私の小さな証(1)

佐伯 公  (Isao Saeki)

■氏は全国地方銀行協会通信研修部勤務

はじめに

私は、佐伯 公(さえきいさお)と申します。年齢は56歳で、全国地方銀行協会という銀行の団体に勤めて、今年で34年になります。現在の住居は埼玉県春日部市ですが、勤務先のある神田まで通勤時間は1時間15分です。

私の信仰暦は、平成7年6月から、浦和の田中信生牧師の夕拝に通いはじめ、平成9年12月にプロミスキーパーの集会に参加、平成10年3月から、VIPクラブに参加、その後、平成11年1月に埼玉県越谷市の「千間台キリスト教会」での洗礼を受け、今日に至っているところです。家族は家内と、21歳の長女、20歳の長男の4人です。

私が今回、証をまとめるのに、1つだけ心がけたことがあります。というのは、キリスト教では、言葉を大切にしています。つまり言葉は力であるとか、あるいは御言葉を覚えなさいとか、いつも御言葉を口ずさんでいなさいといいいます。例えば、愛は大切であるとか、罪を犯してはならないというような言葉は最も基本とされていますが、私にいわせれば、そういう大切な言葉であるからには、それは完全にその意味を理解し、血となり肉となるものでなければならないと思います。

ところがどうでしょうか、クリスチャンとしての生活が長くなると、毎日している祈りの言葉の意味を考えず、ただ形式に流れてしまいます。やはり、口で語る言葉の意味は毎日、毎日、その意味を確認し、自分がいった言葉がどのように、今日具体的に現わされたか、それを確認するようにしたいと思います。それをすることが、事実としの信仰を定着させると思います。

そこで、今回は未熟者としての恥をも省みず、以下の5項目について、私なりに考えをまとめてみました。他の人にみてもらうというより、自分自身の頭の整理と、信仰を深めるための「整理ノート」です。もし、お読みいただいた方がおられればご叱正のお言葉をいただければ望外の喜びです。

1.喜びと幸せの違い

私が初めて聖書に接した時に、ある牧師の方から、ハバクク3−17の「私は主にあって喜ぶ」をもとに、喜びと幸せの違いを聞いた時はショックでした。つまり、それまでの私は喜びと幸せは一緒だったからです。しかし、その牧師がいわれるには、幸せはジェットコースターのようなもので、今日幸せでも、明日は不幸せになることがあります。結婚の時がよい例だと思いますが、いい相手が決まったとその時は喜び、幸せいっぱいになります。そのままいけば良いのですが、良いことは長くは続かず、時には忍耐が必要となります。つまり、幸せでない状態になるわけです。その意味では、幸せは人が持ってくるものだと思います。

それでは、喜びはどうでしょうか。喜びは主から来るものだと思います。私達が朝起きて、お祈りをする時に、主は上からみていてくださり、「おはよう。今日も元気でがんばりなさい。主からの油を注いであげよう」といってくださいます。それが、主から与えられる喜びだと思います。確かに、現実の問題はいろいろあります。家庭の中でも裁きがあり、会社の中でも戦いの連続です。しかし、その中にあっても、冷静になって、「ああそうだ、朝 主に祈ったときに、私がついている。頑張りなさいと励ましていただいた」ということを思いだせば、勇気が湧いてくるわけです。そして、精一杯努力し、仮に結果は良くなかったとしても、それは、主が一緒にいていただいて、そのようになったのだから、不安になる必要はないのです。なぜなら、自分1人で考えたことではないからです。

それともう1つ思うのは、幸せとか、不幸せというのは、状況によって変るということです。私達が主にある喜びがあれば、今不幸せの状況にあっても、主に祈ることが出来るのです。主はその祈りを聞いてくださるのです。逆に私達が幸せだけを求めるとすれば、それは人との関係で与えられますから、どこまでいっても、満足は与えられないのではないでしょうか。自分1人で求めるとすれば、それは疲れしか与えられません。主と繋がっていることによる喜びを常に持ちつづけたいものです。

2.選択(主の道とサタンの道)

