セントラルパークの光
中村勉
(本稿は、平成18年7月4日に東京のパレスホテルで開催されたインターナショナルVIP大手町会における講演記録を基にこれに加筆し、修正したものです。)
司会:みなさん、本日はお忙しい中、多数お集まりいただきましてありがとうございました。本日の講師はあさひ・狛法律事務所で弁護士をしていらっしゃる中村勉さんです。まずは、会長より中村様のご紹介をよろしくお願い致します。
会長:…みなさん、こんばんは。実は中村さんと面識がそんなにあるわけではないんです(笑)。今年1月のいちばん最初の、今年第1回目の例会で自己紹介があって、まわりから話を聞いてみたいというリクエストが多かったものですから、ちょっと聞いただけで勝手に想像して、非常に優しい感じの方に思えたので勇気を持って、お声がけしたところ快く引き受けていただきました。それでほんとに丁寧なメールをいただきまして、中村さんのお人柄というものに触れたような感じがしております。それで、メールに書いてあるとおりになりますけれども、中村さんのいままでの紹介をさせていただきますと、1994年検事に任官をされまして、大阪あるいは名古屋の地検、2002年東京地検の特捜部を最後に退官されたということで、現在は、あさひ・狛法律事務所の弁護士をされているということでございます。担当は、最近世に言う…どう言ったらいいのか分かりませんが、いろいろ問題になっておりますホワイトカラー犯罪、あるいはコンプライアンスに関する問題、あるいはコーポレート一般についての法律問題。特捜におられるとき、あるいはその直後に、いろいろイギリスあるいはアメリカのほうにフルブライト留学されたということで、非常に国際的なそういう経験もおありの方でございます。ぜひ今日は、タイトルとして、「セントラルパークの光。元特捜検事はなぜ信仰を持つに至ったか」ということでお話をしていただきたいと思います。
司会:どうもありがとうございました。それでは時間がまいりましたので、中村様、お願い致します。
はじめに
中村:ただいまご紹介いただきました中村でございます。私のようなものが皆様の前で何かを語るというには、まだまだ人生の深みが足りないのではないかなという戸惑いの気持ちが確かにありますが、私がアメリカで経験した、何と申しましょうか…魂の揺さぶりというか、そういうものをぜひ皆さんにご紹介したいと思いまして、お引き受けいたしました。内村鑑三の自伝的な作品である「余は如何にして基督信徒となりし乎」という本がございます。その冒頭で内村鑑三は、「私がここで述べるのはキリスト教信者となった理由ではない。そのプロセスである。どうやってキリスト教者になったのかというそのプロセスが大切なのであって、そのプロセスを書きたい。」ということを述べられてます。私もそう思います。今日のタイトルは、「特捜検事がどうして、なぜ、信仰を持つに至ったか」というサブタイトルではありますけれども、私はそのプロセスを皆さんにお話ししたいと思います。もちろん限られた時間ですので、またうまく説明できるかどうか分かりませんが、どうぞお聞きください。
プリンシプルとしての「立身出世主義」
ちょうど2年前です。今日は7月4日ですが、7月9日に私は家族…妻と当時8歳になる長男の3人で成田を発って、アメリカに向かいました。これはコロンビア大学のロースクールに留学するためでして、そこで法学修士というかLLMという学位を取って、将来国際的な弁護士として成功しようという気持ちで旅立ちました。ちょうど仕事も、株主総会もおおむね終わり、一段落して残務整理をして大急ぎで荷づくりをして旅立ちました。アメリカに行くときには、わたしはまさか自分がクリスチャンになってこの日本に戻ってくるとは夢にも思いませんでした。
もともとわたしは北海道の南端にある函館というところで生まれ育ちまして、高校が函館西高という高校で、学校のまわりに教会がたくさんあって、観光地になってます。そういった環境の中で、教会の鐘の音を聞きながら勉強した人間でした。それで、キリスト教というものに対して非常に親しみを持っていましたし、どういうわけか検察官になった後も、特捜事件の出張も含めて、地方に行くと教会を探してのぞいたりもしていたのです。ただ、わたしは子どものころ、神様はいるんだろうか?と気にしつつも、結局、神様はいないという結論で子供心に整理していました。「神様がいるなら、こんな酷い交通事故が起こるはずがない。」、「神様がいるなら戦争なんて起こるはずがない。」、「神様がいるなら子供が誘拐されて殺されるような事件が起こるはずがない。」と思っていたんですね。ある日、夜に家の窓から外に向かって、「神様いるのですか?いるのなら姿を現してください。いるのなら、わたしが空を飛べるようにしてください。」そういうようなことを言ってみて、でも何も…姿はもちろん現しませんし、わたしは飛ぶこともできませんでした。空にはたくさんの星がキラキラしているだけで、どこを見渡しても神様らしきものを見つけることはできませんでした。「なんだ、神様はいないのか。それだったら自分で自分の足で立って、自分で飛ぶしかない。」そう思いました。
私が函館で生まれ育って、小中学校時代を過ごし、その後函館西高校という学校を18歳で卒業しました。高校を卒業して、それで私は函館を離れまして、札幌で浪人生活を送って、それからこの大都会東京に出てきたのです。田舎者でしたね、しかし、しっかり歯を食いしばって中央大学法学部で法律を勉強して、司法試験、これは何度も失敗しましたけれども挑戦しつづけて最後に合格して法律家になったんです。ここに至るまでの間、わたしの生き方というか、生きざまを貫いていた…何と申しましょうか、プリンシプルというものは、「立身出世主義」だったんですね。とにかくわたしは、普通の地方の公務員、小学校教師の家庭に生まれまして、別に資産があるわけでもない、しかも東京からはるか遠い、函館という北の地で生まれ育って、その中でただ希望だけは大きくて、津軽海峡の海を見つめながら「世界に羽ばたきたい。」という夢を追いかけていたんです。それにはどうしたらいいか。もう立身出世というか、勉強して自分の身を立てるしかないと思ったんですね。それで高校に入学しましてから、一生懸命勉強しました。勉強して勉強して、勉強に明け暮れて...、ときどき恋もして(笑)、でも失恋した後はまた机に戻り、それで気がついたら最難関といわれる司法試験にまで合格していたんですね。私の名前、勉強の「勉」と書いて「つとむ」って言うんですが、父がつけた名前なんです。名は体を現すですか、ほんとに名前のとおりになっちゃった(笑)。
