イエス様が我々の仲介役

篠 松次郎 (Matsujiro Shino)

■氏は現在富士銀行所沢支店支店長。これは「VIPクラブ新宿」における証しの記録です。

1.信仰への経緯

まず、私がクリスチャンとなった経緯をお話し致します。

私は今から約8年前、1991年5月に札幌支店に転勤になりました。私はもともと東京生まれの東京育ち、祖父の代から東京に居り、一応「江戸っ子」なので、北海道には何の縁もゆかりもなく生活面での不安がありましたが、とにかくここで家族5人の生活が始まりました。

当時長男が幼稚園の年長でしたので、どこの幼稚園に転園させようかと迷っていましたところ、同じ社宅の方がご紹介して下さったのが、キリスト教系の幼稚園である、札幌バプテスト教会付属ひかり幼稚園でした。そのひかり幼稚園では、月に1回親子礼拝というのがありまして、私の妻は毎回出席しておりましたが、私はせっかくの日曜日なので家でのんびりしたいと思い、出席しないでいました。普段の親子礼拝は出なくても済んでいましたが、ある日「父の日」礼拝のお知らせがきました。さすがに妻にという訳にもいかず、とうとう引っぱり出されてしまいました。最初の礼拝では、牧師の説教の時はうつろうつろとしていましたが、会衆讃美の時にはハッと目が覚め、讃美歌を大きな声で歌い、とても爽快な気持ちになったのを覚えています。もともと私は歌が好きでしたので、一週間に1回でも歌が歌えるならという気持ちで礼拝に出席するようになり、気がついたら毎週礼拝に出席していました。

そのうちに、妻が教会学校にも出ようと持ちかけてきましたので、ちょっとのぞいてみました。札幌教会でははじめは地区別の編成でしたので、年齢層も広く話しがなかなか合わないこともありおもしろくなかったですが、そのうちに年齢別の編成に変わり、メンバーの方と家庭環境も似ているため、おもしろくなってきました。

教会学校を通して私のキリスト教研究が始まりました。教会学校では、私はいつもアンチ・クリスチャンの立場で色々な質問をし、自分の納得するまでしつこく聞きました。メンバーの方々からは、篠さんがいると話しが盛り上がると言われました。教会学校の学びを通してキリスト教についての理解は深まりましたが、それは学問的な興味の域を出ず、神様を信じる気持ちにまでにはなれませんでした。その間、教会主催の卓球大会に出場したり、牧師の家でご馳走になったり、教会員の方々とはとても親しくなってきました。

札幌に転勤してから3年後の1994年6月に、妻が授洗致しました。授洗後、妻に大きな変化が起きました。A型の彼女はとても几帳面で何事にもすぐ悩むタイプでしたが、クリスチャンになってからはまさに生まれ変わりました。彼女のクリスチャンになろうとしたきっかけの聖句は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコの福音書12章30節)でした。頑張り屋の彼女は、子育て・家庭に精一杯生きておりましたが、何のために自分が頑張るのか目的がつかめないで疲れていたのでした。その彼女を救ったのが、「あなたの神である主を愛しなさい」、あなたの頑張りは主を愛するためである、という言葉でした。

さて、一方、私の方は仕事上で壁にぶつかっていました。当時、私は得意先課長として業績拡大の役割を担っていましたが、その中で職場内の人間関係、業績推進面で思い悩んでいました。その悩みに答えてくれたのが、教会員で北海道開発局のビジネスマンを講師とした分級でした。その時の学びで、私を救ったのが次の聖句でした。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第二12章9節)

今まで私は完璧主義者で、何でも自分の力でやらなければと、いつも自分の強いところだけしか人にみせませんでした。例えば、業績目標がいかなければ、それはすべて自分の責任だと思っていましたし、自分の力で何とかしようと走り回っていました。ところがこの聖書の言葉を聞いて、「そんなに自分だけを追い込むことはないのだ、自分一人の力では何にも出来ないんだ、もっと自分の弱さをさらけ出してみんなに頼って目標を仕上げればいいんだ」と思うことができるようになり、とても気持ちが楽になりました。

札幌支店での3年目の時、入行同期の副支店長が転勤してきました。その時、私は同期と比べて少し昇格が遅れていましたが、自分に自信があっただけに、どうしてなのだと悩みました。その悩みに答えてくれたのが次の聖句でした。

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペテロの手紙第一4章10節)

