私の轍

片岡 惇 (Jun Kataoka) 

■氏はNEC欧州元社長、現顧問、元日欧商工会議所会頭

浪人生活が始まった時,私は二つの事を始めました。一つは,週一回,高校の恩師と歌人でもある医師とがなさって居た,源氏物語の講座に出席すること。もう一つは,アメリカで青春時代を過ごした婦人から英語の個人教授を受けることでした。おの婦人は,聖書を教材としました。これが私にとっての聖書との出会いです。

学校で習った発音を全て直され,単語を全て,新しい発音で覚え直すことから始まりました。(これが後,アメリカに行った時,大変役立ちました。)会話の練習をするため,豊中市にあったアメリカ婦人の家で毎土曜の午後行われて居た バイブル クラスに出席する様になりました。英語で賛美歌を歌い,英語で聖書を読み,英語の祈りをきいて居りました。この時の若人達は多くその若き日
々にキリストを知り,洗礼を受けた行きました。三井OSKの元専務 松井 孝 氏 もその時の一人でした。

大学に行く様にならい、教会から遠のき,もう一つの方,即ち,源氏物語から端を発し,万葉集へ,そして,歌や俳句をつくったり,奈良,京都の古寺巡礼,古美術鑑賞と,外国に行けば聞かれることは日本の事であり,正確に日本の事を伝えなくてはと思い,良き師に多くめぐり会えたこともあり,桂宮は五回も拝観出来ましたし,神護寺や唐招待寺には,数回泊ったり致しました。卒業して社会人となり,三年たって,New York に 駐在し,ここで再びキリスト教に触れることとなりましたが,会った人々が,名前だけのクリスチャンであった為,また,自分から求めて教会に行くこともなかったので,典型的ビジネスマンとして帰国しました。

一年半後,今度は,ドイツに駐在となり,Wiesbadenに住みました。ここでも,人をのみ見て居り,神を見,神との対話が始まることもなく,ドイツのビジネスマンも宗教の話をすることもなく,いや,かえって,避けて居ることをしりました。女房と知り合ってから,教会に連れて行かれた時に眠ってしまい ーと女房は言い,私はめをつむって居たと言ってましたが ー 今でも時々言われます。結婚する時には,女房は,ノンクリスチャンと結婚するため,教会で式を挙げたくないと言い,私もクリスチャンでないのが教会で結婚するのはおかしい。として,市役所での登記のみですませました。

太郎とアネッテの双生児が生まれた時,子供の教育はキリスト教のもとに行うことを,女房から求められ,これには心から賛成して居りました。が,幼児洗礼は受けておりません。 子供達が三才の時,日本にゆくこととなり,川崎市の社宅に住む様になりました。日本のサラリーマン生活は,女房にとって,想像を絶したものであり,家庭生活のない生活環境となって,女房自身が当時 大森にあったドイツ学園で働くようになり − さもないと,一日 何をしてよいのかわからない − ついで,生活環境を整えるべく,社宅を出,田園都市線の新興住宅である,自然に親しめることが出来るところ,つくし野 に家を建て,玉川学園に子供達を 中途入園さしてもらったら,ドイツ語会話の先生に女房が採用され,一時は,新しい環境,仕事もあり,女房も落ち着きました。しかし,私の深夜帰宅,週末はぐったり,生活は変わるべくもなく,女房の神との対話が始まっていました。

或る夏の日の夕方,珍しく二人で少し遠くの街まで散歩に出かけた時,教会の十字架をみつけ立ち寄り,アメリカ人の牧師に出会いました。女房は教会を探し求めていたのですが,私がそれに応えてやれる筈はなく,女房のフラストレーションは高まるばかりだった時でした。この教会に一家して通うようになりましたが,日本語の説教を私が通訳出来るわけはない − 詩人しか詩の訳が出来ない如く,ノン クリスチャンの私に神のみ心を通訳出来るわけはない ー 英語での牧師一家との交わりで,今までとは異なった生活が始まり 英語のバイブルクラスには,日本人と結婚された英国人やドイツ人も加わって,大変面白い 楽しい会合になりました。この間,女房の神との対話は進み,ドイツ語で言う,エンシーデネル クリスト,英語で言う ディサィディド クリスチャン となりました。私は あいも変わらず,表面上は,クリスチャンの風をなし,時には女房と哲学めいた議論をしておりました。曰ク,真善美は絶対であるが,人はこれを求め努力するが 収斂はするが永遠に一致しない。丁度 Y=X”の微分の如し。なぞいっておりまいた。