どうして法律家になったかというと、わたしは、わたしのような未熟で気の弱い人間にとって、社会に出て海千山千の人たちの中で交わって生きていくことに非常に不安があったんですね。それで、そうであれば武装しようと。法律で武装しよう。権力を手に入れよう。ついでに富も手に入れられたらいいなと、最初はそういう、不純な?気持ちで法律家を目指したんです。それが正直なところです。司法試験というのは、いまはずいぶん変わりましたけれども、佐々木先生ご存じのとおり、当時は非常に難しい試験で、年間500人しか合格しない過酷な試験で、だいたい合格者の平均年齢も30歳前後という時代でした。中央大学は合格者は多いほうだったんですけれども、わたしは何回も試験に失敗しました。失敗するたびに、また来年があるさ、ということで自分を信じて根気強く頑張り続け、そして勝ち取った合格でした。
こうして司法試験に合格して、それで、函館から出てきてこうやって司法試験に合格し、司法修習生の研修を受けた後で、さて裁判官、検察官、弁護士の中で何になろうかと考えたときに、わたしは検察官になったんですね。弁護士ではなかったんです。それは、もちろんわたしが高校時代に起きたロッキード事件であるとか、そういう世間の注目を集めた大きな疑獄事件での東京地検特捜部の働きというものに対する憧れもありましたし、あるいはかっこいいな、あるいは権力すごいな。元総理大臣まで逮捕してしまう、これはすごいという気持ちがありました。もうひとつは弱いものを助け、強きをくじきたい、という純粋な正義感もありました。ただ、検察官になってからもずっとわたしの頭にあったのは、やっぱり生き方のプリンシプルは「立身出世主義」というものだったのです。いい事件をやって評価されて、検察の中で良いポジションを取ろう、きっと最高峰の東京地検特捜部検事になろうということでやってきました。特捜検事は検察庁の中でもエリート中のエリートで、なかなかなれるものではないんです。2000人近くいる全国の検事の中から選りすぐりの30人くらいの検事が特捜検事になるんです。でも、わたしは幸運にも、1999年でしたか、ちょうど長銀・日債銀事件のときでしたが、初めて特捜部で働く機会を得たのです。
イギリス留学、そして、検事から弁護士へ
そういうわたしもイギリスに…たまたま機会がありまして、これは人事院の短期在外研究員制度というのがありまして、各省庁の若い官僚がアメリカやヨーロッパなどに派遣され、研究をするという制度なのですが、わたしは選抜試験で選ばれて、法務省の代表ということで、イギリスのロンドンに半年間派遣されました。イギリスの刑事司法制度を研究してきなさい、という命令でした。ちょうど今、話題になってる裁判員制度、この制度をつくるための基礎的な研究資料の収集という意味合いもありました。とにかく、わたしは、少年のころ、海を見ながらあこがれていた海外に渡ることができたことでうれしくて仕方ありませんでした。このイギリスでの体験がわたしにとって、ひとつの転機になったんですね。今日この場では詳しくはお話しする時間がありませんが、イギリス人との交わりの中で、あるいは、足を伸ばしたヨーロッパ旅行での体験の中で、それまで自分が抱いていた価値観というものが変わりました。わたしがもっていた価値観、それは例えば、検察庁という組織があります…当時はもう検察庁という組織の中にいたら、検事総長というのは最大権力者であって、普段言葉も交わすこともできないぐらい偉大な存在だったんですけれども、そういった価値観が壊れ、突き抜けちゃったんです。検事総長といえどもこの世界の大きなmovementを理解していないだろうという具合にです。ベルギーのブリュッセルに旅行に行ったときでした、わたしたち家族は、当時、オーストリアで誕生した極右の政治勢力に反対する大規模なデモ行進に巻き込まれ、乗っていたタクシーが立ち往生となり、あやうくロンドンに帰る列車に乗り遅れるところでした。何千、何万というデモ行進だったのです。旗がなびき、大蛇のように延々とデモの隊列は続くんですね。こうした激動のヨーロッパ、イギリスという世界を見たときに、わたしの価値観が一皮向けたんです。それで、そのころからわたしの考えが少しずつ変わってきて、もっと視野を広げるべきじゃないかと。検察庁という小さな役所組織の中で一生を終わっていいのだろうかと思い始めました。結局、イギリスから戻ってきた2年後に…その間いろいろ大きな事件はやりました。再度、東京地検特捜部にも在籍しましたので大きな仕事をやりましたけれども、結局このまま役所にいて偉くなっていくよりは、外を見たいという気持ちが強くなって、2002年に退官し、弁護士になりました。
ただ、わたしの中にあったそのプリンシプルは、根本においてあまり変わってないんですね。それが国際意識を持ったプリンシプルになっただけであって、基本はやはり立身出世というか、成功したかったんですね。わたしは検察官を辞めたときに考えたのは、普通は、ましてや特捜部を経験した検察官というのは、それを辞めれば普通の個人事務所に就職し、あるいは自分で独立し、あるいはテレビのワイドショーのコメンテーターになり(笑)、中にはそういう方が多いんですが、わたしはそれは嫌だったんですね。とにかく過去の栄光にすがるというか、そういうのが嫌だったので全然違う仕事をしようということで、国際弁護士を目指しました。
国際弁護士というのは当時…いまではもう非常に注目されていますけれども、まだ当時はようやく事務所が大きくなり始めたころで、わたしは偶々いま勤めている事務所の面接を、これはもうほんとに飛び込みで受けてお話をして採用していただきました。そこでわたしが考えたのは、この国際弁護士の世界で成功しようということでした。国際弁護士というと、わたしは検事時代に聞いていた話は、何かパーティーがあると自宅に寿司職人を呼んで自宅で握らせてゲストに振舞う(笑)。そういう話があったんですね。銀座のクラブに2号さん3号さんがいたり(笑)、それがうらやましいと思ったわけじゃないですけれど(笑)。特捜検事といったってただの公務員ですから、ほんとに検事部屋で飲むか、ガード下の焼き鳥屋に行くかぐらいでしたので、そういう富を手に入れて、しかも名声高き国際ローヤーとして成功したいというのが正直ありました。わたしはできるんじゃないかと思ったんですね。というのは、当時は、ほんとうにまさにアメリカ、イギリスの法律事務所が世界を席捲し、ドイツなどは主たる大きな事務所はすべて英米系の事務所に買収され、占領され、日本はまだ自分たちが頑張って規制があったので、参入は限定的でしたけれど、もう規制がなくなるのも時間の問題であるというときに、非常に大きな混乱状態に司法界は落ちるだろうと思いまして、そこはわたし、チャンスだと思ったんです。その混乱の中で自分の経験なりあるいは国際性なりを売り込めば、国際的な刑事法を扱うローヤーというのは日本にいないですから、これはいけるなと思いまして、それでいまの勤めている事務所に入り、そして、さらに国際的な見識を高めようと思って本格的に留学することを決意しました。
