労組の闘士からキリストの戦士へ

加藤 凉子 (Ryoko Kato)

■女史は現在ボン・インターナショナル(株)企画室ディレクター

1.土井たか子さんとの出会い

1998年10月8日 ホテルニュ−オ−タニ鶴の間にて

「金大中大統領夫人をお迎えする会」に社民党の土井たか子さんが、ゲストとして招かれ、壇上に立たれました。土井さんは金大中大統領李姫鎬夫人との永年に及ぶ交流のなかでのエピソ−ドを語られ、最後にマタイの福音書 5章の山上の垂訓を引用して、この聖句を日々心の糧としておられると話されました。私は土井さんのスピ−チを聞きながら、胸の奥からこみ上がる熱い思い、同時にあふれ出る涙をどうすることもできず、ただ土井さんの姿を、夢を見ているような感じで見入っていたのです。土井さんのスピ−チを聞いて涙を流していたのは、およそ 6百人の列席者の中でおそらく私 1人だったでしょう。私の記憶はフラッシュバックしていたのでした。

今から30年前つまり1968年(昭和43年)。当時はベトナム戦争の最盛期であり、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていました。日本では学園紛争が、1968年〜1969年にかけて最高潮に達した年でもあります。前近代的な官学の体質改善を要求する学生運動に端を発した東大闘争、安田講堂事件、そして1967年の第一次羽田闘争を皮切りに、70年安保に向けて日米安保条約改訂阻止の反安保闘争が繰り広げられていた中のことです。あるとき、私は衆議院議員会館に当時の社会党の女性闘士・土井たか子さんを5〜6人の活動家と共に訪れました。小さなキッチンのついた部屋にテ−ブルとソファが置かれていました。そこで私たちは、土井さんとテ−ブルを囲んで座りました。70年安保を目前にして政治闘争の嵐が吹き荒れる中、社会主義国家を目指して社会変革を実行すべき思いを一つにして集まった活動家たちが、日本の社会主義政党運動について熱く語り合いました。

2.生い立ち−父との対立

私は1942年、満洲の奉天で生まれました。日本の敗戦と同時に多くの日本人が中国から引揚げ、私も両親と共に引揚げてきました、当時 3歳でした。その時のエピソ−ドがあります。ある日、中国から残留孤児が来日し肉親を求めて呼びかける樣子を、父がテレビで見ていた時のことです。父が、涙を流しているのです。あの気丈な父が涙を流した……。そして突然、父が言いました。「お前もあの中の 1人になったかも知れないんだよ」と。私は、「えっ?」と聞き返しました。

父の話によると、日本引揚が決ったある日、私は小さなリュックにおむすびと衣服、写真、両親の形見になる物を入れて、ある場所に連れて行かれました。当時の状況では、子どもを連れての引揚げは大変危険なため、多くの日本人は子どもを現地に残して引揚げざるを得ませんでした。そこに私を置いて両親が立ち去ろうとした途端、私はひときわ大きい声で両親を呼び求めて泣き叫んだそうです。その泣き声に矢も盾もたまらず引き返し、私を連れ帰ったと……。「死ぬなら凉子と一緒に死のうと決心した…」と聞かされました。あの時、もし私が泣き叫ばなかったら、両親はどうしたのだろうか。私は中国に置いてきぼりにされたのだろうか?父の話を聞いて、この事が私の胸にずっと残っていました。もし、置き去りにされていたら、確かに言えることは、今の私はここに存在していなかったということです。

そしてそれ以降、父はお酒を飲む度によく私に言いました。「あ−あ、あの時お前を満洲に置いてくればよかった…まさかこんな娘になろうとは……」。父が嘆くのも無理はありません。当時、父は会社経営をし、経済的には恵まれた環境にありました。会社経営のかたわら、都内に喫茶店や高級麻雀店なども経営し、好きな絵画や世界のコイン・コレクション、そしていくつものゴルフ会員権などを所持し、ゴルフ三味の生活をしていました。

私に花嫁修業をさせて女性らしく上品に、そして父の気に入った男性と結婚させて会社を継がせる……。それが父の描いた夢でした。でも私は父の期待を、見事に裏切ったのです。親からみると、手に負えないはねっ返り娘、危険分子。婦人解放、労働運動、組合活動、マルクスや哲学書などの本に囲まれて、服装はジ−ンズにジャンパ−、髪はショ−トカット、化粧っ気全くなしという状態でした。例外と言えば、数多くのレコード。高校時代から音楽鑑賞が趣味でクラシックからジャズに至るまで、無数のレコ−ドを集めていました。とにかく、ひとつの屋根の下で資本家と労働者、ブルジュアとプロレタリア−トが同居していたのです。

