私の小さな証(その3)

佐伯 公 (Isao Saeki)

■氏は全国地方銀行協会通信研修部勤務

私は、佐伯 公(さえきいさお)と申します。年齢は56歳です。全国地方銀行協会という地方銀行の団体に勤めています。今年で35年になります。現在の住所は埼玉県春日部市で勤務先のある神田までの通勤時間は1時間15分です。家族は55歳の家内と21歳の長女、20歳の長男の4人家族です。

去年11月と12月に小さな証を書かさせていただきましたが、今回はその3として、@主にある喜び(パート2)、A神の御心に叶う祈り、Bクリスチャンのための祈り、C完全と不完全、D許し、の5つのテーマで簡単に書かせていただきたいと思います。

1.主にある喜び(パート2)

前回の証を読んでいただいた方から、主にある喜びが最も印象に残ったとの感想をいただきました。そこで今回は、イザヤ書61:10「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ」を引用しながら証をしたいと思います。

今から約17年くらい前のことですが、子供がまだ3−4歳頃に、図書館で子供向けの本を借り、それを読んで子供を寝かせるということをしていました。その時のある1冊が今でも、心に残って、私達が「何事でも忠実にやっておれば、主は祝福してくださる」という印象を深くしました。

本の題名は忘れましたが、おおよその内容は次のとおりです:ある陶器を作る職人がいて、壷を2つ作ったが、1つはうまく作れ、町へいって、売ることにした。ところがもう1つは失敗作だったので、それは売れないということで、職人の家の物置小屋にほっておかれた。失敗作の壷は「ああ、俺はだめだ、どうして失敗作なのだろう。うまく作られれば、町へいって高く売れたのに」とつぶやきました。

そして、しょげていましたが、ある時、その家でクリスマスのパーティを開くことになり、子供達がキャンデーを入れる壷を探しに来ました。そして、その壷は羊の置物の上にキャンデ−入れて、きれいに飾りつけをし、パーティのクライマックスに皆で、叩いて割って、中からキャンデーを出すための道具として、最初から、割るためであったので失敗作の壷を探しにきたというわけです。物置に来て、その失敗作の壷をみつけた子供達はちょうどよい壷があったと喜び、それを持っていき、綺麗に布を張り、キャンデーをいっぱい入れて、パーティ会場の真ん中におきました。

そして、パーティが最高潮に達した時に皆で、叩いて、壷を割り、中からキャンデーを出しました。パーティはうまく行き、用事の終わった壷はまた、物置小屋に返されました。そして「やれやれ、これで俺の役目も終わったか」といって、横を見ました。すると、なんと、うまくできて、町へ売られていった壷も壊されて隣にいました。そこで思わず、「どうして、お前がここにいるのか」と聞きました。そしたら、うまくできた壷がいいました。「町では高く買ってもらい、いい思いをしたが、俺も役目が終わったのだよ」と。

長々と引用いたしましたが、この物語がいっているのは、どういう状況にあっても、自分で人生を決めて、諦めてはいけないということだと思います。どんな小さなことでも、神様の前で正しいとされることを忠実に行っておれば、神様はそれを祝福してくださるということです。そして、自分と比べて、今は華やかに見える人でも、所詮は神様の前では同じであるということだと思います。自分の尺度で喜ぶというのでなく、常に神様の前で正しいことをしているから、楽しみ、喜ぶという生き方を選びたいと思います。

2.神の御心に叶う祈り

私達キリストを信ずるものは、いつもお祈りをします。しかし、なんでも祈ればよいというものではない、神の御心に叶う祈りでなければだめなのだということをある人が教えてくれました。その人がいうには、聖書を見ると、病の癒しは、例えばルカ書7:21「ちょうどその頃イエスは多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた」にあるように、聖書に約束がある。また財政面での繁栄は、ヨハネ14:13「あなたがたがわたしの名によって求めるものは何でもそれをしましょう」とあり、ここでは、直接経済のことではありませんが、求めれば与えられるということで、経済のことと考えてもよいのではないでしょうか。また、キリストを信ずる者として、心の目を開くということについては、エペソ書1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」というように、聖書に約束があります。

このように、聖書に約束のあることは、素直に祈ってよいのです。しかし、聖書の中に約束されていないこと、例えば、私達が自分勝手な考え方から、自分の子供は本当はスポーツの道を希望しているのに、親が「進学校へいって、国立大学へ入ってほしい」という祈りは神様には聞いてもらえないのです。神様は私達を無理やりに救っては下さらないのです。神の御心に叶う祈りでないと不可ということです。では、この場合、御心に叶う祈りとはどういうことでしょうか。私の考えでは、親の願いと子供の願いの方向を合わせるということだと思います。つまり、親と子供がよく話し合って、お互いが理解し、譲歩する。そして、最後は許しということだと思いますが、それをやって、両方の願いのベクトルを合わせたときに、その願いは聞かれるのではないかと思います。神様はどちらか一方だけの願いは聞かれないのではないか。というのは、神様は個人の意思と選択を尊重されます。そして、どちらかを聞いた時に、片方に平安がなくなることは、神様はされないと思うからです。