43歳で決意したアメリカ留学
わたしが留学を決意したのは43歳のときです。なかなか留学準備が大変でした。何と言っても、まず英語のTOEFLという試験で600点、当時はもう点数制度が変わって250点というのが一応の目安になっていたのですが、これをクリアしなければなりませんでした。40歳を過ぎてからの英語の本格的勉強というのは大変なものでして、ロンドンに在外研究に行っているとは言え、わたしの英語力はまだまだでした。わたしは、苦労して一年くらいかけてこの目標をようやくクリアし、いよいよ本格的な出願準備にとりかかったのです。当時、わたしは留学するにあたって、フルブライト留学制度の申し込みをしました。フルブライトというのは、皆さんご存じだと思いますけれども、非常に名誉ある留学制度で、これに選ばれて留学することができれば、様々な体験をすることができるのです。政府機関を訪問するにも、学会や国際会議に出席するにもフルブライターというだけで、特別待遇だったからです。ただ問題なのは、募集の資格が35歳を目安にするということでした。わたしもう44歳です。申し込んだときは43歳だったんです。ただそれは「目安にする」って書いてあったので、わたしは申し込みをしたんですよ。わざわざ委員会に行って説得しました。「私をフルブライトでぜひ行かせてください。私は必ず日本とアメリカのために役に立ちますよ。」ということを(笑)説得し、何とか出願し、それで3段階くらいある書類審査も通って、それで英語の面接試験も合格しました。面接試験はアメリカ人4人に囲まれての面接試験でした。それも合格して、フルブライト…もうほんとに名誉あるフルブライト留学生として留学することができました。今、いろいろな渉外事務所、大きな事務所ありますけれども、フルブライトで留学する弁護士はほとんど皆無ですね、いません。ということで、私は胸に希望を持って2年前…たった2年前なんですね。もう10年も前のように思えますが(笑)、アメリカへ行きました。わたしの当初の予定は、そういう形でフルブライトという大変名誉ある留学制度に選抜されましたし、しかもコロンビア大学ロースクールというのは、ロースクールの中でもベストスクール、one
of the best schoolsでしたから、ここを卒業し、ニューヨーク州の司法試験にも合格し、ニューヨークで大手の法律事務所に就職して何年かアメリカ人弁護士と一緒に仕事をして修行して帰ってくる、そういう予定でした。コロンビア大学は、こういう計画を可能にしてくれるくらい、非常にすばらしいロースクールなんですね。このロースクールに合格したのは大きかったです。私が出願したのはコロンビアとニューヨーク大学と、あとジョージタウン大学も出願しまして、それは3つとも合格のアポイントメントいただけましたし、ハーバードとイエールは残念ながら駄目でしたけれども、それでもコロンビアというのはハーバード、イエールに負けないくらい良い学校だったので、それで行きました。
わくわくした気持ちで2年前の7月に成田空港を発ち、アメリカに向かいましたが、楽しかったのはそこまででした。と申しますのは、これはもう何と表現したらいいのか…ナイトメアー、悪夢ですね。わたしは英語にはある程度自信があったんです。…もちろんわたしは別に帰国子女でもないですし、それまで海外留学もなかったですし、英語の環境といってもそれほどなかったんですけれども、ただわたしはもう、毎日FEN、アメリカ軍の極東放送やらNHKのラジオ講座を聴いて、ずっと継続的に勉強してきたので英語は得意で好きだったんです、自分の中ではね。その自信がもろくも崩れ去ったんです。通じないし聴こえない。わたし、日本でもいろんな英会話学校行きましたよ。NOVAも含めて駅前留学もしました(笑)。でも、「あなたはアップルパイが好きですか。」、「いいえ、わたしはピザが好きです。」、あんな会話じゃ全然駄目なんですよ(笑)。相手の議論を理解し、自分の考えを延々一時間でも二時間でも話すことができる、そういう英語力が必要なんです。そのことが、アメリカに行って1か月もしないうちに分かりました。最初は、1か月間はサマースクールといってワシントンDCにあるジョージタウン大学のローセンターに行きまして、そこで1か月間、アメリカ法基礎講座を受けたんですけれども、そのときからもう既に英語に関してショック状態でした。ただ、幸い、そのサマースクールというのは何と言うか、本格的なものじゃなくて、お客さんを呼んでウォーミングアップをするようなものなんですね。ですので、授業でも学生に当てるということもありませんでしたし、法廷見学などの行事があったり、授業が終わったらパーティーだということで楽しかったんです。しかもわたし、当時妻と子どもはニューヨークに置いて1人でワシントンD.Cのジョージタウン大学の寮に入って、華の独身生活を過ごしていたので(笑)、毎日が楽しかったです。
ソクラテス・メソッドの恐怖
ワシントンD.C.での生活が終わり、1か月後の8月にニューヨークに入り、コロンビアの正規の授業が始まりました。もう忘れもしません。初日の授業です。だいたいLLMの学生は170人ぐらいいて、世界各国から来ています。そのときの初めての教授がジョージ・P・フレッチャーという、これは刑事法の教授で、カードーゾ・プロフェッサーという称号も持ってる、コロンビアではもうほんとに、非常に有名な教授でした。緊張して臨んだ最初の授業で、教授は開口いちばん、「君たち、いま座った席の両隣の人の顔を覚えておけ。今日から1か月間、この講座が始まるけれども、いま座った位置からもう君たちは離れられない」というんです。要するに、座席をそこで決められちゃったわけですよね。それでどういう授業をするかというと、いわゆるソクラテスメソッドという教授法です。この教授法は、噂では聞いていました。でも、まさか留学生には採用しないだろうと思ってたんですよね。あれはアメリカ人のJD、つまり留学生ではない正規の学生に対して行う教育メソッドであって、われわれ留学生はすごく高いお金払って…年間で授業400万もするんです、その高いお金を払って受けるわけだから、そんなお客さんを苦しめることはないだろう(笑)と思ってたんですけれども、まったく甘かったですね(笑)。
