書を用いた伝道も活発になされてきました。最初は日本語による信仰文書はなく、早くから宣教がなされていた中国で印刷された漢文のものが使われていたようです。クリスチャンの愛読書としてよく知られるジョン・バニヤンの『天路歴程』(岩波文庫版は絶版、現在、新教出版社が発行)の邦題が「天国への道のり」ではなく、すべて漢字であるのはその名残りです。

残念ながら、私はキリスト教史の専門家ではないので、あまり歴史に触れすぎても化けの皮がはがれてしまう危険がありますので話を現在に戻して、日本のキリスト教出版界の状況についてお話ししますと、キリスト教出版社と言われる出版社はカトリックとプロテスタントを合わせ全国に約150から160ほどあります。その種類も大小さまざまで、「机一つに電話一つ」と言われる個人出版社から、教会や団体の出版部という形で活動しておられるところ、あるいは有限会社や株式会社、そして「いのちのことば社」のように宗教法人として活動しているところまで実にいろいろな形態で文書の発行がなされています。

変わりどころとしては、現在は絵本の老舗として知られる「福音館書店」も、かつてはキリスト教の伝道を目的に宣教師が設立した出版社だったことはその社名を見れば理解できます。また、女性初の新聞記者にして、自由学園の創立者でもある羽仁もと子が出した『家庭之友』を出版点とする「婦人之友社」もキリスト教色は少なかったにせよキリスト教出版の草分け的な存在でした。ご興味がある方はホームページを見てみてください。特に婦人之友社は創立時からの会社の歴史を載せているので結構おもしろいかもしれません。

<キリストに出会うまで>

あまり退屈な話になっても恐縮なので、これから私自身のことをお話ししたいと思います。私は福岡県福岡市の生まれで、大学を卒業するまではずっとそこで暮らしてきました。福岡は「博チョン族」(ちょっと古いですね)という言葉があるくらいですから、海と山に挟まれ、自然も豊かで食べ物もおいしいところです。環境的には申し分のない美しい町に住んでいたのですが、それとは裏腹に私の心は暗く、いつも苦しんでばかりいたように思います。

自分の生い立ちを話す上で、初めに語らなければならないのは、私は幼いころに四肢がマヒするほどの高熱を出し、病院にかつぎ込まれたことがあります。当時、私は4歳か5歳くらいだったので、はっきりと覚えてはいないのですが、病院のベッドで目が覚めても、口が利けず、耳も聞こえず、歩くこともできなかった記憶が残っています。高熱が運動神経や視覚神経をマヒさせるものなのか、医学の知識がないので分かりませんが、その時に痛めた耳鼻が障害として残りました。今でも臭いはほとんどなく、左の耳はまったく聞こえません。右耳だけがかろうじて音を拾うのですが、それも中度の難聴で、補聴器をしないと日常生活を送るのは難しいのは今でも変わりません。

まあ、今でこそ仕事上の打ち合わせなどで、どうしても相手の声が聞きづらいときなど、「すみません。耳が不自由なもので・・」と説明することができますが、これが子供時代、とくに思春期ともなるとそうはいきません。小学校高学年のころから「人と違う」ということがまるで呪いのように心に重くのしかかり、どうにかしてこのことを知られまいとそのことばかりを必死に考えていました。「たかがそんなことで」と思われるかもしれませんが、本人にとっては死活問題です。クラスの友人(とくに女子の目が気になりました)に「つんぼ!」と言われると、それこそ「死んでしまいたい」という気持ちにさえなるものです。まあ、子供のころはみな、「みんなと同じ上靴の色」や「みんなと同じランドセル」、「みんなが持っている『はやりの文房具』」などなど、「みんなと同じ」ということを異常に気にするわけですが・・・。どこかで聞いた話ですが、「にきび面」に悩んだ挙げ句、自殺未遂までした女子中学生もいたと聞きます。ですから、中学生になればなおさらのこと、とりわけ身体的な特徴や障害に伴う痛みや苦しさは、その本人でなければ分からないものがあります。