真善美も良いのですが,愛がありません。 また,徹底的に論じるのではなく− もっとも ドイツ語で議論を充分に出来るわけはないが − 女房 と喧嘩してまで反対するのも嫌で,教会には通いますし,色々な会合にも顔はだしました。 まさに,生ぬるく 熱くも 冷たくもない(黙示 3・16)状態でした。 子供達が進学する時期になり,女房は祈り考えた末 子供達を連れて 先にドイツに帰りました。 第一回目の単身生活が始まりました。 女房達は流浪の旅の後 リンブルグに落ち着き そこで 子供達は小学校にゆきました。私は一人 教会に通いつずけ 神との対話が始まり出しました。 十ヶ月後 ドイツ駐在が内定した時,渡航診断で病気の疑いがあり(再診後 OK になりましたが)この時 自然に両膝をついて深夜祈っている自分を見い出し,祈りが応えられたことが判りました。 日本を発つ時は信じたい気持ちが強くあるにも拘わらず,ふんぎりの出来ない状態でした。

1973年6月 欧州に初めて設立したNECの現地法人 NEC Electronics Europe GmbH の社長としドどイツに舞戻り,家族と一緒のノーマルな生活にやっともどりました。デュセルドルフにきて 教会を探し アッカー ストラッセの教会に導かれ 黒田師(まだ学生でした)に出会いました。ここでもまたアッカー の礼拝に出 黒田師がしていた日本人のバイブル クラス (月一回)に出たりの生活で,自己流形式的クリスチャン風に舞い戻りました。ある人々には 私がクリスチャンであると思われたと思います。 が,女房には この様な生活は激しくせめたてられました。

アッカー教会以外にもベンデマン ストラーセの教会が日本人クリスチャンのことを思い,バイブル クラスは初めここでもたれ,日曜礼拝にも日本人をこころよく受入れてくださってました。ドイツ語の説教がわからないまま,それでも一緒に賛美ができ お祈りが出来 アーノルド牧師が非常によく日本人のことを思って居て下さってました。 このベンデマンとアッカーとに行っていた日本人を対象として,黒田師及びアリアンツミッションのベーナー師が日本語で説教をして下さる様になり,私もこちらにでかける方が多くなり,女房が一緒に来てもうまく通訳出来ず,反対に私がアッカーに出席しても家で一緒にその日の説教について話し合うことも充分出来ませんでした。女房の望んだ一家で礼拝に参列することは,外見上出来る様になりましたが,内面的にはフラストレーションがたまる様になってきました。 今日現在でも 従来よりはよくなりましたが,この問題は私たちが背負っている課題です。

リンブルグから引っ越しして来,家族が一緒にすめる様になったところが日本人学校のそばでした。が,子供二人はドイツの小学校に通っていました。この頃,私はドイツ人の行いや,クリスチャンの行動,態度を見ては ノン クリスチャンの方がよりクリスチャン的である行いがよくあることが気にかかって居りました。また,よくそんな話を女房としておりました。

TERRE DES HOMMRE (フランス語 JandofHumman being)という機関があり主にコロンビア ベトナム 韓国 インド の 孤児の養子縁組みを斡旋しておりました。 人道的 社会奉仕的心情で行動されるが,祈りをもって行うことは少ないと思える機関ですが,ここから韓国の孤児を斡旋してもらい,或る夏の日,フランクフルト空港ま出迎えに行きました。新学期の始まる九月からドイツの小学校に,そして翌年(1974年)四月からは日本人学校に入学させました。 ドイツ語は六ヶ月位で充分話せる様になりました。 日本語は日本人学校の女の先生がよく気をかけて下さり,私も努力致しましたが,やはり母親から習う様にはまいりませんでした。 アネッテとは上手くゆきましたが,太郎が疎外される様になってきました。 女房の必死の戦いが日夜なされて居りましたが,私が共に祈って一緒に子供を導いて行くことが出来なかったのが,今 思えば一番欠けて居たことでした。