その凄さというのは、どういう凄さかというと、まずアサイメント、要するに宿題が前もって出るわけです。何ページから何ページまで読んでくださいということで指示されるのです。だいたいそれはもう1日50ページとか、多いときは100ページぐらいの量でした。わたしは、こうしてアサイメントが出されても、最初は「まあいいや。こんなの読めるわけないじゃん!」ということで、やらないで授業に出るんですけれども、授業に出ると教授は座席シートをバッと開いて出します。その座席シートを教授が毎日持ってくるんですが、そのシートに全部顔写真と名前が貼ってあるんですね。それでおもむろに1人を指名して、クエスチョンとアンサーのいわゆるソクラテスメソッドが始まるわけです。それはそれはもう、精神的な拷問なんですね。昔、「ペーパーチェイス」という映画がありました。ハーバード・ロースクールの学生を主人公にした映画でしたが、まさにその映画の中で展開されているシーンと同じなんです。フレッチャー教授による質問と学生によるアンサーが繰り返され、ちょっとでも間違えたり、答えに詰まったりするとほかの学生が、ウワーッて手を挙げて正解を答えようとする、そうなっちゃうわけですね。学生が自分からアピールして競って発言しようとする。例えば、「いま言ったの間違えてる」と。「答えさせてくれと」。そうやってアピールするわけですよ。これは日本人は慣れてません。わたしは、最初に前のほうに座っちゃったけれど、そういう授業をやるとわかって、後ろに移りたいと思っても(笑)、もう席が決められてその場から動けないんです。目の前に教授がいて、フリーズ状態です。それでさすがのわたしも、最初はアサイメントすべてを予習しなかったんですけれども、次の授業のときからは一生懸命予習しました。授業の前の日はもう地獄ですよ。自分が当たるんじゃないか、自分が指名されるんじゃないかという恐怖感で、もう必死に英文を読むわけです。でも読んでも読んでもなかなか早く読めないし、分からない。向こうの判例というのは全然分からないんですよ。いまでも分からないんですけれどね(笑)。
コロンビアンたちの熾烈な競争
そういうことでコロンビアでの授業が始まって、それが1か月…最初の講座が1か月続いたのですが、それでまだ9月だというのにもうヘトヘトになりまして、ただそこで非常にそれまでに受けたことのなかった大きな経験をしました。それは日本の大学…まあ司法試験を受験したときにはかなり勉強しましたけれども、私に言わせるとその最初の1か月間の講座というのは、正直言って、いままで勉強してきた以上のものがあったんですね。その緊張感といい、知的レベルの高さといい。しかも教授が厳しいというだけならまだいいんですけれども、学生がとてもアグレッシブなんですよ。つまりアメリカ人のJDの学生はもちろん、アメリカ人のJDの学生というのは、JDというのはJuris
Doctorの略で、向こうは3年間のロースクールに通うわけですよね、そのJDの学生はもちろんのこと、LLMの留学生も非常に積極的に授業に参加する。留学生の中でもフルブライトの奨学金で来ている、例えば、発展途上国からの学生は、祖国で毎日子供たちが餓死しているような国、そういう国からやってきて、何とかアメリカで制度を学んで、祖国に帰って国を立て直したいという使命感で来てるんです。目つきが日本人留学生と全然違う。アメリカ人学生だってそうです。アメリカという国は、とにかく成績がすべてなんです。移民の子もみんな平等です。授業料が高いのでコロンビアにはあまり貧しい人は来られないんですけれど、そういうコロンビアであっても、移民二世の学生たちはいかにして自分がほかの学生よりいい成績を取って、一流の事務所に就職して初任給1,000万円以上の最高のポジションを得て、それで社会的に成功するかばかりを考えているんです。一流事務所に就職してからの競争も熾烈です。アソシエイトのうち、10人に1人しかパートナー、つまり事務所経営者になれないんです。そのパートナーになるためにアソシエイトは月300時間、人によっては400時間も仕事し、収益を上げて事務所に貢献するんです。そしてパートナーに上り詰めて、裕福になって移民一世の親たち、家族を幸せにしたい、そればっかり考えてるんです。ですからその競争たるやすさまじいものです。アメリカの一流の法律事務所と一緒に仕事をしたこともありましたが、そこで驚いたのは、アメリカの事務所のアソシエイトはいつ電話してもいるんです。彼らは家に帰っていないんです。事務所に張り詰めて仕事をしている。われわれ日本人は違うイメージをもってますよね。アメリカ人といえば、日本人企業戦士と違って、早く家に帰り、家族と夕食をし、とても家族を大切にする。確かにそういう地域もアメリカには多いでしょうけど、でもことニューヨークのビジネスマン、弁護士に限って言えばまるで違います。激しい競争の中で、生き残りをかけて仕事をしているんです。日本人弁護士とは比べものになりません。
ロースクールでの成績というのはAから始まってAマイナス、Bプラス、B、Bマイナスと、日本の成績と違って非常に細かく付けられています。FがFailure。これはアウツです。即、退学です。その前になぜかEがなくてDもなくて、Cというのがあって、このCというのを取ったら大変なことになる。A、B、Cとあって、このA、Bとの間はそんなに差がないんですけれども、BとCとの間が非常に差があるんですよ。だからCを取っちゃうと挽回するのはもう、A2つぐらい取らないと挽回できないような、そういう仕組みになっています。学年の学期末の試験で成績が付くわけですけれども、授業の評価というのはその試験の成績だけではなくて、普段の授業態度も評価をするんですが、評価割合は、だいたい試験が75%、普段の授業態度が15%です。15%もありますからね、授業態度の割合がです。それで、みんな自分がこのクラスでいちばん自分が頭がいいということをアピールするわけですね。教授よりも自分のほうが頭がいいということを臆面もなくみんなの前でアピールする。教授も負けじと論戦を挑む。教室はこの緊張感がみなぎっているんです。そして、授業が終わったとたんに教授の前にあっという間に学生の列ができる。学生が教授に質問をするんですね。顔と名前を覚えてもらおうと積極的に質問をするのです。こういった教室の光景は、わたしがかつて経験した日本の大学の光景と全然違うんですよ。根本的に授業に対する発想が違うんです。
