キリストは生きておられる

永野 力 (Chikara Nagano)

■この証しは96年3月10日(28歳)現在のものです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです(ガラテヤ2章20節)

1.洗 礼

1995年5月28日、私はキリスト教の洗礼(バプテスマ)を受けました。10年ほど前に、イエス・キリストを救い主として信じた後、紆余曲折を経験したものの、昨年バプテスマを受けることにより、クリスチャンとしてはっきりと生まれ変わったという自覚をもつことができました。私の心にどっしりと重く温かいキリストを感じとることができたのです。かつてはなかった強い確信と平安が与えられ、天と自分がひとつに結ばれたことを実感しました。

それまでの私は、自分がキリスト信仰者であるということを隠してきました。それは、自分の信仰が極めてプライベートな事柄であったとともに、周囲の評価、世間の目が怖かったからです。「ついにあいつも宗教にはまってしまったのか」と言われることを恐れていたのです。しかし、自分の内なるキリスト信仰が成長するにつれて、もはやそれを抑え込んだり、隠したりすることができなくなりました。それで洗礼を受ける決心をしました。今では、そういう不安が払拭されて、自分がクリスチャンであるという強い自覚と誇りがあります。

2.神への求道

イエス・キリストを初めて信じたのは、大学に入学したばかりの春で桜が満開な季節でした。私は学生食堂で、あるクリスチャンの友人に祈っていただいたことにより、個人的にイエス・キリストを救い主として受け入れました。今から思うと、荘厳な教会でもなく、大きな伝道集会でもなく、ざわざわとした薄汚い学生食堂で、大好物のラーメンを食べながら、主イエス・キリストを信じたということは、まことに不思議です。神さまは様々な方法を用いて私たちを導いてくださるものだと驚くとともに、感謝しています。私の学生生活は、すばらしい友人たちに囲まれて、お互いに天下国家を論じ合い、気ままに旅行をして、とても楽しく、かつ何の不自由もないのびのびとしたものでした。表面的には、大変に恵まれた生活をしていました。けれども内心は常に、不安、妬み、傲慢、自己中心、といった自己の矛盾との葛藤に悩まされていました。

必修科目としてマルクス経済学を学びました。マルクスは『資本論』で、資本主義体制には資本家による労働者搾取の構造的欠陥があることを論証し、人間が理想的な社会を創造するためには社会主義革命が必要であることを述べておりました。当初はこの斬新でリベラルな思想に感動し、共鳴しました。しかし、よく考えてみると、その行き着くところは「宗教はアヘンである」という思想であり、神の存在を完全に否定してしまう「無神論」の世界であることに気がつきました。それは、虚しく、希望のない、愛のない世界です。それに対して、近代経済学者アダム・スミスは『国富論』で「神の見えざる手」が市場を動かし、長期的にみれば人間の自由な経済活動はすべて神の意思(市場メカニズム)により経済の均衡点に達するということを論証しておりました。あくまでも経済学という分野のことですが、後には神を認めるスミスの考え方により強く共鳴しました。

やがて、あれほどの勢いで世界を制覇すると思われた旧ソ連・東欧の共産主義が、ベルリンの壁とともに一挙に崩壊し、衰退していきました。マルクスが説いた「無神論」はやはり無力であり、人間にとって神はどうしても必要な存在であると実感しました。

3.人間は必ず死ぬ

こうして、神に対する漠然とした求道が始まったわけです。その中で、学生時代の祖父の死が、私に大きな影響を与えました。私の祖父は明治生まれで、旧帝国大学を卒業後、太平洋戦争にも出兵し、戦後はマッカーサー元帥とともに日本の損害保険制度の確立に尽力し、日本の高度成長期を働き抜いた人です。私にとって祖父は日本の生きた昭和史そのものであり、とても尊敬し、好きでした。その祖父は、まだ帝大生であった頃に、キリスト教会に通っていたそうですが、「自分が罪人である」ということがどうしても納得できず、キリストを信じることができませんでした。祖父が到達した信仰は仏教でした。このことが、私がどうしてもキリスト信仰に素直に入り込めなかったひとつの大きな要因でした。祖父の影響もあり、私は鎌倉の円覚寺に泊り込んで座禅修行をしたり、般若心経を唱えて仏の教えを勉強したこともありました。

