私は何のために、絵を描いているのだろうか?

画家 安藤 文絵

私は久し振りに帰った札幌の自宅で、ずっとひとつのことだけを考えあぐねていました。

隣の部屋からは、妹が奏でるピアノの音が聞こえてきました。幾度となく繰り返される旋律が、最初は小川のように、そしてそれは、やがて大河となって、私の内に流れ込んできました。それはとても心地よく、私の心を和ませました。それはバッハのピアノ練習曲でした。

『彼にとって、楽の音は虚空に消え去るのではなく、言いがたい賛美として、神のもとに昇って行くのである。』

1990年の大学生最後の夏休みも終わりに近づいたころ、シュバイツアーがバッハについて書いたこの言葉と出会いました。それは、わたしにとってとても新鮮なものでした。

今まで絵を描くということは、自己の存在を肯定するものであり、自分のためにするものでした。

私はこの文章に惹きつけられました。『自分のために絵を描かない、人に認められることを求めない、期待しない』ということにただならぬ強い魅力を感じたのでした。

「自分のために描かないとしたら、何のために私は描くのだろうか?」

考えた末に、私を育ててくれた、そして愛してくれている家族のために、卒業作品を制作しようと決めました。

思い掛けない出来事

1990年11月17日。その日は、決して忘れることの出来ない日となりました。
その日、私のアトリエが火事にあったのです。

いつものように自分のアトリエに向かいその風景を見たとき、しばらく何が起こったのか理解することが出来ませんでした。
それは卒業制作の締めきりまで2カ月足らずという時期でした。

大学院に行きたかった私にとって卒業制作はとても重要でした。その締切りを目の前にして、ありとあらゆるものを失ってしまったのです。言い表わすことの出来ない衝撃、絶望、深い悲しみ、激怒が私の心を襲いました。

心の中に溢れる理不尽さの中で、途方に暮れました。提出までの限られた二か月という時間で、二枚の絵を仕上げるのは不可能のように思えました。

「私は何をすればよいのだろう?」

目の前が真っ暗で、一筋の希望の光も、見えませんでした。
その日初めて、自分の無力さを知りました。どれほど骨を折り労苦して築き上げたものであろうと、全てはいずれ塵となってしまうのです。

空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう(伝道者の書1:2、3)

私は自分ではどうしようもない虚しさと苦しみの中で、生まれて初めて祈りました。

「神よ、もし本当にあなたが存在するのなら助けてください。」

自分の真実の姿を見せつけられ

卒業制作は様々な人の助けもあり、どうにか出来上がり、大学院の入試にも合格することが出来ました。苦難を乗り越えての成功です。けれども喜びで一杯のはずの私の心の中には、なぜか北風が吹き、何か満たされない思いが残りました。

そんなある日、クリスチャンの親友が私に一冊の本をしきりに勧めました。それは、三浦綾子さんの「道ありき」でした。気のりしないまましぶしぶと読み始めましたが、いつのまにか夢中になって読んでいました。そこには、誠実で真実な愛が存在していました。それは、私がまさに飢え乾き、求めていたものだったのです。

そして、読み終わった時には、人に誠実さを求めるよりも、まず、自分が誠実な者になろうと決心していました。

しかし、その決心とは裏腹に私は友人を泣かせてしまいました。彼が自分の境遇を理解してほしくて愚痴を言い始めたからです。「わかってよ」と涙と共につぶやいた彼の一言は、私の心を貫きました。そして同時に「人を自分の言葉で造り変えようとしていた」ことに気づかされました。

誠実な者になりたいと願いながらも、次の日には人を見下し、裁いている。それが私の真の姿でした。何と的外れで、何と傲慢なことでしょう。人が人を造り変えることはできません。自分の真実の姿を見せつけられたとき、断崖絶壁から奈落の底に落ちていくような気がしました。

こうして、私は以前教会で聞いた『罪』というものが、自分の内にあることに初めて気づかされました。これこそ聖書が語っている罪なのだと。それは、人が神から離れて自分が中心になっていることです。

私は、自分の罪過と罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)だったのです。

私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私がしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて私のうちに住む罪です(ローマ7:19、20)

 

一つの選択

翌晩私は、一つの選択を迫られました。見えざる者の声が私の心の中に語って来たのです。

『自分に罪があると自覚し、その罪を許してもらいたいと思うのなら、今、その罪を告白しなさい。そして、イエス・キリストにあって罪を許していただきなさい。』

何を口に出していいのか解りませんでした。ただ、自分には背負いきれない程の、大きな罪が自分にあることのだけが解りました。涙がとめどもなく流れるばかりでした。

この日イエス・キリストを救い主として自分の内に迎え入れ、そして自分の人生をイエス・キリストにお渡ししました。その時から私の人生は大きく変化していきました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント5:17)