自分の思い通りにならない私に、父はよく議論を吹きかけてきました。最初は冷静、その内カッカ。父の意見にも、お説教にも全く耳を貸さない私。「どうせ話しても判ってもらえない」と最後には、私はダンマリ戦術。敵対視する私に往復ビンタ。外では温厚な紳士で通っていた父も、家庭では筋金入りの短気で頑固者。時には往復ビンタでは済まない。何回も力まかせにブン殴られ、それも 1度や 2度ではありませんでした。20歳も半ば過ぎた娘に手をかける親も親ですが、ブン殴られる娘も娘です。でも、そんなことでひるむ私ではありません。痛いのは確かですが、痛みは一時的なもの。それより、親の心の痛みなど理解できる私ではなかったのです。

でも何度かこういうことがありました。さんざんブタれて部屋にとじこもり、くやしさと痛みで泣き寝入ったある日、朝、目が覚めると隣のリビングのソファで父は眠っているのです。「風邪をひくのに何でこんな所に…」と思いました。そして後になって気付いたのです。それは必ず私とケンカした日に限っていました。何をしでかすかわからない娘が、窓から飛び下りはしないか(8階の部屋)、あるいは夜中に家を出て帰ってこないのではないかと、父は心配していたのだと思す。恐らく、この推測は当たっていたでしょう。父には、いまだに確かめたことはありませんが……。

3.何が私をそうさせたのか

何が私をそこまで駆り立てたのでしょうか? 私は 3歳で引揚げてきた後、小学校から高校卒業まで母の郷里である四国の高松に住んでいました。高校のクラスに親しい友人がいて、彼女が部落出身であることを、ある時知ったのです。彼女は地味で目立たない人でしたが、勉強はよくできました。帰る方向も同じでしたので、私たちは同じ電車で帰りました。特別に親しい友人づき合いではありませんでした。でも、私は物静かな彼女が好きでした。彼女は、一度も私を自宅に招いてはくれませんでした。いつも他の人たちと距離をおいていたその友人を通して、新平民と呼ばれた人たちに対するいわれなき偏見・差別がいかにひどいかを知り、大きなショックを受けました。彼らは一般社会の中でも差別を受け、特殊な職業について、部落という集団の中でひっそりと生活していたのです。

私は、この部落問題を知るにつれ、大きな憤りを覚えました。世の中は平等ではない。差別がある。日本は差別社会である。私の住んでいた土地柄、素朴な人間性のなかにも、非常に保守的で閉鎖的であったため、特に強く感じていたのです。そのころ私は、父の事業が倒産して両親は別居、父の単身上京という家庭環境にいました。母の大きな愛に育まれながらも、何か満たされない思いがあったのです。

4.就職−労組の闘士

高校卒業後、私は上京。父と生活を共にするようになりました。父はサラリ−マン生活から独立し、会社を設立。この間の数年間、私を取りまく環境も状況も大きく変わっていきました。経済的に豊かになっていく父との生活の中で、私は人間を信じられなくなっていました。特に、男性に対してでした。それは父の女性関係です。私の大好きな父親を他の女性に奪われる娘の怒りと嫉妬。そして父への反発。

その当時の私は、まさしく放蕩娘でした。タバコは無論のこと、お酒もチャンポンなど平ちゃら、夜遊びはお手の物、数多くのボ−イフレンドに囲まれ遊び歩く。しかし、何をしても空しく満たされなかったのです。でもそんな私がのめり込んだものがありました。それは音楽。特に人間の弱さや人生の悲哀を歌ったカントリ−・ミュ−ジックは私の唯一の慰めでした。あの単純で素朴なメロデ−に、強く心ひかれるものがありました。当時、ウェスタン音楽愛好家の集い「東京グランド・オ−ル・オ−プリ−」というコンサ−トが毎月 1回開催されていて、私はそのスタッフとして働き始めました。でも実益には乏しく、私は就職を真剣に考えるようになりました。

そして就職したのが半官半民の会社。私は音楽の仕事と会社勤めの 2つの仕事を持っていました。その会社は組合活動が盛んでした。皆と共に組合活動に参加。最初は、ストやメ−デ−に参加といった程度のものでした。ところが、その会社に学生運動の闘士から政治活動家になったバリバリの闘士が、セクトから送り込まれていたのです。

私がなぜ、目をつけられたのか判りません。ただ弱い者いじめには何としても黙ってはいられない私の性格が見込まれてしまったのかも知れません。ある日、何人かの活動家に呼ばれました。カリスマ的なそのリ−ダ−の熱意に圧倒されました。そして 1年後、私は会社の労働組合の執行部の 1人となったのです。