それでわたしも含めて日本人はみんなこの異様な光景に萎縮しちゃって、いや、中国人はエリートだけが留学するので優秀ですよ、英語もキングスイングリッシュを話します。韓国人はというと、日本人とちょっと似てるところがあってやはり萎縮してしまっています。それに引き換え、南米の人たちというのは、もうほんとに余計なことまでしゃべるぐらいおしゃべりですから(笑)、スペイン語なまりの英語で自分をどんどんアピールする。アピールになってるのか、なってないのかと思うときもありますが、それでもしゃべるが勝ちという具合に。ヨーロッパの人はアメリカ人と変わらないというか、英語力においては変わらないので、やはり攻撃的です。そういう中で、コロンビアでの授業が本格的に始まりました。
そういう衝撃に出会って、日本人は、当時わたしが行ったときには日本人の留学生は、わたしを含め、皆さんほとんど大事務所からの派遣の弁護士さんです。そういう厳しい現実を目の前にして、ほとんどの日本人学生はみんなで集まってゼミをつくりました。日本人がですよ、日本人だけ集まって。30人ぐらいだったんですけれどね。ゼミをつくって、授業が終わった後に、いま授業でいったい教授は何を言ったのかということを日本語で議論して復習するんです。一人くらいヒアリングのいい日本人がいますから、その人に助けてもらうわけです。わたしはこの日本人ゼミには加わらなかったのです。わたしにはプライドがあった。というのはフルブライトで行ってる、多分みんなより年上、経験も豊富、そういうプライドがあって、しかもわたしのアメリカに行く目的というのは、アメリカ人の思考能力とかアメリカ人の考え方。何でイラク戦争するんだと。アングロサクソンは何でいつもこんな戦争ばっかりしているんだという疑問もありましたし、そういうアメリカ人が何を考え、この先、世界をどのような方向にもっていこうとしているのかということを知りたかったんですね、非常に。過去に日本が戦争した相手でもありました。そういう目的があったので、あの日本人の固まりの中に入ってしまうと、もうそれは日本にいるのと変わらないと思いまして、わたしはその仲間には加わらなかったんです。LLMのクラスに30名日本人がいる中で、一年を通じてわたしが口をきいた日本人はほんの4〜5名なんですよ。口すらほとんどきいてない。うっとうしいときは中国人のふりをして相手にしない(笑)というぐらい徹底したんですね。
モーニングサイドハイツの秋
それでいよいよ1か月のウォーミングアップの授業が終わって、とてもウォーミングアップには思えなかったのですが、それが終わって9月から正規の授業に入りました。わたしは3科目取りました。この3科目は、日本人どころか留学生すらも取らない科目でした。アメリカ人のJDの人たちが取る科目のほとんどを取ったんです。
わたしはバックグラウンドが刑事法だったので、International Comparative Criminal Lawという、国際比較刑事法というものとか、あるいは、それこそイラク戦争、何でアメリカ人は戦争を起こすんだろうと思っていましたので、Jurisprudence
of Warという、戦争法理とでも訳しましょうか、そういう科目もあったので、これはおもしろいと思ってとりました。ビジネスローヤーとしては、絶対将来役に立つと思えない、国際ローヤーとしては役に立ちそうもないけれどおもしろそうだと。ゼミには、アメリカ人ばっかりで留学生なんて誰もいない。留学生というのは、皆さんビジネスローヤーを目指してアメリカで資格を取って、本国に帰って国際ローヤー、ビジネスローヤーとして成功するという目的で来ている人ばっかりですので、そういう科目取らないんです。アメリカ人のほんとにインテリな、しかもリベラルな人たちがそういう科目を取って、教授と喧々諤々の論争をするのです。わたしその中に入りたかった。で、そういう科目を取った。もう1つはContractという、これは基本でしたのでこれも取りました。
それでほんとに死に物狂いで勉強が始まって、妻と子供はニューヨークのいたるところ、観光地を含めて遊んでいる中(笑)、わたしはアパートと大学との往復ですよ、毎日毎日。妻はもう20年近く前にロースクールを卒業しているんです。ニューヨーク大学のロースクールを卒業している。ですから高みの見物で、「大変でしょ。もっと勉強しなきゃだめよ。」なんて言う(笑)。でも20代と40代では記憶力の衰えはこれはかなりのものですからね。でもやるしかない。ニューヨークも秋が深まり、コロンビアのあるモーニングサイドハイツ地区も落ち葉が敷き詰められていて、とても綺麗なんです。その落ち葉を踏みしめて、毎日、毎日コロンビアに通いました。しかも夜はほんとうに2時3時まで勉強していました。コロンビアの図書館は24時間開いているのです。深夜に地下鉄に乗って帰る。それぐらい勉強しないと予習が間に合わなかったんですね。それぐらい勉強しても間に合わないんです。10ページとか20ページ分どうしても残っちゃう、予習の部分が。そうするともう、ここの部分を当てられたらどうしようという絶望的な気持ちで、ビクビクして毎回授業に出て、しかもわたしが取ったJurisprudence
of Warというのはゼミ形式でしたから、ほんとに20人ぐらいしかいない中で、みんなガーガーガーガー議論をやっているわけです。その中で自分も一言ぐらい意見を言わないと日本人は馬鹿にされるという気持ちがありました。日本人はわたし1人でしたからね。何しろ聞き取りができないので、ヒートアップしている途中の議論に割り込んで発言するということができない。それで、授業時間の最初のころに簡単な質問があると真っ先に手を挙げてそれに答えるのです。よし一回発言した、これでよしと(笑)。それしかできない。教授がわざわざわたしのために最初に簡単な質問を用意してくれていたということを知ったのは、学期のかなり後になったころでした。このゼミにはイスラエル人もいましたし、アラブ系の学生もいました。彼らがアメリカ人学生も巻き込んでイラク戦争のことで激しい議論をしているわけですよ。Jurisprudence