ドイツ名 TINA 日本名 こゆき として ドイツ国籍を取得しようとした時,養子をしよううとした時との話と変わり,取得が非常に難しいこととなりました。私がドイツ国籍でないため,この点を重々確認した上の養子縁組であったにも拘らずでした。養子として送り出される韓国の子供は,韓国のパスポートをもたず,単に養子として出国し,二年間国籍を保持する旨記された公文書を持って入国してきます。 二年間あれば通常養親の国籍を取得出来るからです。 二年たてばこの公文書は無効となる一方,国籍取得が出来ないと無国籍者となることが判りました。この時点で,この機関は,TINA を引き取り 今度は適切なるドイツ人夫妻に養子縁組をし直しました。

TINAを引き渡す前後 女房と共に祈る様になってきて居りました。が,まだまだ頑固な私は,この養子問題をとうしても 人を見ることが多く,神を見上げ,祈って神の声を聞いて神の御心がどこにあるかを求めて行くと言った生活にはほど遠く 女房は,これを 求め また 私と共にようなりたく いろいろ努力していました。 私が − 行い − を見るので,行いをもって 行いを通して私が神を知ることを願っていたのではないかとおもいます。日本人学校でドイツ語を教えていたこともあり,月二回(土曜日)日本人学校の小学生を集めて 子供集会を何ヶ月かやったこともありました。 私も手伝いましたが、やはり信仰のない者に出来るわけはありません。次男の雄郎がうまれるので,日本人学校の勤めも辞し 子供集会も解散しました。雄郎もうまれ,新しい状態の生活がはじまりました。

1976年春 ルーマニアで大洪水があり,アッカーの教会では,ルーマニアのクリスチャンに援助物資を送ろうではないか,と呼びかけがあり希望者にはクリスチャンの姓名住所を渡すとのことでしたので,一人のクリスチャン名 −BATU氏 −住所は BACAU を貰いました。 衣類、砂糖、油等 六,七箱 の カートンケースに入れBACAU に郵送しました。この期間 ルーマニア政府は外国からの(西側も)援助物資には輸入税を免除しましたので,沢山送ることが出来ました。

BATUさんから ルーマニア語で礼状が来 こちらからはドイツ語で返事を書く文通が始まりました。 どちらの便りにも聖句が引用されました。 例えば 箴言25・25とのみあり 聖書を開いてみると ー 遠い国からの良い消息は 疲れた人への冷たい水のようだ ー とあるのを読んだときの感激は忘れられません。 私たちの思いはレーマニアの兄弟姉妹の上にあるようになりました。 この時 BATUさんからの手紙に ヨハネの手紙第二・12 とありました。

即ち − あなたがたに書くべきことが沢山ありますが,紙と墨でしたくありません。あなたがたのところに行って 顔を合わせて語りたいと思います。 わたしたちの喜びが全きものとなるためです。 − 次男の雄郎が生まれた時に,ヴォーンモビル(キャンピングカー自体にモーターが付いていて運転出来るもの)を購入して居りましたので 夏休み荷ルーマニアに行くことにしました。丁度日本から来られていた小林牧師御夫妻もぜひルーマニアの地下教会の信者を訪問してみたいとのことで私たちだけで行くことに多少の不安を持っていた私は旅仲間が出来,又聖書のことも教えて頂けると喜びました。

女房は不安を全然もっていませんでした。 ヴォンモビールは色々な物資を持って行くのに最適でした。 ルーマニア語の聖書を持って行くべく依頼していたのが,手違いでドイツ語のギデオン聖書が出発日に届けられました。しかたなく持って行きましたが,なんと ルーマニアではドイツ系ルーマニア人がドイツ語の聖書をもとめていたのせした。