5.社会主義の挫折

当時私が身を投じたセクトについて説明します。昭和23年に全学連が結成されました。そして昭和33年に代々木系(反主流派)と反代々木系(主流派)に分裂。後に反代々木系は三派系全学連(中核派、社学同、社青同解放派)と呼ばれるようになります、代々木系はマルクス・レ−ニン主義的平和路線を歩み、反代々木系の全学連は世界急進同時革命・武力革命のトロッキズムの特色を強めていきました。そして共に反戦・反米・反帝政治闘争、1970年の日米安保条約改訂阻止という政治スロ−ガンをかかげ、政治闘争を繰り広げていったのです。

私は社会党左派の社青同協会派に身を投じました。会社での組合活動の一方、セクトでの活動は日に日に過激化して行きました。ヘルメットに手ぬぐい、ジ−ンズにジャンパ−といった典型的な青ヘルゲバスタイルでデモに参加。 10.21国際反戦デ−、米軍基地反対闘争、沖繩返還デモ、佐藤首相訪米阻止、反安保総決起集会、東大カルチェラタン闘争などなど。

しかし、連日のように続くビラ配り、支援スト、デモ、オルグといった生活の中で身も心もクタクタになっていきました。本当にこのような闘争を続けることによって、私たちが理想とする社会主義体制を本当に建て上げていけるのだろうか。このような疑問に捕われ始めたのは、70年安保闘争での敗北によってでした。私はセクトにも深い敗北感を持つようになったのです。そして苦悩の末、会社もセクトも辞める決心をしました。多勢の仲間の前で徹底的に自己批判を迫られました。その当時のことはあまりふれたくありません。あんなにも深く強い連帯意識で結束されていた活動家の仲間たちは、侮蔑と刺すような冷たい視線をもって、私に自己批判を迫りました。

そしてこのことは、私が生きてきた中で、深い傷となって残りました。大きい挫折感の中で、 6年間の活動に終止符を打ち、1972年に会社を辞めました。

6.結婚−家族−教会

しばらくして、私はもとの音楽関係の仕事に戻りました。リフレッシュするため、 1ヶ月の間のアメリカ旅行をして帰ってきてからのことです。そして 4年後、主人と出会い結婚。私とは思想も、生き方も、全く異なる人でしたが、私の心の傷を癒すように大きく包み込んでくれました。そして平凡ながらも充実した日々の中で、 2人の娘が与えられました。そんなある日、主人の友人から食事の招待を受けたのです。

その日はドシャ降りの大雨。そしてどういうわけか、その日に限って車のエンジンがかからないのです。私は全く出かける気をなくしてしまいました。 4歳と 7歳の幼い娘を連れて電車に乗って渋谷まで行くなんて……この大雨の中。私は主人に「日を改めましょう」と言いました。ところが、主人は頑固に「絶対行く」と言い張るのです。しぶしぶ出かけた私と家族を丸井の前で待っていてくれたのは、主人の友人夫妻でした。私たち家族が案内されたその先は…何と教会でした。教会と知ったとたん、心の中で強い拒否反応が起こり、過去のものとして忘れ去っていた唯物論が頭の中で回転し始めました。しかし、神さまはこのような私をすっかりお見透しでした。

この日に起きた出来事の一つ一つを思い出す度に、あまりにも神さまの見事な御計画にただただ驚くばかりです。この日は收穫感謝祭でした。私は教会と知って、「とにかく献金だけして、帰りましょう…」と主人に何度も言いました。でも主人はまた、頑固に首を横に振るのです。「せっかく雨の中を来たんだからいいじゃないか。別に取って喰われるわけじゃないし…、美味しそうな御馳走もいっぱいあるし。食べてから帰ろう」と言うのです。私は完全に頭にきていました。主人にも、友人夫妻にも…。騙された…、してやられた…、はめられた…、と心の中でブツブツ言いました。

牧師のメッセ−ジなど全然耳に入りません。とにかく、家に帰りたい一心でした。ところが神さまは私の一番弱い所をご存知でした。子どもという私の一番弱い部分。クリスマスも近いとあって、 2人の娘は教会学校の先生に別室へ連れて行かれました。私はと言えば、 2人の娘を人質に取られた気分で、不愉快極まりありません。そんな私に、教会学校を出て来た娘たちは、開口一番こういうのです。「ねえ、ママ、彩ね、天使」「ママ、亜希はマリヤさまよ」 私は本当にキレました。「そうか、教会って所はこういう手を使うのか。これは詐欺だ、陰謀だと…」私は頭の中で怒り狂っていました。でも顔では笑顔をつくって、熱心な 2人の教会員の婦人たちの伝道に一応耳を傾けながら、無事?帰宅。家へ着いたのは、夜の 9時過ぎでした。

『わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ。わたしはあなたをあがなったからだ』(イザヤ44:22)