of Warというのは、まさにイラク戦争の真っ只中のころのゼミでしたから、ほんとに皆さん注目されたトピックで、真剣そのものでした。その講義も先ほど申し上げましたジョージ・P・フレッチャーという教授の講義だったんですが、非常に勉強になりました。ただ、そういうところでわたしは自分の英語力不足と、やっぱり勉強はしたのですけれども要領がよく分からないというのもありましたし、予習のためのスタディグループはアメリカ人同士でつくるので、日本人はなかなか入れてもらえない。英語ができない日本人を入れると、---日本人が英語ができないというのは世界の常識なのです---、足手まといになっちゃうから声が掛からないんですね。悲しいです、英語ができないということは悲しいです。かといって他の30人の日本人留学生たちはもう全然違う世界にいますから(笑)、彼らはInternational
Financeとか、そういうビジネス系のものをみんなで一緒に取ったり、あるいは独禁法関係のクラスを取ってみんなで10人とか20人ぐらいで出て、それこそ授業終わった後にまた日本語で復習してるわけですよ。復習というより解読ですね。日本語でサブノートまでつくって回したりして、日本の大学にあるような光景がアメリカの大学に行ってもあるんですね。国連にしても国際会議にしても、国際社会における日本人というのは、およそこういった光景とあまり変わらないのではないでしょうか。これでは世界をリードしていけません。
コロンビア後期の奮闘
わたしは、そういう日本人グループからは完全に離れた中で勉強して最初の試験を受けました。新年となり、1月中ごろになって、その前期試験の結果が発表になりました。その結果、前期の試験は3科目取って一番良かったのはBプラス、次にBマイナス。ところが、一科目Cを取っちゃったんですね。このCを取るというのは大変なことでして…、あまり取らないんですね(笑)、Cというのはね。ただこれも、言い訳をするわけではないんですが、ほんとに限られた2時間という試験時間の中で問題文を読んで…問題文が長いんですよ、とにかく。何ページもあるような英語で書かれた問題文を読んで答案を書くんです。それはまったくアメリカ人と同じような条件下で書くんですね。それが大変だった。当時、いまもそうですけれどコロンビア大学は、留学生であっても、法学修士課程を取っている留学生であっても、GPAが2.67を下まわると卒業できないんです。2.67というと、GPA、皆さんご存じかどうか…計算方法は日本のとは若干違いますけれど、Aが4ポイント、Aマイナスが3.7ポイント、Bプラスが3.3ポイント、Bが3ポイント、Bマイナスが2.7ポイントという感じですかね。そして、Cというのはたった2.0ポイントしかくれないんです。2ポイントしかくれなくて、Bで3ですよ。ですので、Cを1個取っちゃうと挽回はなかなか難しいんですよね。実際、前期が終わった段階でのわたしの成績というのは2.62でした。2.67が不合格ラインだったのですが、それが次の学期、もう1学期受け終わった最終的な成績が2.67を下まわれば卒業できないのです。しかしわたしは、これは十分挽回できると思いました。どこまでも楽天家なのです。だいたいB平均くらい取れば大丈夫じゃないかなんて軽く思っていました。しかも実際にBプラスも取れたし大丈夫だと思ったんです。ただそこでわたしのまたプライドが出てきて、こんなみっともない成績いままで取ったこともないというので、もっといい成績を取って卒業したいと思いました。フルブライトとして選ばれたんだから、この成績を日米教育委員会に報告するにはちょっとみっともなさすぎるというので、後期に挽回しようと思ったんですよね。それで後期に受けたのが、4科目取ったんです。普通3科目をとるのが分量的に限界なんですが、多く科目をとってGPAの平均値を上げたかったんです。アカデミック・カウンセラーは負担が重く3科目にした方がいいというアドバイスをくれたのですが、聞きませんでした。
実際、4科目というのは予習の量からして本当に大変でした。取った科目は、これもまたビジネスローヤーとしては役に立たないものばっかりでした。普通はそういう状況にあったら、方針を転換して、やっぱり日本人のゼミ仲間に加わるとか、とにかく卒業できなかったら大変なことですからね。適当に単位の取りやすい科目を取るのでしょうけれども、そのときわたしはもう自分というのを確固たるものとして確立していましたので、しかも前期試験は成績は悪かったものの非常に勉強になったということで、後期4科目取りました。しかもわたし刑事系ばかりやっていましたが、刑事系の科目なんて日本人誰もいないですよ。しかもヨーロッパ等々からの留学生も誰もいない。アメリカ人、JDの学生ばっかり。ただわたしは、特捜検事ですよ。刑事事件を日本で長年やって、しかもロンドンにも在外研究で行かせてもらって、ロンドンのオールドベイリーという中央刑事裁判所でも研修受けましたし、CPSという検察庁でも研修受けましたので、わたし自信あったんですよね。それでとったのが、捜査法とかあるいは公判法、証拠法、それにこれはもう事務所から送られて来ているのだから、やっぱり帰ってから役に立つものも一つ受けないといけないと思いまして、会社法も取りました。
こうして勉強を始めて、これはやっぱり量的に大変だったんです。大変だったんですけれども後期からは、英語力が弱いというのが分かったので英語力を強化しないといけないと思いました。公立のパブリック・ライブラリーで英会話の無料講座があることを知ったんですね。そこタダだし、行こうと思って試験を受けに行ったんですよ。そうしたら駄目だったんです。試験の成績が悪かったのではなく、試験の成績が良すぎて受講を認められなかったんです! ああいうパブリックライブラリーというのは、要するに、ヒスパニック系の貧しい人たちで、英語が分からない人たちに無料で開放しようということなので、英語ができる人は駄目なんですね。図書館の職員から「成績よすぎるから駄目だよ、うちは」ということで断られました。成績が良くて落第したのは生まれて初めてでした(笑)。わたしは、その職員に、「それじゃあどうすりゃあいいんですか、英語勉強したいんです」と聞いたら、インターナショナル・センターというボランティアのアメリカ人がやっている英語センターが23丁目ぐらいのところにありまして、そこに行くとボランティアのアメリカ人が、有料だけど付いてくれるという話を聞きました。早速、私はその足で、インターナショナル・センターへ行き、このセンターでわたしは2人のアメリカ人と出会いました。これはいまでも交流があります。この2人のアメリカ人は、2人とももう引退されている方で、1人はお医者さんです。こんなに太ってるんですけれど、お医者さんです。もう1人は、かつて朝鮮戦争に従軍されて、帰国後ローヤーになって、フォーダム大学のロースクールを出てローヤーになって、さらにローヤーからインシュランスカンパニーにリーガルポジションで入って定年退職された方です。この2人のアメリカ人と出会いました。これはわたしにとってはもう、かけがえのない出会いでして、ほんとうに家族ぐるみでお付き合いをさせていただいたんですね。今でもお付き合いは続いているんです。