聖書には、「狭き門より入れ」というところが何か所かあります。これについて、私は次のように考えます。つまり、私達が車で走っていて、T字路にぶつかったとします。右はアスファルトの道、左は砂利道となっていると、普通の人はアスファルトの方へいくと思います。しかし、私に言わせれば、アスファルトはだいたい300mくらいでその道はあとは砂利道になっているのです。他方、左の砂利道は300mだけで、後はアスファルトになっているのです。

私がいいたいのは、私達の日常生活でこのように選択をいつもしているということです。例えば、会社でいつも遅刻してくる社員がいると、私達はその人を裁きます。そして、叱ります。しかし、ただ叱ることが本当にその人のためになるのか、そこはよく考える必要があります。すぐ叱るというのは、いま言いました、右か左かの選択の時に、アスファルトの道にいくようなものです。その場はよいのですが、300m先は砂利道です。つまり、その人との和解は得られず、むしろ誤解が広がっていきます。いわば、サタンの道にはいっていくわけです。

これに対して、遅刻した人を見ても、一呼吸おいて、その人のことを許し、その人のためにこの次から遅刻しないように祈ることができれば、それは主の道にいくことになるのではないでしょうか。これこそ、狭き門より入れということの実践です。なかなか難しいことですが、このような小さな努力を積み重ねていくことが大切ではないかと思います。

聖書には、死に至るまで、忠実であれ(黙視録2−10)とありますが、小さなことでも、忠実であれば、天におられる主はみていてくださいます。小さいことだから、主は見逃してくださるというのではなく、主の前に正しいことは、どんな小さなことでも、忠実に実行したいものです。

3.愛と罪

キリスト教は愛の宗教といわれています。しかし、私達日本人からすると、この愛がよく理解できないというのが実感ではないでしょうか。そして、愛の反対にある罪という言葉もキリスト教ではよく出てきますが、これもよく理解できないというのが、実感です。

第1コリント13−13に「いつまでも残るのは、信仰、希望、愛であり、その中で一番すぐれているのは愛です」とあります。有名な個所ですが、いくらここを暗証しても、愛ということば、血となり、肉とはならないというのがも実感です。

実は、その答えは同じ第1コリント13−4に「愛は寛容で、親切、人をねたまない、自慢せず、高慢にならない」とあり、その後にも、愛は礼儀に反しないとか、自分の利益を求めないとあります。つまり、私達キリスト者が実践するのは、寛容(忍耐という訳もある)であること、親切にすること、高慢にならない、このようなことが愛の中身ではないかと思います。

そして、この反対、すなわち、寛容でなく、すぐ怒る、親切にしない。人のことをねたむということが、罪ではないかと思います。罪を説明するのは、難しいのですが、私は最近、罪の定義として、怠惰の罪、手抜きの罪(原子力の東海村の例がよい例です)、裁きの罪、高慢の罪等を説明すると、みんな自分の問題として、考えてくれます。

ところで、実際生活で私達が裁きの罪とか、高慢の罪を懺悔するのは、相当勇気がいります。そこで、それを聞いてくださる対象として、神様のような絶対者を意識するのではないでしょうか。そして、その方に全部申し上げると、その方は大きな方ですから、私達の告白に対して、「よくいった」とうことで、誉めていただき、裁くのではなく、許してもらいます。これにより、忍耐強い、寛容な神の愛を実感することになります。

私の理解では、第1ヨハネ5−3には、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」とありますが、私達が神様の命令を守る、すなわち、寛容で、親切、人をねたまない、高慢にならない生活をすれば、それは神を愛することになり、今度は神様からの祝福が私達に来るのではないかと思います。

そして、神様の命令は重荷にならないというのは、神様は天におられて、私達のことをすべてみておられ、私達が愛のある生活をしておれば、許していただく、本当に慈愛に満ちた方なので、その方のいわれることを実行するのはつらくはないということだと思います。私達が小さい頃に校長先生から、命令されて、何かやるときは苦労に思わないのと似ているのではないかと思います。
キリスト者として、罪のある生活でなく、愛を実践するようにしたいものです。

4.時(計画)

伝道者の書3章には、「天の下では、何事でも定まっとた時がある」という書き出しで、すべての営みに時があるということが示されています。ここでは、私は祈りと神様の計画について考えてみたいと思います。つまり、私達はいろいろお祈りをします。病が癒されることとか、仕事のビジョンが与えられるとか、いろいろなことを祈ります。