翌朝、 2人の娘は口をそろえて言いました。「ママ、教会へ行きたい。日曜日連れてってね。クリスマスの劇やりたい!」 主人は私に言いました、「別に教会へ子どもたちを連れて行ってもいいじゃないか。こんなに楽しみにしているのだから」 私は観念しました。娘たちがこんなに楽しみにしているのだから。クリスマスが終るまでガマンガマン。結局、教会へ行くことに賛成した夫は自分では行かず、私が次の週、子どもたちを連れて教会へ行くハメに。そして、私を待っていたのは友人夫妻。待ってましたとばかり手渡されたのは、素敵な皮の装飾をほどこした分厚い聖書でした。

7.聖書−キリストとの出会い

私は、「聖書って何が書いてあるのだろう…」とヤジ馬的な興味を覚えました。お風呂に入っても、トイレに入っても、台所でさへも、どこへ行っても、何をするにも、一日中聖書を手離すことなく、約 1週間でほとんどを読み終えました。疑問に感じた箇所に赤の傍線を引いて、神学生や伝道師をつかまえては質問をしました。「エッ?何ですって! ノアは 950歳で死んだ? ツラは 430歳? サラは90歳で子供を産んだ?」 私はまづ、創世記からつまづきました。この教会に来ている人たちは、本当にこんなバカげたことを信じているのだろうか?

しかし、このような私に神さまは、ご自身を信じられないような方法で示されました。どうしても神の存在が信じられない私は、神の存在をハッキリとした形で知りたくて、ある・をしました。それは、ヘビ−スモ−カ−の私から、自分の努力なしでタバコを止めさせることができるか…というものでした。もし、天地万物を創造した全知全能神が本当にいるなら、こんな簡単なことができないわけがない。「もし、できなければ神の存在なんて認めない」と言いました。ところが、その・をした日の夜、私はイエスさまが十字架にかけられて、その手のひらに釘を打たれている夢を見たのです。それは単なる夢ではありませんでした。イエスさまの手のひらに打たれていた釘は、私の手のひらに現実の痛みとなって、そのあまりの痛さにハッと目が覚めたのです。私の手のひらには、鋭い痛みが残っていました。私は本当に、その瞬間に救われたのです。

私の罪のためにイエスさまが、十字架にかかり血流して苦しみながら死んで下さった。私を贖うために……。今までどんなに考えても納得いかなかったことが、その瞬間に理解できたのです。理論によってではなく、神さまのおそるべきみわざによって。傲慢な私は見事に主によって打ち砕かれました。なんと、私はその時から 1本のタバコも口にしていません。いとも簡単に主は、ヘビ−スモ−カ−の私からタバコを取りあげられたのです。この時以来、私は聖書の一句一句全てを、心から「本当にそのとおりです」と確信できる者とされました。永い年月、神さまに背いて生きてきた私を神さまは憐れんで下さり、救いのご計画の中で私を贖って下さいました。主は、私の魂の飢え渇き、そして私の叫びの声をお聞きになり、暗闇の中から私を救い出して下さいました。このような、言いつくせない主の愛に、どのような言葉をもって感謝できるでしょうか。

『そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義をおわされず、その霊によって偽りのない人はさいわいである。わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時はひねもす苦しみうめいたのでわたしの骨はふるえ衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は夏のひでりによってかれるようにかれ果てた。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたは、わたしの犯した罪をゆるされた』(詩篇32:1-5)

8.キリストの戦士へ

私がイエス・キリストに出会ってから14年がたちました。その間さまざまな試錬を体験してきましたが、それらの体験については、いつか書いてみるつもりです。それらの試錬をとおして、イエスさまはますます深く私をみそば近くに引き寄せて下さいました。イエスさまは何とあわれみ深く愛に満ちた方なのでしょうか!

人間はとても罪深い存在です。この世は罪にまみれています。罪は情け容赦なく、私たちを不幸のどん底に突き落とします。私たちの愛する家族を奪い、家庭を崩壊させます。それは社会を混乱させ、争いを引き起こそうとする現実の力なのです。まちがったイデオロギー、まやかしの宗教、無責任な世の常識などによって私たちは惑わされているのです。

イエス・キリストだけが、この世を救える唯一の方です。私たちは、この唯一の救い主であられるイエス・キリストを信じて、人間の罪と、世の中の罪に対して戦わなければなりません。その背後であやつっている暗闇の諸々の霊の力と戦わなければなりません。

かつての労組の闘士から、今や私はイエス・キリストの恵みによってキリストの戦士へと変えられました。金大中大統領夫妻は、キリストに堅く立って数多くの苦難と戦い勝利してこられました。私もさまざまな試錬の中にあってもキリストの戦士として勝利していきたいと思います。土井たか子さんも政治家の闘士としてだけでなく、キリストの戦士としてキリストの十字架の愛を高く掲げ、共に勝利の道を歩んで行けたら……と祈っています。

1998年11月21日