愛と恵みの小包

金森 一雄 (Kazuo Kanamori)

■氏は現在富士銀行グローバル審査部部長。本稿は2000年4月21日のVIP池袋でのメッセージを平易にしたものです。

1.はじめに

本日は、第一回“VIP池袋”の記念すべき集会にお招きくださりありがとうございます。この四月から、首都圏での“インターナショナルVIPクラブ”の集会にこの池袋が加わり、15箇所に拡大されました。森進一の演歌で、東京のネオン街として、「渋谷、新宿、池袋」と歌われていますが、渋谷と新宿では既にVIPクラブの集会が開始されていますので、一日の乗降客が百万人を超える、このビッグタウン池袋でも必ず開催されるようにと、私はずっと祈ってきました。それが今日、こうして実現しました。

私にとっては、この池袋には特別の思い入れがあります。私は小学校の一年(7歳)の時から、ここから東へ約3km位、今はないのですがトロリーバスが当時走っていて、このバスに乗って10分位の、北区滝野川という所で育ちました。小・中学生の頃は、デパートに行くと言えば、池袋の三越か西武で、今は最高に栄えている東武デパートはありませんでした。映画を見るなら、テアトル池袋。私が初めてアイススケートを習ったのも池袋スケートセンター。ちょっと家族で外食といえば、レストラン「タカセ」でカレーライスかハンバーグ、そしてデザートに私の大好きなチョコレートパフェといった具合でした。大いにはめを外して遊んでバス代まで使い果たし、池袋から滝野川の自宅まで40分位の道のりを歩いて帰った記憶もあります。

その頃(昭和30年代)の池袋は、敗戦の名残が強く、歩行者天国で自由に歩き回れると行った状況ではありません。特に、池袋西口は、(上手に申し上げれば)いつ倒れてもおかしくない平屋が不揃いに自由気ままに建ち並び、車の通れるような道は無く、両親からも西口には行くなと言われていて、子どもの私が入って行くような所ではなかったのです。

こんな想い出のある池袋西口ですが、再開発計画がいつの間にか進められ、今では、駅からのアクセスが素晴らしく、立派なビルが立ち並ぶ景観が新しく出来上がっています。目をつぶると、旧い街と新しい街の二枚の画像が不思議と重なり合うのです。そして今晩、この「メトロポリタン・プラザ」において、私が聖書の神様であるイエス・キリストのお話をすることができるとは、全く予想しませんでした。神様の見えざる手、摂理といったものを感じます。

さて、この様な個人的な思い出を大事にしようと思い、今日は最初に、私の生い立ちを少し詳しくお話しさせていただきます。その中で、無条件の愛と赦しと恵みを示してくださる神様が、私が生まれる前からずっと導き続けてくださったことをご理解いただこうと思います。それから、私が聖書の神様である、イエス・キリストとどのように出会ったのか、そして、その後の一つの職場でのエピソードをご紹介させていただきます。今日はこうした手順で、私の半世紀に亘る人生において神様から私宛送られた「愛と恵みの小包」を開かせていただこうと思います。

2.私の誕生

私の父は、富山県高岡の出身。大正5年生まれの84歳、今なお健在です。敬虔な浄土真宗の信徒で、子どもの頃からずっと、「南無阿弥陀仏」を唱えてからでないと朝御飯を食べさせてもらえず学校にも行けないという厳しい教育を受けて来ました。父は私にお経を強制させることはしませんでしたが、物心ついたときから父の唱えるお経を耳にして育ちましたので、私もある程度お経を諳んじることが出来るほどです。

母は、岡山県笠岡の出身で、大正11年生まれ。昨年、喜寿(77歳)を迎えました。周囲からゴッドマザーと呼ばれ、金森ファミリーの実質的なチーフ・パイロット役を務めています。いつも物事を明るく前向きに捉え、決してあきらめないでチャレンジする性格の持ち主で、顔もかたちも私にそっくりです。

父と母は、戦前の中国の保定という地で、三井物産の社員として勤務しており、いわゆる職場結婚です。職場結婚とは言うものの、当時は、そんなに生やさしいものではなかったようです。父が召集令状をもらったというので、その数日後に周囲の勧めもあって仮祝言を挙げました。1944年(昭和19年)のことです。結婚即未亡人のおそれがあるものでしたが、こうした例は当時美徳のように言われて多く見られたようです。