「そうだ、自分は人と比較するのではなく、神様から授かった賜物を自分の職務において120%発揮すればそれでいいのだ。」と思うと気が楽になり、同期との違いを意識することなく、仕事に臨む事が出来るようになりました。結果として、その後私はすぐに課長から次長になり、翌年には副支店長として所沢支店に行くことになりました。ここまで、妻の授洗による妻の変化と会社内での悩みの解決に、イエス様の大きな見えない力が働いていることを感じていましたが、まだ、イエス様を信じるきっかけが出来ないでいました。

そのきっかけとなったのが私の父の死でした。私の家は代々仏教徒で、宗派は真言宗豊山派です。また、母方は天理教を信じており、私の母は熱心な天理教徒です。従って、父の葬儀は仏式で行われました。父は半年程入院しておりましたが、私は札幌にいましたのでなかなか病院にはいけませんでした。その間、父の病気のことを知った教会の方々が、いつもお祈りしていてくれました。そして、いよいよ父の死の知らせを受けたとき、真っ先に自宅に駆けつけてくれたのが札幌教会の牧師でした。牧師はその場で静かに哀悼のお祈りをしてくれました。翌日東京に戻り、仏式の葬儀を取り行い、お坊さんにお経をあげて供養していただき、初七日も終え、札幌に戻ってきました。これを契機に自分の家の宗教である仏教とは何であろうかと疑問に思い、今度は仏教の研究をはじめました。

仏教では「因果応報」、例えば、「あなたが人の気にさわることを言ったから、その問題がこじれてしまったのだ」というように、常に自分がその時その場で完璧な人間でなければならない、ということを求められています。また、人間は現世では完全を求めても完全になれないので、死んでから「成仏」つまり仏(完璧な人間)に成るために、何回か法要を行います。要するに、「完璧な人間でなければ成仏しない」というのが根本にあります。

一方、キリスト教では、つぎのように話しています。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(ヤコブの手紙3章2節)。つまり、人間はもともと完全ではなく、ありのままの姿をイエス様は受け入れて下さるのです。

父の死からしばらくたった礼拝で、私は何かに押されたように自然と前に進み出て「イエス様を信じます」と牧師に言っていました。「あれだけクリスチャンには絶対にならないと言っていたのに」と、その時、妻はびっくりしていました。

そして、1995年2月26日、私は生まれ変わりました。

以上が私のクリスチャンになった経緯でした。次に現在の自分とキリスト教の関わりについて、家族と会社とに分けてお話ししたいと思います。

2.家族および会社との関係

まず、家族との関わりについてお話しします。我が家は最愛なる妻と元気な子供たち3人の5人家族で、子供は上から順番に中1の長男、小5の長女、小3の次女です。長男は塾と部活で忙しいのでなかなか教会には行けていませんが、長女・次女は毎週楽しく教会学校に行っています。我が家では毎月、子供たちが交替でお祈り当番をしており、その当番者が食事の前と寝る前にお祈りをします。「お祈りします。神さま今日一日守っていただきありがとうございます。お父さんの帰る足を守って下さい。今日のごはんを感謝していただきます。アーメン。」といった簡単なものですが、家族みんなが心をしずめてお祈りに集中する一瞬です。

このお陰で、家族の会話がよく弾みます。最近の話題は、地域振興券の使い方と中学校での規律の乱れについてです。みんながイエス様を通して守られているという安心感があり、学校での友達との接し方についても、体の悪いお友達の面倒を良くみたり、人に対して思いやりを持って接することが出来るようです。教会に行きますと、例えば教会学校の先生で大学生や社会人の人など、小学校の先生や両親以外の大人と接する機会が持てることも、子供たちの教育上はプラスになっていると思います。

妻との関係についても、クリスチャンになる前ほど喧嘩をしなくなりました。例えば、私は札幌の時に地元の合唱団に入っていましたので、土曜練習の時など「家庭と歌とどっちが大事なの!」とよく妻に怒られていました。それが二人ともクリスチャンになってからは、常に二人の間にはイエス様がいますので、イエス様が我々の喧嘩の仲介役となって問題解決にあたって下さるようになりました。また、現在常盤台教会では二人とも聖歌隊のご奉仕をしていますので、毎週日曜日は午前礼拝、午後練習というように終日一緒におり、家に帰ってからも教会と言う共通の話題で、以前にも増して会話の機会が増えてきました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。(使徒の働き16章31節)