そして、祈りはすぐ聞かれるものと、なかなか聞かれないものがあります。どちらかといえば、すぐ聞かれないものが多いのです。すぐ聞かれないと私達は諦めてしまいますが、ここで、考えておくべきことは、私達人間と神様は違うのだということをはっきり認識しておくことが必要だと思います。確かに、私達は毎日祈り、神様の臨在を実感する必要があります。しかし、神様は天地万物を創られた方です。私達の小さな頭で想像したものをはるかに超えた大きな計画を持っておられるのです。ですから、例えば、私達が3DKのマンションをほしいと祈っても、もしかしたら、神様は5DKのマンションを下さるかもしれません。私達が、願うことは、全て神様はご存知ですから、自分の頭で考えられる範囲に限定しない方がよいのです。

したがって、神様が実現される時まで、祈り続ける必要があります。マタイの福音書24−42には、「だから目をさましていなさい。あなた方は主がいつ来られるかしらないからです」とあります。ここで分かるように、私達は神様が実現される時を待っている必要がありますが、そのためには、いつも目を覚ましている必要があるのです。眠っていてはいけないのです。そして、神様の示しは小さな声でしょうが、それを聞き逃さないようにしなければならないのです。職場での人間関係の改善を祈っていて、神様がそれを実現してくださった時には、間髪をいれず、神様に感謝の祈りをする必要があります。せっかく祈りが実現したのに、気づかずに過ごしてしまうことのないようにしたいものです。

ローマの人への手紙8−18には、「今の時のいろいろな苦しみは将来私達に啓示されている栄光に比べれば、取るにたりない」とあります。これは神様が私達に示されている計画のことをいっていると思いますが、祈る時には、神様の計画と神様がそれを実現される時を待つという心構えが必要ではないかと思います。

それと、私達は1日は24時間で生活していますが、神様は天におられるので、私達と生活のリズムが違うのだ、もしかしたら、私達1人1人の願いを聞くために毎日寝ないで努力しているとか、そういうことも考えてよいのではないでしょうか。そこまで考えなくても、最低限考えておきたいのは、祈りは必ず神様に届いているが、神様はそれを実現されるために、神様独自の計画と時を持っておられるので、私達は常に目を覚まして、その時と計画実現の方法を見つける必要があるということだと思います。

5.信仰のスタートとゴール

私は先に書きましたように、平成11年1月に洗礼を受け、その後自分の教会でも、またVIPクラブの活動を透して、キリストの教えを知る人が増えればよいと考えています。そこで、疑問がでてきたのですが、なぜキリストの教えを知る人が多くなる必要があるのでしょうか。これについては、ある有名な牧師のメッセージから答えをいただきました。

つまり、今日の日本の状況を見て、政治も十分でなく、経済も満足できない。学校の教育も十分でない。今の日本をなんとか良い方向に変えたいというのは、誰でも考えていることだと思います。それでは、どうすれば、日本が変わるか、総理大臣が変わればよいのか、代議士が変わればよいのか、また学校の先生が変わればよいのか、もちろんそういう人達が変われば、少しは日本は良くなると思いますが、それでは効果は少ないのです。本当に日本が変わるためには、1人1人が愛のある生活、つまり忍耐があり寛容で、他人を裁かず、他人のために祈る、そういう人間が増えることによって世の中は変わるのです。これは、時間のかかる忍耐のいることですが、よく言われるように、急がば回れというごとく、地道であるけれども、毎日、少しずつ積み重ねる必要があるのです。

キリスト者の信仰のスタートは自分自身の毎日の祈りと、悔い改め、感謝とへりくだりの生活だと思いますが、このような人を1人でも、2人でも増やして、「一緒にこの日本をよくするために立ちあがろう」というのが、信仰のゴールではないかと思います。

これを実現するには、サタンの妨げは多いのですが、箴言3章には、「主の懲らしめをないがしろにせず、その叱責をいとうな」とあります。全て主に信頼し、幻を見つつ、勇敢に進みたいと思います。

(平成11年11月記)