そして翌年の1945年8月7日(終戦の一週間前ですが)私の姉が誕生しました。すぐ終戦で、母と姉は、着の身着のまま何とか日本にたどり着きました。日本に戻る船の中では、母乳が止まり乳飲み子の姉が栄養失調になったので海に投棄することを勧められたりしたそうです。運命の歯車がちょっとずれるだけで、姉は中国残留孤児の一人になっていたかも知れません。現在、その姉は、二人の子どもに恵まれ、既に長男夫婦の初孫まで与えられています。

信心深い父の戦場での命拾いの話は、いつ聞いても時間の経つのを忘れます。ある日のこと、軍事行進の先頭付近にいた父が、上長からちょっと後方に来るように命じられて後ろに下がりました。その直後、父のいた先頭の集団が地雷を踏んで吹き飛ばされてしまったそうです。また、銃撃戦の時に、相手の打った弾が自分の持っていた鉄砲の銃身と支えの木(銃底)の間で止まったそうです。ちょっとずれて、銃身の金属部分に弾があたっていればクッションして父の身体に当たっていたし、支えの木の方にずれていれば木の銃底を貫通してやはり父の身体に命中していたようです。戦場に行き生還できた人は、皆このような経験があるようです。私の父も、まさに神のご恩寵により「生死の狭間」を生き延びさせていただいたのだと思います。

戦争が終わり、日本に帰れると言われて乗せられた列車で、父はそのままシベリアに連れ去られました。夜、列車が停車したときに脱走しようとしてロシア兵の標的にされて死んでいった沢山の仲間がいたそうです。そしてそのまま3年間、飢えとツンドラと蚤に囲まれた捕虜生活が続きました。残念ながらその間にも、本当に多くの戦友を天国に送り届けました。

母はと言えば、命辛々帰国し、故郷の岡山県笠岡で夫のいつ帰るとも分からない日を待ち詫びる生活をしていました。私の瞼の奥に、希望を見失いがちになりながらも光明を信じるひたむきな母の姿を見ることが出来ます。

そして終戦後の三年目、父はシベリア抑留者が下船する舞鶴港に帰還しました。そこで、母からの手紙の束を受け取り、初めて長女が誕生していたことを知るのです。すぐに妻と未だ見ぬ娘の待つ母の郷里笠岡に向かいました。そして、翌年の1949年8月8日、私が産声をあげることになるのです。

このように、私たち人間一人ひとりの誕生には、決して偶然でないものが背後に働いています。天と地と海とそこにあるすべてのものを作られた創造主である神様の、私たちの理解をはるかに超えた一つひとつのご計画があるのです。多くの場合、そのことに私たちは気が付かないのですが、聖書の詩篇139篇15、16節には、私たち人間は母の胎内にいるときから神様に覚えられているという、次のようなことばがあります。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139篇15、16節)。

3.父母の愛に包まれた幼少時代

さて、父母が日本で再会できたとは言え、あったものは命だけで、無いもの尽くしで大変でした。それに追い打ちをかけるような事件が起こります。

日本に戻った父は東京に出て、召集令状を受け取るまで勤めていた三井物産を訪問し退職金をもらいました。ところが、帰りの道すがら袋ごとスリに取られてしまいました。当時は便利な銀行振込などはなかったのです。

しかし一方では、こんなこともありました。父は、敗戦と同時に捕虜となりましたので何から何まで取り上げられていました。しかし、飯盒だけは持っていることを許されました。父は、その飯盒の裏蓋に、中国で働いていたときの郵便貯金の口座番号を刻んでおきました。そして帰国後、その間の事情を説明して、飯盒の裏ブタに残された番号だけを頼りに、郵便貯金残高を引き出すことが出来たのです。

つい先日、コンピュータ2000年問題で、銀行の口座番号や残高を控えた方もおられたと思いますが、その大切さがお分かりいただけると思います。実は、父は今でも「メモ魔」です。銀行や郵便局の口座番号はもとよりゴルフの記録も、日時、場所とともに同伴者のスコアまで記録しています。父と行った私のゴルフ筆おろしの時のスコアー、ハーフ68も父の古い手帳から発見できました。

それから父は、日本での生活の再スタートを期して就職活動を開始します。幸い、父の兄(故、金森正三氏)が、背が低かったことから召集を免れており、先に富山から上京して日本道路公団に勤務していました。この正三氏の紹介で、父は設立したばかりの建設骨材(砂利や砂)メーカーに就職できました。