しかし、仏教を信じた祖父が本当に幸せであったかというと、大いに疑問でした。仏教を「崇高な哲学だ」と主張する一方、祖父はいつもどこか寂しそうで、何かを訴えたいようでした。祖父の発言の随所に「人格をもった、生ける神」との交流を求めたいという気持ちが現れていたようでした。祖父がベッドの上で最後の息を引き取る前に、私は祖父に人生の意味を教えてほしいと切願しました。残念ながら答えは帰ってきませんでした。こうして初めて肉親の死に直面して以来、「死」と「神」について深く考えるようになりました。

それよりもなおショッキングな出来事が数年後に起こりました。それは大学のゼミの先輩の死でした。大学院生のその先輩は、たいへんな秀才であるとともに、誰からも慕われるリーダー的な存在でした。私にとっては、勉強や就職の相談のほか、自分の理想、社会・国家のビジョン、恋愛観などどんなことでも胸を割って話せるやさしい先輩でした。その先輩が、私が就職して1年目に突然、癌で亡くなったのです。享年26歳でした。将来への希望、社会のビジョンと崇高な理想に燃え、そして純粋すぎるほどの恋をしていた先輩の突然の死でした。私にとってあまりにも悲しすぎる出来事でした。ご両親の前で、冷たくなってしまった先輩の体を見た瞬間、抑えきれなくなった涙が目から流れてきました。人間には必ず死ぬ時が来る。それが何時か誰にも分からない。もしかすると明日かもしれない。そう思うと、自分はとても弱く、小さく、薄氷の上を歩いているような存在でしかないと感じました。

4.罪の自覚とキリストによる救い

これを契機に、死をも超越する、永遠なるもの、目にみえないもの、唯一絶対的な神を求める気持ちが一段と強くなりました。そして、いろいろと試行錯誤を続けていくうちに、その答えを聖書で見つけ出すことができたのです。

聖書を読むと、自分はいくらこの世の尺度から見れば善人だと思っても、心の中の本当の自分は、常に他人の心を傷つけようとしている、隣人を愛することなんかとてもできない、まことに罪深い存在であることに気づきました。どんなにかんばっても、自分の力では、この罪深さを克服することができないのです。そしてこのどす黒い罪の性質をもったままでは、聖なる神と断絶しており、もし地獄というものがあるならば、自分こそが真先に落ちてしまう者にちがいないと思いました。

しかし、神さまは、「罪人」である私たちを愛して下さいました。宇宙万物を創造なさった神さまは、この地上に神さまの唯独りの御子であるイエス・キリストを送られ、私たちを罪から救うために、キリストを十字架の上で血を流して死なせたのです。このキリストの犠牲の血(死)によって、私の過去、現在、未来の罪はすべて赦されたのです。そしてキリストは、死後3日目に復活した後、天に昇られ、今は神さまとともにおられます。これが神さまの人間に対する究極の<愛>なのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3章16節)。

だれでもイエス・キリストを心の中に迎え入れるならば、神と人とを断絶している「罪」がすべて許されて、父なる神との永遠かつ無限の愛の関係に入ることができるのです。これを<永遠のいのち>といいます。これは人間の知性(マインド)よりもさらに深いところにある霊性(スピリット)にかかわる事柄です。すなわち、「考える領域」の事柄ではなく「信じる領域」の事柄です。

イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』(ヨハネ14章6節)。

このようにして、キリストを全面的に受け入れてからは、神さまの愛が溢れるように私に注がれてきました。私は天に向かって神さまを賛美するとともに、キリスト信仰が物凄い勢いで成長していきました。私が成長したというのではなく、私の内にある聖霊(神の霊すなわちイエス・キリストの霊)が成長していったのです。そして、時が満ちて、洗礼を受けることができました。

