私の小さな証(2)

佐伯 公  (Isao Saeki)

■全国地方銀行協会通信研修部勤務

私は、佐伯 公(さえきいさお)と申します。年齢は56歳です。全国地方銀行協会という地方銀行の団体に勤めています。今年で34年になります。現在の住所は埼玉県春日部市で勤務先のある神田までの通勤時間は1時間15分です。家族は55歳の家内と21歳の長女、20歳の長男の4人家族です。

今年の11月に、小さな証として、@喜びと幸せの違い、A選択(主の道とサタンの道)、B愛と罪、C時(計画)、D信仰のスタートとゴール、という5つのテーマで日ごろ考えているところを書きましたが、今回は次の5つのテーマで証を書きたいと思います。

前回も書きましたが、何分にも信仰の浅い未熟者ですので、他人に見せるというより、自分自身の整理ノートのつもりです。もしお読みいただいた方で、ご叱正のお言葉をいただければ幸いです。

1.信仰のズレ

新約聖書ヘブル書3章12節には「兄弟たち、あなたがたの中では、だれでも悪い信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」とあります。私達キリストを信ずる者は、毎日祈り、日曜日には教会に通って神の前に忠実な人間になろうと努力しています。このような努力は神の目から見て喜ばれることです。しかし、私達は、一方で、働く人間としてのビジネスマンとしての顔を持っています。そして、そこでは、毎日が戦いです。少しの時間も惜しんで効率を上げるのに精一杯努力しています。私にこんな経験があります。ある日の朝、朝の祈り会の時間に遅れそうになり、祈り会の会場の近くまで来て、信号が赤になりました。本来であれば、ここで待つべきでしたが、焦る気持ちから、私は信号無視をしてしまいました。そして、祈り会には無事間にあいましたが、「ここが問題だ」と私は深く反省しました。というのは、信号無視というのは、小さな罪だと思います。車が来ないことを確認し、自分に怪我がなければ、全てハッピーなわけですので、誰も咎める人はいないはずです。

しかし、私が注意したいのは、このように、本当に小さなことが、毎日積み重なると大きな罪になるということです。自分は忙しいからとか、いままで努力してきたから、ここらで少し手を抜いても許されるとか、そういう、それだけをみれば、小さなことが、やがて大きなことになり、気がついたら、とんでもない方向に向かっていたということがあります。ですから、私達はどんな小さなことでも、神様の目から見て間違ったことをしたら、すぐ反省し、改めることが必要だと思います。最初に引用した、ヘブル書にありますように、生ける神から離れないようにする必要があります。 クリスマスが良い例だと思いますが、デパートの商戦に乗って、私達はケーキを買ったり、プレゼントをしますが、クリスマスの本当の意味を知って行っている人は少ないと思います。今も生きて、働いておられる神様の恵みを祝う機会として、感謝し、形式としてのクリスマスにならないように注意したいものです。

2.主の訓練とサタンの誘惑

箴言3章12節に「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」とあります。私はこの個所が好きなのですが、私達は試練にあうと、どうして自分がこのように苦労するのだといってぼやきます。しかし、ここは良く考えるべきです。というのは、生まれた時は何も知らない状態です。これでは、社会人として生活することができ ません。学校へいって教育を受けるのも良き社会人となるための訓練と考えるべきです。

そして、もう1つ心得ておかなければならないのは、これも箴言29章18節に「幻が なければ、民はほしいままにふるまう」とあります。すなわち、私達は何もしないで、 放っておくと、何をするかわからない。あるいはとんでもない悪いことに走ってしまうということをいつも心がけている必要があります。

つまり、私達は神様の訓練を受ける必要があるのです。この訓練について、もう少し考えてみたいのですが、訓練とは、私達が愛のある生活をしなさいということではないでしょうか。つまり、コリント第1の手紙13章にありますように、神様は私達に愛のある生活、つまり、すべてをがまんし、すべてを信ずるとか、高慢にならないとか、人をねたまない、怒らない、人のした悪を思わないということを要求されています。現実の生活でこれを実行するのは大変なことですが、これをやりなさいというのが主の訓練だと思います。そしてこれを忠実に行っていく時に、神様はローマ書8章28節でいわれていますように、「神に召された者には、神は万事相働いて、益とする」という恵みに繋がっていくのではないでしょうか。