それこそ乳飲み子を抱えた就職活動でしたから、「まず働くところが与えられれば良い。屋根の下で休息が取れれば良い。それから、家族が一緒に精一杯毎日を生きて行くことを考えよう。」といった状況だったと思います。

戦後の復興期でもありましたので、父の勤務した会社はどんどん業容が拡大しました。幸いなことに、それに合わせて私たち家族の生活水準も急速に向上していきました。例えば、私が生まれた時の板橋区長後町での四畳半一間暮らしから、私の幼稚園時代には文京区大曲の社宅に転居しました。小学校にあがる前には先ほどお話しした北区滝野川に庭付き一戸建ての新居が与えられました。

私の幼少時代の記憶をたどりますと、母の料理で卵のスクランブルにホウレン草や人参を入れていたことを思い出します。母は、「こうすれば、卵一つで家族4人が食べられて栄養のバランスもとれる。」と言っていました。未だに母の卵料理は具沢山です。こんな風に生活の随所で経済的な工夫が見られます。

父は一所懸命仕事をして安定的な収入を得、母は家計の節約を図るといった協働体制で、自分たちが戦後、東京で裸一貫で再スタートした苦労を子どもたちには感じさせないように最大限の配慮をしていたのだと思います。「親の心、子知らず」とは良く言ったものです。「お父さん、お母さん、有り難う。」と頭の下がる思いでいっぱいです。

4.団塊の世代

戦後間もなくの滝野川は、焼け残った借家や長屋が多く建ち並んでいて、その中で新築の我が家は焼夷弾が落ちて空き地になっていた所に建てられたので目立ちました。新居への転居と私の小学校入学が一緒でした。小学校に入ると、一学年5クラスで、一クラスには50人以上という状態でした。いわゆる団塊の世代の私は、この団塊の世代の申し子として、いつも何かにつけて目立とうと考え、如何にライバルを陥れることが出来るかと考えて行動していました。また、餓鬼大将とフェミニストを兼ね備えたかっこマンになろうして、どんな寒さの中でも長ズボンをはかず半ズボン姿で、さらには時々ネクタイをするなどいつも人目に付くお洒落な姿で登校して得意満面でした。

中学に進学する時期になって、周囲の成績の良い子が私立に受験するということを聞きました。負けず嫌いの私は、それなら自分もチャレンジすると言って、近くの開成中学に気軽な気分で受験しましたが驚くほどすんなりと行くことになりました。中学受験当日の話です。付き添いの父母は、当日の出題内容の難しさと周囲の父兄や受験生の気色ばむ顔付きを見てこれはとても駄目だと思ったそうです。ところが、本人の私は、試験会場から出てくるなり「ほとんど出来た。合格だ。」と笑顔を振りまき、周囲を全く憚らない有様でした。

中学に入ると、学年担当でバレーボール部の顧問をしていたN先生に入部の誘いを受けて意気揚々と入部しました。大学への進学に際しては、中学・高校と6年間お世話になったN先生が心配してくださり、先生の出身校である体育大学への推薦入学を勧められました。しかし、恩知らずの私は、自分の成績を棚に上げて、この勧めをクールにお断りして極めてドライな判断をして自分のチャレンジする道を選びました。

東大は無理だと思い、「東大は偏屈者が多いから嫌だ。」という言い訳をして、慶應なら持ち前の運の強さで何とかなるかもしれないと、慶応の文学部を除いた文科系の全学部にチャレンジしました。こんな具合でしたから、大学受験といっても、実は慶応しか受験していないのです。結果は、数学が一問しか解けなかった商学部にだけ、しかも補欠で引っかかって入学できました。

大学卒業を間近に迎えた当時の就職戦線は、青田刈りもいいところ。銀行はいつも合法性ぎりぎりのところで立ち振る舞うことが多いようで、読売巨人軍に入団しようとした江川事件のような就職協定ギリギリのことをやっていました。

私の就職を決めるときには、大学3年の1月に全産業に先立ち銀行が内定を出しました。私の眼には、銀行は堅苦しく見えて自分に合っているとは思えなかったのですが、そんなに早く就職先が決まるのならそれだけでハッピーと考え、当時No.1バンクであり東京都の金庫番として有名だった富士銀行なら周囲からの聞こえも良いかな、といった程度の考えで行き先を決めてしまいました。こんな風ですから、多くの友人は色々な銀行を訪問していましたが、私は最初に誘われた富士銀行にしか行っていないのです。