それで、「耳が悪い」という「欠陥」をどのようにして埋め合わせしようとしたかというと、当時も補聴器はあったわけですが、それがどうにも具合が悪い。大きくて目立ちすぎるわけです。だからそれは使用しないで、なんとか自分の耳で聞こえる範囲でやっていこうとして、それがかえって周りに誤解を与え、友だち関係でも余計な問題を抱え込んでいたのですから、バカだったなぁと我ながら思います。あとそれ以外には、どんなことでも「人に負けない」ことで埋め合わせをしようともしました。

勉強にせよ、スポーツにせよ、人よりもがんばって、バカにされないように、というのが最大の目標でした。スポーツはダメだったんですが、勉強についてはそこそこできたほうだと思いますので、こちらは一生懸命やっていたような気がします。

身体的な障害があるとそれだけ自立心も強くなるケースが多いのではないかと思います。人に頼りたくない、自分の力で人生を生き抜いていきたいという願いは、「自分は人より劣っていない」ことを自分に言い聞かせるような気持ちの裏返しなのかもしれません。

<パンクとの出会い>

こうして、劣等感と特別扱いされることへの怒りなどが次第に重なっていったのか、少しずつですが、道を踏み外し始めていました。中学二年の時に万引きで補導され、校長室で厳重注意されています。それでも中学を卒業し、成績でいえば上位に入る高校に入学しました。そのころから次第に周りからドロップアウトするようになっていきます。なぜそうだったのかと聞かれても、自分では「仕方がなかった」としか言いようがないのですが、妙な自立心に加えて既成の価値観への反抗などもあったんだと思います。もちろん、勉強の成績だけでその人を評価する風潮への疑問や批判もありました。多かれ少なかれ、ほとんどの人はこうした疑問を一度は抱くものなのでしょうが、アタマの中でうまく処理してやり過ごすのが賢いやり方なのだと思います。でも、私の場合、アタマの中でうまく処理できず、「勉強なんかアホ臭い」と思えば、それを実行しないと気が済まなかった訳です。

入学当初、学年でも上位に入っていた成績は年度末には最下位にまで転落し、そのかわり、髪の毛を染めたり、ピンピンにはねたりするようになりました。当時はやっていたパンクにのめり込んでいったのです。「パンク」というのをちょっとだけ説明すると、イギリスを発祥の地に、それが飛び火するかのようにヨーロッパやアメリカ、北欧、日本などに広がった若者の音楽ムーブメントのことです。ヒッピーやアナーキズムに似たものを想像していただいてもいいかと思います。アンダーグラウンド・カルチャーの一翼を担うといえば聞こえはいいですが、既成のものへの反抗、攻撃、そして退廃といった感覚を音楽的な感性とファッションで表現した。文学や芸術でいえばデカダンや前衛アートといったところでしょうか。思想的、社会的なメッセージも持ち合わせていて、正直なところカッコよかったというのが惹かれていった理由です。

そうはいっても気の小さい少年ですから、悪い習慣に手を出すといっても高校時代はアルコールやたばこくらいなもので、あとは街角でケンカをして顔にあざを作る程度のことでしょうか。ただ、学校の成績などはどうでもよく、「こんなテストで人の何が分かるんだろう」という気持ちもあってずっと最下位だったわけですが、昔から器用なところがありまして、三年の半ばからきちんとテストを受けて、最下位からいきなり上位に入ってみたりして得意げになっていたことを覚えています。つくづく器量が小さい嫌な人間だなぁと嫌気がします。

それはともかく、なんとか高校を卒業し、「家から一番近い」というただそれだけの理由で西南学院大学という大学に入学。家から自転車で20分ほどの距離でした。しかし、一応大学には入ったものの、生活の無軌道さはより一層ひどくなり、深夜まで盛り場のディスコやバーでアルバイトをしながら、バンドの練習や小さなホールでライブ(小コンサート)をしたりしていました。