BACAU への旅は,ユーゴスラビアを通り順調に進み 国境でのチェックも無事通過。BATUさんの家にも祈りによって驚くほで簡単に導かれました。表通りから少し入った貧しい道沿いの家で,たずねて行った時は,BATUさんは 戸口に出て聖書を読んでいました。眼が合い 合い 相方から BATU ? KAKAOKA ? と呼び合い 確かめ合いました。 夜 彼の家で賛美し 聖書の箇所を開き合っての会話は忘れられません。 賛美歌は手書きのノートブック でした。BATUさんの長男が,たまたまブカレストから帰って来ており 彼が多少ドイツ語が出来たのも幸いでした。翌日曜日には 小林牧師が英語でメッセイジ 女房がドイツ語に訳し これもまた たまたま来合わせたドイツ系のピーター青年がルーマニア語に訳しました。私は まだ未信者でしたので子供のお守りをしておりました。 その後 このピーター青年との交わりが始まり 女房はその後 子供たちを連れて二回訪問しております。
この旅の間小林牧師との話の中で −信仰は意志ですよ。− と言われました。

ルーマニアから帰って後,太郎が受洗をしたいと言い出し,少し早いが受けさせることにしました。父親がまだ決心して居らず,そんな状態では受洗後の教育もうまくゆくはずがない と女房に言われてもしかたがないのが,どうしたことか あれだけ責めたてて居た彼女から この時期この様なことできつく言われた覚えがありません。神はまことによくその時その手順をご存じで 言われないことが かえって私を受洗させる気に導いて行きました。太郎より先に受けたいな,でも何か不純な動機であるなと思って居た時,三浦綾子さんの書かれたトラクタートに − だまされたと思って信じなさい − とあるのを読み −これだ,そうだ,だまされたと思って信じよう ー と信仰にジャンプイン致しました。でもまだ女房に言う機会がない どう言い出して良いのかわからない。 向こうから責めたてられると − ああ 受けるよ − と言えるのですが。そんな時 ある聖日礼拝の時,司会の前田さん(当時三菱銀行デュセルドルフ支店)が読まれたのは 詩篇一三九 でした。

主よ。あなたは私を探り,
私を知っておられます。
あなたこそは私のすぁるのも,
立つのも知っておられ,私の思いを遠くから読みとられます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り。
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に,
なんと主よ,
あなたはそれおことごとく知っておられます。
あなたは前から後ろから私を取り囲み,
御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとって,
あまりにも不思議,
あまりにも高くて,及びもつきません。

この詩篇一三九は 女房と共に日本で通った青葉台のクリスチャンセンター の 牧師夫人 エロイス バンダービルトさんが 私がドイツに行く時餞別として贈って下さった聖書に次の様に書いて示してくださったところでした。

Dear Friend, I believe the words of this Psalm with all my herat and it is a great confort to me.
Thank you for the friendship of the past years - and we will meet again. God bless you!

私は詩篇一三九を読んでは,この辞を読みいつしかこの詩篇一三九は私の最も好きな聖句になっていました。前田さんが読み出されと時 私は感銘を受け 帰宅して女房に話したところ ー そんなにまで示されて,まだ決心がつかないの ? ー と言われました。

黒田さんに電話をし,準備されつつあった第一回洗礼式に加えて頂くことにしました。洗礼は 1976年9月18日 アッカー教会にて,ベルナー 師 によりなされました。現在 鹿児島県 長島 で 宣教されてる 古田師 御夫妻 他3人 計6人が デュセルドルフ日本人教会の一期生です。洗礼のとき 頂いたみ言葉は十字架のことばは,滅びに至る人々には愚かであっても,救いをうける私たちには,神の力です ー 第一子リンと1:18

こうして色々なことが,色々な時に,色々な人々から,かたくなであった私に働きかけられました。 神を否定することを色々考え これならばと思ったことも聖書を読むと 同じ様に考えた人のことが書かれており,先の詩篇一三九がますます本当のこととなりエロイスさんの言われた様に 心の全てでこの詩篇を信じる様にもなりました。

長々と − 私の轍 − などと少し気取った題で書き綴って来ましたが,轍とは 車が柔らかい土の上に残した車輪のあとであり,ふりかえってみると田舎道に深く浅くのこって居る。が,自分の眼の前ねは,自分の轍はない。しかし,先人の轍はのこって居るのではないでしょうか。 私達クリスチャンには,聖書の中のにキリストの轍が見い出せるのではないでしょうか。

クリスチャンになって後,クリスチャンとしての生活をしてゆく上で,度々聖書にもどり、聖書から解決を得ることになりました。クリスチャン生活の轍と言えますが,何時か このことも書き綴ってみたいとおもっております。以上