アーメン、感謝です。

さて次の会社との関わりについてお話し致します。私は現在、富士銀行所沢支店で副支店長を仰せ付かっています。所沢支店には1996年4月に着任致しましたが、行内的な悩みは、着任当時11人の役席者の中で私は下から3番目に若いということで、年下の副支店長としてどのように対応したらよいかということでした。これについてのイエス様の答えは簡単でした。

人はわたしたちをキリストに仕える者、神に秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。(コリント人への手紙第一4章1〜2節)

つまり、「あなたはその地位にふさわしい賜物を神様から与えられているのだから、年齢に関係なく、その賜物を良き管理者として支店のために忠実に果たしなさい。」ということでした。この御言葉を毎日通勤時に繰り返し思い起こし、それによって仕事に臨んだ結果、不安はなくなり、返って自信がついてきました。当店はパートさんを含め約60名弱の大所帯ながら、良きスタッフに恵まれ、店内のコミュニケーションも良く、業績面・管理面共に何度かの表彰を受けることができました。

3.主の具体的導きの実際

次に、皆さんからのご要望のありました「貸し渋り、強行な回収、金融再編成の渦の中で、銀行の副支店長という仕事を、聖書の判断とどのように整合させているのか、聞かせて欲しい。」ということについて私なりのお話しさせていただきたいと思います。銀行の副支店長という職務は、支店経営者である支店長をサポートすると同時に、何が本質かをその時その場の状況を踏まえながら判断をすることが要求されます。その時、指針となったのが次の聖句です。

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ人への手紙12章2節)

私が具体的に実践しましたのは、貸出アセット計画の本部との交渉でした。支店の現状を踏まえ、「この世」つまり本部に倣わず、何が本質なのかを徹底的に議論しました。あまりにも激しい私の口調に、まわりで聞いていた部下は驚いていましたが、わたしにとっては、これは「神の声」であり、揺るぎない確信がありました。

また、お客様からの借入申出の交渉においても苦しい経験をしました。あるお取引先から窓口に新規借入申出がありました。受付けたのは融資初任の担当者で会社の決算内容もよく分析せず、前向きに検討する旨の話しをしてしまいました。しばらくしてから、お客様が来店され決算書をみたところ、期間黒字は出ているものの累損があるという内容で当店としては支援の難しい案件でした。お客様は「前向きに検討すると言ったのだから何とかしてほしい」の一点張りで対応に困ってしまいました。その時、神様は次の聖句をご用意されました。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。(ピリピ人への手紙2章3〜4節)

結局、お客様のところに夜遅く訪問し、自分達の主張だけではなく相手の話しも良く聞いて、資金繰りを詰めた上で、返済可能な必要額のみを融資することにしました。いわゆる「貸し渋り」の現状は、決算内容の悪い会社の借入申出に対して前向きな回答が出来ないということの苦しみです。そのためには、自分のことつまり当行の立場だけではなく、他人のことつまりお客様の状況もよく聴いて、誠意を持って対応することが大切であることを、イエス様は聖書の中で教えて下さいました。

次に、金融再編成の渦の中での対応ですが、現在、毎日のように銀行のことが新聞・テレビ・雑誌などで報道されていて、株価を含め毎日一喜一憂せざるを得ない環境にあります。その中で行員一人一人の気持ちが浮き足立っていますが、私は自分を含め、部下行員には次の聖句を引用し、揺るぎない軸を持つようにと話しています。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)

「耐えられないような試練はない」と信じて、今できることを皆の総力を結集して実行すれば道は開けてくるのです。やることをやれば、最後は、神様にお委ねすればよいのです。「人事を尽くして、天命に委ねる」これは、当行の橋本会長が日経新聞のコラムでお載せしていた言葉で、まさにこの言葉が当てはまると思います。貸し渋り・強制回収・金融再編成の諸問題に対しても、その答えは聖書の中にあるのです。

以上で、私がクリスチャンになった経緯と現在の自分とイエス様との関わりについて、ご理解頂けたことと思います。今、振り返りますと、私が札幌支店に転勤になったことも神様のご計画(必然)であると思います。

目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。(コリント人への手紙第一2章9節)

私たちの人生には神様のご計画(必然)があり、私たちはただひたすら神様にお委ねして生きていけばよいのです。

現在の日本は政治・経済共に混迷の中にあります。だからこそ、多くの方、特に日本の社会を担っているビジネスマンに確信に満ちた人生を送ってほしいと思いますし、そのためには、キリスト教との出会いが必要なのです。是非、このVIPの活動を通して、多くの方がキリスト教と出会い、神様のお導きによって救われますことを願っております。