<ある女性との出会い>

ちょうど大学一年の終わりごろでしょうか、音楽友達を介して一人の女性と知り合いました。それまで、恋心を抱いたり、女性と付き合ったりしたことは何度かありましたが、本当に真剣に人を好きになるというのは初めての経験で、「胸がトキメクというのはこういうことか!」といたく感動したのをいまでも鮮明に覚えています。その相手の人もどこか孤独な感じの人で、お互いに孤独が深かったのか急速に関係が深まって、半同棲のような生活へと入っていきました。それまで、自分のことをきちんと理解して、受け止めてもらうという経験がなかったせいか、その相手との関係にのめり込むような感じだったと思います。

でも、生活は相変わらずで、そのころにはお店の酒を飲むようにもなり、酒量はどんどん増えていっていました。ひどいときなど、ほとんど記憶がないまでに泥酔いして、明け方までアルバイト先のお店で飲み明かし、そのまま車を運転して自宅に帰るというような危険なことも何度もやっていて、運転しながら記憶がなくなって、気が付いたら路肩に乗り上げていたこともあります。よく人をはねたり、事故を起こしたりしなかったと恐ろしくなります。

そんななかで、彼女との関係はなんとか続いていましたが、何せお互い二十歳をすぎたばかりの年齢ですから、精神的にも非常に未熟で、しかもほとんど一緒に暮らしているような状態でしたし、そのうち相手の嫌な部分、醜い部分が出てきて、ケンカが絶えなくなっていったのです。人間の感情ほど自分勝手なものはありません。それまでは相手のすべてが好きでたまらなかったのが、ある時を境に、相手の振る舞いや行為の一つひとつが」気に入らず、憎らしいものへと変わっていました。嫌悪感、いらだち、憎しみ、そういった悪感情がこちらに向かってくるのも分かりましたし、それに対してこちらも憎しみで返すといった悪循環が始まっていました。

そのころの私を取り巻いていたのは、ロックンロール、セックス、酒、ケンカ、そしてついには仕事仲間を通じてマリファナにも手を出していたのです。絵に描いたようなドロドロの生活でした。「自分なんかどうなってもいいや」という投げやりな生き方もいつの間にか身についてしまっていました。

そして、彼女と毎日のように激しく言い合い、自我と自我がぶつかるなかで、結局、私の方が精神的に参ってしまったのです。うまく言葉にはできませんが、自分の内面世界が跡形もなく崩壊したような感覚でした。

彼女とも決定的に別れてしまい、「生きる意欲」はまったくない状態で、ただ酒を飲み、都会の人混みの中をぶらぶらと歩き回り、呆然と時を過ごしていたと思います。「今の自分っていったい何なんだろう?」「何のために生きているんだろう?」「なぜ生きて行かなくてはいけないのか」。心の奥底からそうした疑問がふつふつとわいてきて、ただただ苦しくて仕方がありませんでした。そんな状態が数カ月続いた後、体を使う肉体労働で嫌なことを忘れようとしたり、パチンコ店に入り浸ってみたり、部屋に閉じこもって哲学書を読みふけったり、いろんなことをやってみても、心の苦しさから解放されません。むしろ苦悩が深まっていくような感じでした。

ほかにやることもなく、ほとんど忘れかけていた大学に行ってみて、自分が留年していること、単位がほとんどなくさらに留年しかけていることなどを知り、とりあえず卒業だけはしようと授業に出てはみても、経済学のイロハやほかの学生のつまらない会話に囲まれて、いったいそれらが私にとってどういう意味があるのか、うまく理解できませんでした。柔軟に周囲の環境に対応していく心の機能が壊れていたのでしょうか。ただ一人、にぎやかな大学のキャンパスでポツンとただ一人、異邦人のように取り残された感じでした。

そんななか、ある日、大学の掲示板に貼ってあった「教会を紹介します」という案内を見つけたのです。それまで、自分が通っている大学がどういう学校かよく知らなかったのですが、そこはキリスト教主義を掲げるいわゆる「ミッションスクール」だったのです。恥ずかしい話、授業の一つに「基督教学」というのがあるのを見ても、「キトク数学」? 幾何学か何かだろう、といった程度だったのです。