ところで、サタンというのはどういう存在なのでしょうか。というのは、主の訓練は本当に辛いものです。そして、祈りながら、訓練に耐えているのですが、それが実現しない時に、神様に対するつぶやきが始まります。「神様はどこへいったのか、もしかしたら、もうだめかもしれない。神様はいない。」と思った時がサタンが私達に入り込んで来るのではないでしょうか。そして、もう少し我慢すれば、希望が実現する直前に神様を捨ててしまうことになるのではないでしょうか。

そして、私達は弱い存在ですから、サタンの声の方が大きく聞こえてくるのです。神様は完全な方で、サタンは部分だと思います。私達の祈っている神様は完全な方でサタンに負ける方ではない、という堅い信仰を持って歩みたいと思います。

3.キリスト者としての日常生活

信仰を持っているのに、教会生活に躓く人がいます。ここでは、キリスト者はどうあるべきか、について、私のつたない考えを述べてみたいと思います。

よく、サンデークリスチャンということを聞きますが、これは、日曜日には教会に行き、祈りも行うが、月曜日から土曜日までは全く忘れて、愛のある生活、つまり、他人を許し、他人のために祈る生活をしていない人のことをいいます。

私の考えでは、信仰生活はまず、家庭がベースになるべきだと思います。家にいる時に神様の臨在を実感し、朝と寝る前に祈る、そして、本当は夫婦とか、家族全員が一緒に祈るべきですが、それができない時は、都合のついた者が一緒に祈るということが大切ではないでしょうか。

次は職場です。職場でも、時間を見つけて祈るべきです。私の場合、職場のエレベーターの前で祈ることにしています。というのは、旧式のエレベーターですので、ボタンを押してもなかなか来ないのです。そういう時に「主の祈り」をしていると時間潰しになり、心の平安も確保されます。また職場ですので、いろいろな戦いがありますが、そういう時に「主よ」と小さく助けを求め、力づけられたことが何回もあります。

それと、職場の中で小さな親切に会うとすぐ、「ハレルヤ」ということにしています。いままでは、そのようなことは言わなかったのですが、小さなことも、主が導いてくださったことを感謝して、「ハレルヤ」ということで、キリストを信じる者として、良い香りを職場で出すことができ、現実に少しずつですが、職場が変わっていることは感謝です。

家庭と職場は月曜日から、金曜日ですが、次に日曜日はどうかというと、私の考えでは、教会にいくのは、丁度ガソリンスタンドでガソリンを給油するのに似ているのではないかと思います。つまり、月曜から、金曜までは、試練の連続ですので、だんだんガソリンがなくなる状態です。信仰が弱くなるということです。ですから、日曜日に教会へいって、牧師のメッセージを聞き、ガソリンを補給する。それと同時に、他の信徒の人と、信仰の成功例、失敗例を情報交換し、失敗例の人のために祈る。また自分が失敗例の時は他の人から祈ってもらう。そうしてお互いに励まし会う。さらに、牧師のためにも信徒が祈る、というのは、牧師も励ましの祈りを期待しているのです。

よく、牧師に躓く例がありますが、本来は牧師のために祈るべきであり、躓くのはできるだけ避けたいものです。信徒と牧師がお互いに神様を見て祈り、躓くことのないようにしたいものです。

次に、私の場合、ビジネスマンの朝食会に参加していますが、これは典型的に、情報交換と励ましのための祈りの会だと思います。つまり、祈りの生活は、家庭で、職場で、かつ教会でしていますが、いろいろな成功例、失敗例があります。そして、これらを通じて、信仰が成長し、逆戻りしないために、お互いの励ましあいが必要だということです。

4.信仰の成長

新約聖書ルカによる福音書13章5,6節「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取にきた が、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人にいった。「見なさい。3年もの間、 やってきては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。 これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」」