5月17日の挫折
これでもうチューター2人もいると、大丈夫だということで勉強を始めたんですけれども、やはり4科目の負担は想像を絶するものでした。2月、3月、4月と、来る日も来る日も猛勉強です。コロンビアの図書館に泊まったこともあるんです。試験が近づいてくると、図書館は学生で溢れかえります。席がなかなか確保できないんです。わたしは家に帰る時間がもったいなくて、図書館のソファで寝たことも何度もありました。コロンビアの中央図書館はエリザベス女王の肖像画、アイゼンハウアーの肖像画があったり、古い法律家の肖像画があったり、とても格式が高い図書館です。でもゴーストバスターズという映画で、幽霊が出てくるシーンに使われたほど、古めかしく、天井が高く、真夜中は恐いのですが、わたしは平気でそこに泊まっていました。わたしが寝る「マイ・ソファ」ができたくらいでした。ところが..、もう途中は省略しちゃいますけれども..、猛勉強の甲斐なく、なんと、わたしの成績は卒業要件を下回ったのです。
それが分かったのは、5月17日で、卒業式の前の日でした。卒業式の前の日に後期の試験の発表があるんですね。非常に大変だったんですけれど、手ごたえは悪くはなかった。でも結果は届きませんでした。ただ、結果が分かったのが卒業式の前の日ですよね。だからわたしもう卒業式に着るガウンとキャップを取りに行って、次の日に卒業式に出るつもりでした。家族も出席する予定だったのです。しかも当時、わたしはもう既に卒業した後、もちろんニューヨークのBarを…Barというのは司法試験ですけれども、司法試験を受ける準備をしていましたし、予備校にも、日本円で20数万もするお金も払っていましたし、しかも司法試験が終わった後の就職先、これはピルズベリー&
ウィンスロップというアメリカではトップクラスのローファーム、ここに就職先が見つかって内定をもらい、1年間研修させてもらえることになっていました。その事務所は、弁護士1,000人ぐらいの一流の事務所です。まさに得意の絶頂だった。なかなかそういう一流の…当時もうほとんど日本企業撤退していたので、日本人相手のお客さんもいなくなって、あまり日本人の弁護士を採らなかったのです。でもたまたま有力者の方のご紹介があって就職が決まったのです。順風満帆でした。
ところが、キャップ&ガウンを取りに行って戻ってきて、図書館でパソコンのメールを立ち上げたところ、タイトルが…もう忘れもしませんよ。「Degree」というタイトルでした。開けてみると、「すぐアドミニストレーション・オフィスへ来てください。」というので、嫌な予感がしました。わたしは何だか行くのをためらい、安心しようと思って電話をかけました。電話をかけて、担当の職員に、「バッドニュースか。それともグッドニュースか?」と聞いたら、「I’m
sorry」という返事だったんですね。このときの気持ち。たぶん一生忘れないでしょうね。コロンビアの中庭では卒業式の音響のリハーサルが行われています。キャンパスにエドガーの「威風堂々」が大音量で流れています。それを聞きながら半ば呆然とした、憂鬱な気持ちで事務室に行きましたら、わたしの成績は、なんとCが3つ。4科目のうちCが3つ。1つがBマイナス。つまり、アメリカ人に全く太刀打ちできなかった。これはGPAが前期のと総合して、2.35ですよ。2.6とかあるいは2.58とかそういうものだったら、またちょっともう1回頑張ろうかなという気持ちは起きましたけれども、もう駄目なんです、これは。つまり、あと追加で1セメスター受けたとしても、オールAもしくはオールAマイナスぐらい取らないと、結局合格の基準点には達しない。もう一年留年してやるといってもそれまでの成績が消えるわけではなく、その成績を前提に挽回して基準点に達しなければならない。だからB平均ではダメなんです。オールAもしくはAマイナスでないと基準点に達しないのです。しかもそれは授業料を払って継続するわけですからね。1セメスター200万円以上かかりますので、それを払ってそれが無駄になっちゃう。わたしは絶対A取れないと思ったんです(笑)。もう絶対にAなんて取れない。あれだけやったのに、あれだけ勉強したのにこの成績なんだから、もう無理だと。絶対にAはとれっこないという確信があった。アメリカ人相手に無理だと思いました。これがもうわたしのどん底の始まりでした。これが例えば日本の司法試験であれば、「また来年があるさ。」ということになりますが、アメリカ社会というのはとても厳しく一発勝負なのです。失敗したらよほどのことがないと復活できないような仕組みになっているのです。わたしは、アドミニストレーションのディーンに聞いてみたんですね、過去に一度失敗をして、それで追加で1セメスターをとってそれで卒業できた人がいるか、と。答えは「追加で1セメスターをとる人は私の知る限りいない。」という答えだったのです。このとき、わたしのほかにも3人の学生、日本人ではないのですが、が同じように失敗しましたが、たぶんそのまま国に帰るだろうという話でした。それを聞いてすっかり落ち込んでしまいました。
神との対話