芸術が“神”

以前は、私は、自分の考えをはっきりと持たなければ芸術は語れないと思っていました。そして、その時どきに自分が感じたこと、考えていることが、自分とって真実だと信じていました。だからこそ、自分の考えを断言することに徹していました。それは芸術に関することであろうと、日常生活、人間関係のことであろうと、全く変わりはありませんでした。そのことが、実際は間違っていようといまいと、私には関係がありませんでした。私は、信じられるのは自分しかいないと確信していたのです。

そして、私の発する言葉によって人が傷つこうと、私には関係がありませんでした。もし私の言葉によって傷つく人がいるのなら、それはその人が弱く、人の言葉を受け止められるだけの器でない方が悪いのだとも考えていました。

絵を描くということは、私にとって自己実現の方法で、絵を描くことで自分の存在理由を保ち続けようとしていました。創作活動を停止することは、私にとって敗北を意味しました。そして、私にとって芸術が“神”の存在のようになっていました。

私にとって、芸術とは

現代において芸術は宗教になりがちです。多くの人が現代芸術とは、富みある者達や、特別な者のための現代宗教だと述べています。芸術にあって人々は自分自身を奉り、自分のエゴの栄光を称える危険性があります。

以前の私は、まさにそのような者でした。しかし、それは虚しいものでしかありませんでした。それは、いずれ滅んで塵となってしまうものだからです。まさに、次の言葉の通りです。


彼らは、自分で知者であると言いながら不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました(ローマ1:22、23)。


真の創造主であるイエス・キリストと出会って、『芸術は神に帰すものである』と考えるようになりました。そして今、心から私はこう言えるのです。

私にとって、芸術は虚空に消え去るのではなく、
言いがたい賛美として、神のもとに昇って行くのものである。

イエス・キリストと出会って

イエス・キリストは私を縛っていた「人からの評価に対する恐れ」、「失敗することに対する恐れ」から解放して自由にしてくださいました。

もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは自由なのです(ヨハネ8:36)。

それが、私に起こり、私は自由になったのです。

そして、絵を描く目的が、自己実現から、神の作品として生かされている証を画面に刻んで行く作業へと変わました。それまでの苦しみと迷いの製作過程から、喜びに満ちた充実感を味わうものへと少しずつ変わって行きました。

以前のように虚勢をはって強がる必要もなくなり、自分の弱さを正直に受け入れることができるようになりました。そして、人の弱さを受け入れ、許すことが容易くなって来ました。今でも、私は失敗をしますが、失敗することを以前のように恐れることはなくなりました。

生ける神を迎え入れること

『生ける神に出会うこと』こそが真の命を得る鍵であり、真の創造の業に関わる唯一の道です。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)。

いつも、イエス・キリストは、あなたの心の扉の前にたってノックしています。

見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示録3:20)。

今がその時です。その扉を開けるかどうかは、あなた自身にゆだねられています。

あなたはどうしますか?
難しいことではないのです。
イエス・キリストを迎え入れて下さい。
そして、受け取って下さい。

いつも彼の愛はあなたの前に差し出されているのです。盲信ではありません。また行いによるのでもありません。「イエス・キリストは私が受けるべき神の裁きを肩代わりしてくださった」とうなづいて、ただそれを受け入れるだけなのです。十字架の上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。(我が神、我が神。どうして私をお見捨てになったのですか。)」と叫ばれたイエス・キリストのあの叫びは、本当は私たちが叫ぶはずだったのです。

神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:16、17)。

『世』という言葉は、そのまま『あなた』でもあるのです。神様はまさにあなたを、愛しておられます。そして、彼はあなたに喜びに満たされて生きてほしいと願っておられます。

最後に・・・

あなたも今、私と一緒に祈りませんか。どこにいてもかまいません。たとえ、自宅であろうと、電車の中であろうと、職場でも・・・。

「イエス様、あなたの愛を感謝します。あなたは私のために十字架で死にました。私もあなたを私の人生に迎え入れます。私の人生を導いて下さい。」

この祈りがあなたの心からのものなら、イエス・キリストはあなたの人生に訪れてくださいます。そして、人には語ることのできないあなたを縛る問題からも解放し、その心をいやして下さいます。

イエス・キリストは、私たちの罪の身替わりとなって十字架の上で死なれただけではなく、その3日後によみがえられました。彼は今も生きていて私たちに語りかけています。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です (2コリント6:2)。