私たちの人生には三つの大きな門があると言われます。それは、学校、就職、結婚の三つです。いずれも、入れば良いのではなく、入る事より入った後の方が大切な門です。

こうして過去を振り返ってみますと、私の学校、就職という進路決定において、神様の導きの手があることが分かります。今日は時間がありませんので、三つ目の門である結婚についての話は割愛させていただきますが、銀行の上司から紹介された最愛の妻涼子との出会いにおいても同じように神様の導きがあったと思います。紹介されて直ぐにお互いが、「例え人生の方向転換をしたとしても、それを共に受け入れ、共に生きて行ける。」と確信するに至りました。

私の父母は、一貫して私の進路についてほとんど口を差し挟んだ事はありません。神様の導きと、私自身の判断に委ねていたのだと思います。

日頃は、神様なしでもうまく機能しているかのように見えるこの世界ですが、私たちは自分の過去を振り返ることにより、実は神様がご支配され、導いてくださっている事が理解できると思います。進むべき道については、入学試験で出来そうもない問題が解けてしまったり、人生の岐路に立ち、解決できそうもない困難な問題に直面しても自然にその問題が解消してしまったりしています。皆さんも、お帰りになったら是非とも自分史を作成してみてください。お勧めします。

5.聖書との出会い

社会人としての私は、子どもの時から座右の銘としていた「よく学び、よく遊べ」を旨として、昼夜を問わず、仕事と遊びの区別もなく、自己実現を最優先課題として大胆不敵な毎日を過ごしていました。

富士銀行従業員組合の専従職員として働いたこともありますが、当時本当に組合員の方々の痛さや辛さが分かっていたのか、同じ気持ちになれてそれぞれの方の話をしっかりと受け止められていたのかと、赤面する思いです。人様のことを心底理解しようと努め、相手の立場を思いやるというのは、今もって私にとっての大きな課題の一つです。

その後、国際企画部という職場に配属されました。「自分には合わない職場だ」などと言って他のセクションへの勤務を望んでいましたが、この時ばかりは自分のわがままが通りませんでした。

英語ができない私は、自分の不自由さを少しでも補おうと持ち前の悪知恵を働かせ始めます。私は、「日本語を話せる外国人」を東京で採用する新しいプロジェクトとして、ビザ取得のサポートはもとより外国人用の人事制度や住宅提供制度を作りました。そして、マスコミでも国際化時代の新しい試みとして採り上げられました。

一時が万事こんな具合に、いつも「会社(仕事)を通じた自己実現」に熱中し、団塊の世代にありがちな、典型的な日本人ビジネスマンをしていました。なんだか、臭くて嫌らしいですよね。このように話していても、自分でも嫌になります。

こんな風に私が「絶好調!」などと高ぶっていた時に、神様は具体的な救いの手を伸ばしてくださいました。入社したばかりのオーストラリア人のスタッフC君にいきなり「金森さん、神様っていると思いますか。」と質問されました。私はびっくりしました。そのようなことを自分の人生において考えたことがなかったからです。

「俺が君のボスだ」と言って憚らない私に対し、彼は続けて「天皇は現人神ですか」と質問して来ました。苦しくなった私は、「俺が君の神さまだよ」とうそぶく有様でした。それでも彼は、私に日本語の聖書をプレゼントして来たのです。これが私の聖書との初めての出会いです。

霊的に余りに見劣りする職場の上司に、聖書の神様について語りかけ、更には聖書を渡すということは、新入社員の彼にとって大変な勇気が必要だったと思います。でも、そのお陰で私は聖書の存在を知り、その後、10年近くを経てイエス・キリストと出会うことができたのです。このような自分自身の体験から、現在の私は、何よりも職場を通じてイエス様のことをお伝えする働きに重きを置いています。酒乱に近い上司やゴルフ漬けの仲間に、そして仕事で接するお客様に、彼らの中に入って行って聖書やトラクトを渡しているのです。

6.イエス・キリストとの出会い

その後、バブル経済が崩壊し大きな事故が銀行内で発生しました。私は、その原因を調査して二度と同じような事故が発生しない対策を講じる仕事に就きました。頭を振り絞って徹底的な対策を講じたのですが、残念ながらその後も違った方法で事故が発生する有様でした。一度、バブルで緩んだ人間の行状を簡単には変えることはできません。