その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方は、あなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです(ヨハネ14章17節)。

 

5.すべての原点はキリスト

一般的にクリスチャンとは、マザー・テレサのような高潔な人間だと想像されるようです。私がクリスチャンになった後は、そのようなイメージとは逆に、自分がいかに他人の心を傷つけ、隣人を愛せない、不完全で、弱い、高慢、自己中心的な罪人であるかと、いやというほど思い知らされました。心が責められる日々がつづきました。次第に、私を助けてくれる人生の伴侶が必要だということを感じ始め、これを神に求めて祈りました。そうしたら、すばらしいクリスチャンの女性にめぐりあって、昨年の10月に結婚することができました。このように神さまが私の願いをかなえてくださったことを感謝しております。

新婚旅行でアメリカに行きました。私は少年の頃アメリカに住んでいましたが、アメリカにはこれほど教会が多いものか改めて驚きました。多民族国家のアメリカですから、いろいろな文化・地域から発生したキリスト教会が混在していることにも驚きました。街の中のひとつの交差点に、いくつものキリスト教会が立っているという風景を何回も見ました。そして、礼拝の形が違っても、教会堂の外見が異なっても、すべてのキリスト教会がイエス・キリストを神として崇めるという1点では共通していました。いろいろな教会に入り、礼拝堂で祈っていると、どこでもイエス・キリストが神であるという1つの共通点が見えたのです。イエス・キリストこそがまさに、天にあるもの、地にあるもの、目に見えるもの、また見えないもの、すべてのものの原点であることを実感しました。このような大切なことを新婚旅行で学ぶことが出来たことを本当にうれしく思っています。

主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は1つです(エペソ4章5節〜6節)。

イエス・キリストは、すべてを超越しておられる霊的な存在です。ですから、イエスさまとの親しい交流をもつためには特定の場所や時間は必要ありません。いつでも、どこでも、イエスさまは心の中に入ってきてくださいます。教会や伝道集会はもちろんのこと、自分の部屋、風呂、職場、教室、レストラン、喫茶店、歩道、公園、バス、電車のなか、そして雨のなか、風のなか、太陽と星の下、あらゆる生活の場面でイエス・キリストを受け入れることができるのです。

御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています(コロサイ1章15節〜17節)。

6.神の恵み

イエスさまは確かに私の内に住んでおられます。キリストは本当に生きておられます。私はイエス・キリストを心から愛しています。それは、自分が不完全である罪人だということを正直に認め、イエス・キリストを神として受け入れたら、イエスさまが聖霊として私の内にすぐに入ってきて、救ってくださるからです。何か問題にぶつかる時、内なるキリストにすべてを委ねていけばよいのです。忍耐をもって祈りつづけていくならば、どんな難しい問題でも、生けるキリストによって解決されていき、神の御国がより大きく実現されていきます。

あなたがたは今まで、何もわたしの名(イエス・キリスト)によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがの喜びが満ち満ちたものとなるためです(ヨハネ16章24節)。

何かを求めて必死にがんばって努力するのではなく、あるいはこの世の知識、伝統、感性、経験、情報、組織、人間、権威などに頼るのではなく、ただひたすら、聖書と祈りによって、生けるイエス・キリストを見上げていくならば、神さまの恵みを無限に受けていくことができます。他のいかなる方法や手段によっても、これほどの平安と祝福を受けることはできないと思います。

そしてこの恵みを受ける秘訣は、いつでも、どこでも、神さまの前にへりくだり、自分の弱さ、不完全さ、罪深さを正直に告白すればよいのです。「イエスさま、私はいくらがんばっても、自分の弱さ、不完全さ、罪深さを克服することができません。どうかこのあわれな私を、助け、救って下さい」と心の底から叫び求めるのです。そうすれば、イエス・キリストを通して神さまの限りないいつくしみとあわれみを受けることができます。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です(エペソ2章8節)。