それで、その掲示板の案内に従って宗教課の窓口を訪れ、自宅に近い教会を紹介され、生まれて初めてキリスト教の教会の門をくぐったわけです。そこは、白い建物に美しいステンドグラスがあるようないわゆる「教会らしい」ところではなく、ごく普通の民家で、よくよく見れば、手作りの小さな十字架が外のブロック塀にかけられ、小さな掲示板が表に出ていることでかろうじて「教会なんです」と意思表示しているようないかにも頼りないところでした。「本当にこんなところで自分は救われるのかなぁ?」と心配にもなりましたが、そのときの私はとにかくせっぱ詰まっていて、自分を救えるなら仏教でもイスラム教でも、それまでの生活から抜け出せるのなら何にだってすがりたかったのです。

こうして訪れたその小さな伝道所で、私は人生の師、「魂の恩人」ともいうべき若い伝道者と出会ったのです。長髪に革ジャン、そしてまさに「絶望しています」と言わんばかりの暗い表情でやってきた私を黙って受け入れ、ときに厳しく教え、ときにこちらの話を真剣に聞いてくれる姿に、言いようのない感動を覚えました。そこに少しでも利己的な感じがあればすぐにその場を去ろうと思っていたのですが、彼は微塵も利己的なところはなく、むしろ私の心の重荷になっているものを自分で担おうとするかの態度で接してくれ、人を無条件に受け入れる愛というものを初めて知りました。それはかつて彼女との間に生まれた人間的な愛ではなく、どこまでも相手の立場に立とうとする自己犠牲の愛、まさにイエス・キリストの愛でした。

その愛に触れてイエス・キリストというお方にも自然と気持ちが向いていったのですが、まだ自分の理性や知的にすべて理解しようという思いが強く、「神とは何か?」という禅問答のようなところにいて、結局、その伝道所には一年半ほど通いましたが、信仰に入るまでには至らず、私は半ば相手へのお礼のつもりで洗礼を申し出たこともありましたが、相手の心をするどく見つめておられるその牧師は申し出を断り、そのまま社会に巣立っていく私を温かく送り出してくださったのです。

そして1992年の夏ごろ。大学を卒業して営業マンとして大阪で働いていたある日、そろそろ寝ようとしていたときに、心の底から「われにこよと主はいま、やさしくよびたもう」という賛美歌が響き、涙が止まらなくなりました。何か大きな出来事があったわけではありません。いつものように寝ようとした瞬間、神様のほうから手をさしのべ、いつまでも神様の愛が理解できないでいる私のところに来て下さったんだと思います。「わたしのもとに来なさい」。イエスがいま、私の目の前で声をかけ、呼びかけて下さっていることを体験させていただき、それからすぐに通っていた兵庫県宝塚市の教会に「洗礼を受けたい」と申し出て、きちんとした準備のもと、その年のクリスマス前に洗礼を受けました。

そして、今でも不思議なんですが、洗礼を受けてから、無我夢中になってそれまでの歩みを文章にして、それを教会の青年会の会報として編集し、発行しました。ここにそれをお持ちしましたが、それまで私は特に文章が書けるわけでなし、作文などまともに書いたこともない人間です。それが洗礼を受けた直後から、急に文章を書き、信仰のことを書き始めたのです。聖書の中に「御霊(みたま)の賜物」という言葉が何度も出てくるんですが、これは神が人に与えて下さる能力や才能のことなんですけれども、私自身は、それまでになかった「文書を通しての伝道」というのがこの御霊の賜物として与えられたのだと考えています。

神を知らず、絶望に落ちていた私に一方的に手をさしのべ、助け出し、必要な働きを与えて下さったイエス・キリストと、父なる神様に栄光が帰せられますことを祈りつつ、お話を終わらせていただきます。

ありがとうございました。

栄光在主