いくら自分が知恵を働かせたり、現代のコンピュータを駆使して対策を講じても駄目。正直申しあげてお手上げといった状況でした。それでも、職業人として、プロのバンカーとしては、ただ、どうしようもないというのでは許されません。もう一度歯を食いしばって自分の力で何とかしようと努めました。堂々巡りとは、まさにこういう時のことを指すのでしょう。

その時、ふと「人間の考えた仕組みや制度・システムにはどうしても限界がある。倫理とか宗教的な何かが企業の中に必要なのではないか。」と思われ、先にもらっていた聖書に自然と手が延び、改めて真剣に読み始めました。それまでは読んでもよく分からなかった聖書なのですが、砂の中に水を流すがごとく、聖書の一言一言が私の頭の中に入り込んで来たのです。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14・6)

という聖書の箇所に出会ったときは胸の鼓動、高まりを感じてびっくりしました。と言うのも、それまで私は自分が学び得てきたこと、自分が生きていることが真理だと思っていたからです。

「イエス・キリストが真理なの?いのちって何だ?それなら、今自分が探している企業内で必要とされる規範や真理は、どうすれば構築できるのだろう。」と思い、更に切実に聖書を読み進めました。そして、何かを探して教会に通い始めました。教会に行き始めたある日曜日、私は礼拝中に高熱を発して倒れました。そしてそのまま、三日三晩、ベッドの中。疲れの絶頂期にあったようで、身体全身に湿疹ができており命を失いかねない恐ろしいヘルペスと診断されました。後にも先にも、元気印の私がこんな風に寝込んだのはこの時だけなのです。

ベッドのなかで、聖書を読んでいたときのことです。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです(マルコ第2章17節)


の聖書箇所に、私の心は釘付けになりました。

そして、「私は、学歴や職歴などこの世の肩書は偉そうになった気がするけれど、神の目から見れば生まれてこの方全然成長していない。心の病人である自分は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じなければ救われない。」とはっきり分かり、大喜びしたのです。

こうして私は、真理はイエス・キリストにあることを発見し、「今後、自分が新しく歩むべき道はすべて聖書に示されている。」と確信することが出来ました。ふと、私の目からいつの間にか一筋の涙が流れ出ているのを感じました。

7.仕事中のエピソード

こうして私は、45歳、富士銀行恵比寿支店長の時にようやく洗礼を授かることができました。遅咲きですが満開を誇り、美しく散って行こうと願っています。

それで次に、日々、私が神様との対話〜すなわち、聖書を読んでお祈りをして聖霊に満たされて歩むというサイクル〜をどのようにして行っているかについて、お話しさせていただこうと思います。


わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ(イザヤ書第61章10節)

という聖書箇所があります。

イエス信仰を持つということは、このイザヤ書で言っているように「救いの衣」「正義の外套」を身に付けることです。ですから今の私は、この神様からいただいた正義の上着を着せていただいていることになります。しかし私は、職場でちょくちょく暑(熱?)くなって、上着をぬいで仕事をします。そうすると危なっかしい事が起こるのです。

銀行ではいろいろな事務処理に誤りがないか、日々コンピュータ還元資料を照合・点検しています。支店長が最後の回覧者で、それまでには副支店長以下何人もの役付者がチェックしています。超多忙のある日、確認すべきポイントがノーチェックのまま回覧されてきました。忙しいという字は「心を亡くす」と書きますが、まさにその通り、私は支店中響き渡る声で「何をしているのだ!」と、大声で怒鳴りました。

まあ、しらけたこと。私はそっと「私の不徳の致すところ、イエス様お赦しください。」と祈りました。日頃、朝礼で聖書の話をしたり、誕生日には聖句を書いたカードを渡していた支店長が怒鳴ったのですから。

すると、年長の課長から「支店長、クリスチャンでもあんな風に怒鳴るのですねえ」と、言われました。自らの至らなさに気が付いた私は、「クリスチャンだって怒鳴るんだ。」と開き直る気にもなれず、ただ顔を赤らめて照れ笑いをしていました。

あの有名なパウロの告白を思い出します。

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです(ローマ人への手紙第7章21節)