これは、有名なぶどう園のいちじくの実の話ですが、私はこの個所から、信仰の成長 が必要ということを示されています。私達は生まれてから、1年くらいは、母乳と離乳 食で生活します。そしてだんだん歯が出てきて、普通の食事になります。また、20歳 になりますとアルコールも認められます。このように、年齢とともに、食べるものが変 わりますが、これは、体力の向上につれて、食事の内容も変わるということです。

信仰生活もそれに似ているのではないでしょうか。信仰に入った時は自分自身の癒し とか、家族の救い、家族の癒しが祈りの中心ではないかと思います。しかし、祈りを深 めていくなかで、当初の祈りの課題が少しずつ実現に向かっているのが、実感として分かってきますと、祈りは次の段階へと進みます。つまり、教会に集う他の人の癒し、とか、未信者の救いが祈りの中心になります。そして、これができるようになると、次は 地域の人の救い、それから、日本全体、さらには、世界平和のために祈るということになります。

最近、私はテモテ第1の手紙第2章1節の「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」を示され、国会議員のために祈るようにしています。というのは、国会というのは、日本の将来を決めるところです。そこで、例えば税金を大きく上げるということが、決まれば私達は困りますので、国会議員が神様の前で正しい決定ができるようにと祈っています。

信仰の成長とは、このように祈りの課題を広げていくことと、もう1つはキリストの福音を伝える使徒として働くということではないかと思います。祈りの課題を広げても、それが1人の祈りでは力が弱いのではないでしょうか。また、1人の祈りでは、長続きはしないでしょう。そこで、1人でも2人でも、一緒に祈る人を増やして、みんなで祈るということではないでしょうか。教会生活を送る中では、献金とか、労働の奉仕とか、いろいろな奉仕がありますが、神様から受けた「恵み」を食いつぶすといのではなく、積極的に「恵み」を取り込み、他に与えていくという活動が必要ではないかと思います。そういう私も現役のビジネスマンとして、なかなか時間が取れないというのが実態ですが、信仰の成長に向かって、少しずつ働く者になりたいと心がけています。

5.永遠の命

ヨハネの福音書11章25節「イエスは言われた「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

これは、キリストを信じる者には、永遠の命が与えられるという有名な個所です。実は、私は、信仰を持っても、ずっとこの意味がわかりませんでした。つまり、私達の肉体が死ぬのにどうして、永遠の命が与えられるというのか、本当に分かりませんでした。しかし、最近になって、少しずつわかるようになってきました。というのは、私自身まだ信仰を持つ前は当然救い主としてのイエス様は心の中に入っていませんでした。そして、その時は将来、自分が死ぬ運命にある、有限の命であるという実感はありませんでした。

しかし、信仰を持って、イエス様を心の中に入れてからは、自分は小さな有限な存在であり、神様は完全で無限大の方であることが
少しずつ実感として分かるようになりました。

そこで思い出したのが、30年以上も前のことですが、就職と結婚のことです。つまり、就職も結婚も自分の意思で決めてきたということです。他の人はいろいろアドバイスはしました。しかし、最終的にこの会社で働く、あるしは、この女性と一緒に生活しようと決めたのは自分です。決めた以上後戻りはできない。将来何があってもここで我慢するのだという決心で今日まで来たわけです。そして、いろいろありましたが、何とか平穏無事にここまで来たわけです。

イエス様を受け入れるというのは、それに似ているような気がします。信仰を持ったのは、私自身の決定です。他の人は参考意見をいっただけです。

そして、今私が考えているのは、将来死に直面した時に死に向かう恐怖をイエス様が癒し、川を渡る時に一緒にいてくださるから安心だということです。一緒に歩いてくださり、御国まで導いてくださるので、何も心配いらない。そして、私の体は燃えてなくなりますが、霊は永遠に残るということで、「永遠の命」というのは、こういうことなのかなあーと思うようになりました。

そして、心に平安を持つことができ、日常の生活の中でも、他の人に対して、柔和な姿勢で接することができるようになりました。

1999年12月記す 以 上