結婚していて、夫婦仲がまずくなった時に神様は、「神様、夫が変わりますように」という祈りは自分勝手からでたものである場合は聞かれないのではないでしょうか、そうではなく、まず許しがあり、そして「神様、あなたは、私達を死に至るまで導いてくださると信じています。ですから、私達の選択があなた様の御心に叶ったものになりますように導いてください」という、あくまでも、御心を中心とした祈りであれば、聞かれると思うのですがいかがでしょうか。

3.クリスチャンのための祈り

エペソ書1:15、16、17には「こういうわけで、わたしもあなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りのたびにあなたがたのことを思い起し、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエスキリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるように」とあります。これはパウロの祈りです。

私達はよく、クリスチャンでありながら、信仰が弱くなった人のために祈る必要があります。このような場合、私はこのエペソ書の個所について、「あなたがた」のところを自分の名前、あるいは、祈りの対象の人の名前を入れて祈ることにしています。というのは、相手はクリスチャンですから、私達が何をいっても不可なのです。そんな時は、聖書にこのように書いてあるということで、御言葉で祈るのが一番効果が出るのです。つまり、相手の人からいわれたのであれば、聞くことはないと思いますが、聖書にある言葉であり、パウロが祈っている時に自分のことを覚えてくれているというのは、本当に力になります。そして、この御言葉にありますように、神に祈ることにより、知恵と啓示が与えられ、神を深く知るようになれば、本当の救いが来るのではないかと思います。

私達の毎日の祈りの時に、パウロも私達のために祈っていてくれるということは、力強い励ましになると思います。

4.完全と不完全

第1コリント13:9では、「わたし達の知識は一部分、預言も一部分だから、完全なものが来た時は部分的なものは廃れよう」とあります。

最近私が考えていますのは、人間というのは、生まれてから死に至るまで、不完全のままであり、完全になるということはないのではないかということです。幼子を見ていますと、純粋に神を信じます。幼子のように、何も混じりっけのない信仰は必要です。しかし、人間として、成長していく過程では、いろいろな誘惑があり、また、忍耐することも必要です。忍耐は幼子では無理です。大人にならないと忍耐はできません。箴言3:12にありますように、「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」のです。叱られるのは確かに辛いことです。しかし、主の訓練ですから、それは絶えられるはずです。

それともう1つ考えておくべきことは、人間の命は有限だということです。これと神を対比するのはどうかと思いますが、神は有限ではなく、無限なのです。そして、わたし達は主の訓練を受けるのですが、訓練を受けたからといって、神のように、完全にはなり得ないのです。どんなに完全と思っても、神様の完全さに比べたら、人間の完全さは、不十分なものではないかと思います。

「人間は罪を持って生まれ、罪の中に死んでいく」という人がいますが、神の完全さに比べれば、人間は不完全であり、それが分かると、「赦されている」ということが実感として出てくるのではないでしょうか。このような認識を通して、神への感謝とへりくだりというキリスト者としての信仰の土台が築かれると思うのですが、いかがでしょうか。

5.赦 し

マタイ18−21「主よ、兄弟がわたしに対して罪をおかしたなら、何回許すべきでしょうか、7回までですか。」 イエスはいわれた「あなたにいっておく、7回どころか7の70倍まで赦しなさい」。

これは有名な赦しについて弟子達がキリストに聞いた時に答えられた個所ですが、わたしはこの個所が好きです。というのは、キリストを信ずるようになってから、家庭でも職場でもこの精神でやっているからです。以前のわたしは他人を赦すということはできなかったので、何かあるとすぐに裁き、そして、心に安定を欠いていました。心が不安定になるとそれは相手にも分かりますので、人間関係が悪の循環に入っていきました。

そして、なかなか解決の糸口をつけれないで時間が過ぎていくということをしていました。しかし、この御言葉をもらってからは違います。何かがあっても、すぐ怒るのは止めて、どうして相手がそのようにしたのか、考えるようにし、自分だって同じようなミスをするから、他人だけを裁くというのは止めて、許すようにしました。「聖書に490回許せ」と書いてあるので、「はいわかりました。聖書に従います。」というようにするようになりました。そして、次回からそのようなミスをしないように、お互いに考え、話し合うようにしています。そうすると自分の心に平安が与えられ、家庭も職場も良い雰囲気になります。

このように心掛けているのですが、まだまだ不十分です。しかし、少しずつ前進していきたいと思っています。

平成12年1月記す