私の中には「何をしているのだ!」と怒鳴るような醜さが、時々、わき上がって来ます。私が大声で怒鳴ったこの時は、神様の外套(上着)を脱いでいたときなのです。でも、落ち着いてもう一度、外套(上着)を身に着けますと、こうした事件の後でも、「いけない。いけない。」と反省するのです。

新約聖書に私の確信となっている約束の言葉があります。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです(ピリピ人への手紙第1章6節)

という箇所です。

私は、神様の上着を着て、キリストの望んでおられるような姿に変えていただきたいと願ってはいますが、その途中にあるのです。ですから、私が上着を着直すとすぐにイエス様が働いてくださり、穏和なキリストの香りを放つ者に変えてくださったのだと思います。

8.21世紀に向けて

さて、バブル経済崩壊後の生き残りをかけて、私の勤務する富士銀行では、メガバンクを目指して第一勧業銀行と日本興業銀行の三行で「みずほフィナンシャルグループ」という統合会社を設立することになりました。これは、確かに現代における経済界・金融界における金融不安を解消する一つの戦略として評価されています。

これが21世紀に向かって歩んで行く日本の金融機関としての一つの知恵であり、グローバル・スタンダード(いわゆるGS)に合致するものだと思います。しかし、果たしてこの対応で十分なのかと言うと、決して十分ではなく、これからまだまだやっていかなければならないことが沢山あるというのが実状です。では、どうすれば良いのでしょうか。

これから21世紀に向かって生き残る企業は、ゴッド・スタンダード(真のGS)に合致しているか、ゴッド・サティスファクション(これもGS)を得られるかどうか、すなわち「神様に満足していただけるか」と、常にこういった視点で私たちの進むべき道をビジョンとして持ちながら歩む必要があります。 すなわち、「常に神様の目線で物事を考えて歩む者」になれるか否かが、これからの生き残りの、また真の成功の分かれ目なのです。

聖書の中には、随所で知恵というものがいかなる時にも大変重要であるとふれられています。20世紀末のバブル崩壊は「創造的破壊」のときと冷静に捉えることが必要です。そして、聖書の知恵に従って、21世紀に向かって「チェンジ、チョイス、チャレンジ」の3Cを選択していくことが大切なのです。

知恵に関する新約聖書の言葉をご紹介させていただきます。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです(コロサイ人への手紙第2章3節)

というものです。

正しいと言う字は、「一つに止まる」と書きます。この意味がお分かりいただけますか。私たち人間の力では正しさに止まる事は出来ません。私がイエス様と出会う以前のように自分が正しいと思って動くと、出来ない事にチャレンジするのですから疲れ果て、やがていつかは大きな過ちに陥ってしまいます。

約2000年もの前の出来事ですが、イエス・キリストは私たちの罪のため、その「贖いの業」を完成するために、十字架にかかってくださり血潮を流されたのです。そのキリストこそが知恵と知識そのものであり、キリストに止まり続けることが、罪から解放された私たちの21世紀に向けての「正」しい選択なのです。

9.終わりに

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなくて、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです(コリント人への手紙Uの4章5節)

という聖書箇所があります。

今日の私のメッセージが、私自身を語るのではなく私を通じて働いておられるイエス・キリストのことを語らせていただけるように祈りつつここまで話を進めて参りました。私の信じるイエス様は、私がこの世に生を受けてからこの方、ずっと私のそばにいて、私を導き続けてくださいました。勿論、皆さんのそばにも、共におられるのです。是非とも、確かめてください。

まだ私が、イエス様に出会っていない10年近く前に、長女雅葉が軽い喘息だと診断されたことなどから、「こんな東京の空は厭だ」と、風薫る緑多き埼玉県の白岡ニュータウンに移り住みました。荒川を越え、星の瞬きが素晴らしく、空気の美味しいところです。また、梨の白い花の咲く岡「白岡」ですから、収穫の秋には梨や巨峰がとても美味しいところです。しかもこの地で、イエス様にお目にかかったのです。皆さんも是非、引越して来てください。いっしょに田舎暮らしをしてみませんか、本当に良い所ですよ。

多くの方の祈りに支えられて、私たち夫妻もキリスト者の群れに加えさせていただきました。これからは、私たち夫妻が心を込めて、まだイエス様に出会っておられない方のために祈りの人になりたいと思っています。

最後に、私のとても好きな聖書箇所であるイザヤ書第46章3、4節をお読みして、私のあかしを終えさせていただきます。


わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう(イザヤ書第46章3、4節)

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