わたしは、こうして得意の絶頂から奈落の底に突き落とされたのです。これが忘れもしない5月17日の出来事でした。18日が卒業式の予定だったのです。残酷ですね。わたしはこの5月17日という日を一生忘れないと思います。5月18日が結婚記念日ですから(笑)。...そうなんです、最悪でした。わたしは、アドミニストレーション・オフィスを絶望的な気持ちで後にして、コロンビアロースクールの校舎の前庭のベンチに座り、思わず空を仰ぎ見ました。神様、どうしてここまでの仕打ちをわたしにするのか、と。この歳になってもまだわたしに試練を与えるのか。何回も挑戦しては失敗し這い上がって合格を勝ち取ったあの司法試験のときの試練で十分ではないのか、なぜまたしてもこんな試練を課すのか、そう問いかけていました。子供のころ、神様はいないと思っていたそのわたしが、神様に話しかけていたんです。その酷い逆境に直面してかえって神様の存在を感じたからでしょうか。良いことが起こったときには、あるいは、人は神を感じないのかもしれないですね。自分の手柄だと。でも、自分ではどうすることもできない、なにか、とてつもない大きな力で押し潰されたとき、人ははじめて神の存在を感じるのかもしれませんね。そのとき、まだわたしは神の存在を信じていませんでした。でも、心の中で、その高い青い空を仰ぎ見ながら、「どうしてここまでわたしを痛めつけるのか、神様。」とつぶやいていたのです。そして、次に、妻に電話をしなくちゃいけないと思ったんです。憂鬱でしたね。確か今日は卒業式の前祝いで、ステーキを焼くって朝、つが言っていたのを思い出しました。なんて言おうか?。。。ハプニング、特に、悪い出来事というのは、最初自分に降りかかったときにはまだ他の誰もそのことに気づいていません。でも、それが水面に石が落ちたときの、その水面の輪が周囲に次第に広がっていく、そんなふうにして、家族が知り、友達が知り、親戚が知り、知人が知りというように広がっていきますよね、その「時間差」が嫌なんです。このまま誰にも知られないように時間を止めたい、それができたらどんなに楽か。でも、時間は止まりません。次の日は卒業式です。結婚記念日です。妻に知らせないわけにはいかないのです。どのような内容の電話となったか、ここではお話をするのを止めておきましょう。想像がきっとつくはずですから。
わたしは、この17日に屈辱的で絶望的な通知を受けたとき、最初、それが一体どのような不利益を自分にもたらすのか、家族にもたらすのか、最初はぴんときませんでした。それが何を意味するのか最初分からなかったんですね。でも、だんだん冷静になって考えて、ちょっと待てよと。ニューヨークの司法試験を受けられるんだろうかと。単位は取れてるんですよ。Fはないんですから。だからわたしは単位数は十分に取れていて、しかも他人が取ってる単位数より多いんですよ(笑)。普通24単位ぐらいなんですけれど27単位も取ってましたからね。単位取ってるんだから受験はできるんじゃないかなと試験委員会に問い合わせました。そしたらLLMのDegreeを取らないと駄目だという話でした。ああ、司法試験を受けられないのかと、まずがっくりきました。予備校に払ったお金どうなるんだろうということよりも、次に頭に浮かんだのは、就職はどうなのかなと思ったんですね。就職内定していた一流事務所に果たして就職できるのだろうかと。卒業できなくても、司法試験取らなくても、そこでその後1年間アメリカのローファームで研修を積んで、力をつけて帰れたらまだいいんじゃないかという気持ちもあったので、さっそく法律事務所の担当者にお会いして恥ずかしい話でしたが、コロンビアを卒業できないという話をしました。そうしたら、意外にも、「No
problem」という嬉しい返事だったのです。お恥ずかしいのですが。つまり、アメリカの事務所は日本人弁護士が欲しいんですよね。わたしは日本の弁護士資格を持っている日本人弁護士です。だから、とりあえず日本人のお客に対して日本人と交渉できて、日本の弁護士資格を持ってれば、別にコロンビアのロースクール卒業できなくたって、あるいは司法試験、ニューヨークの弁護士資格を取らなくたっていいんですよ、彼らにとってはそれほど大きな問題ではない。それで、わたしも「ああよかった」と思いました。じゃあもう卒業なんてしなくたっていいと思いました。なあーに、コロンビアなんて、もう2度とコロンビアの校舎行きたくないと(笑)。モーニングサイドハイツなんか二度と足を踏み入れるものか、と思いましたね。
ところが、問題がもう1つありました。それはビザなんですね。わたしはフルブライトで来ていました。普通の人のビザ、F-1ビザと違うんです。J-1という特別なビザで来ましたので、それがちょっと心配があって、わたしはフルブライトの委員会のほうに連絡をして確認しました。卒業できなかったけど、アメリカに残って働くことはできるかと聞きました。そうしたら、「働いては駄目だ。」と言うのです。「いますぐ日本に帰れ。」と言うのです。つまり、フルブライト留学生というのは1年間の留学、勉強期間の後、その「成就した」勉強成果を活かすために研修をもう1年間受けることはできる、そういう制度だったので、その勉強すらできなかった、卒業できなかった者は、それを活かす余地はないというか、もうそのアカデミックトレーニングの資格はないという決まりになっているそうなんです。それで、もう1セメスターをもう1回受けるか、受けないのであれば、その結論が出た時点で滞在資格はもうないというのです。帰国準備のための猶予が1か月あるだけなんです。1か月以内にアメリカの国を出なきゃいけない。それでようやく、ようやくです、わたしは自分の置かれている立場が分かってきました。どういうシチュエーションに自分が置かれているのか、分かってきたんですね。妻も初めて深刻になりました。息子は何か分からないけど、シリアスな問題が起きていることは気づいていたようでした。わたしは、ずっしりとその深刻さが両肩にのしかかってきました。日本に帰らなければいけない。もう1セメスターなんてコロンビアで授業を受けることなんてできない。受けても卒業できないんだから同じことだ。頭の中が真っ白になり、どうすることもできなくなったんです。万事休すです。降参だと思いましたね。負けたと。
混沌とした中で
日本の司法試験に合格するまでは何度も失敗して苦労したけど、合格してからというもの、むしろ自分にとってはうまく事が運んでいました。検察官になり、それなりの重大事件の捜査をこなし、晴れて天下の東京地検特捜部検事にもなり、そして、日本有数の国際法律事務所に就職してアメリカ留学を実現させた。しかも、フルブライト留学生に選抜された。完璧なキャリアでした。でもそこに落とし穴があった。その落とし穴は誰も気づきませんでした。妻もまさかと思ったでしょう。ほんとうは留学なんてしなくても良かったんです。留学しなくてもわたしは人生の成功者でいられたでしょう。40歳を過ぎて無理して留学したばっかりにこんな酷い目にあい、屈辱的な汚名を。アメリカを知りたい、アメリカの精神を学びたいという好奇心が裏目に出たのかな、そんなふうに思いました。
さて、それから地獄の日々が始まりました。すぐ就職内定先に行きました。ビザの関係で働くことができないことを話さなければなりませんでした。わたしは、採用担当の弁護士に事情を説明して働くことができない旨説明し謝りました。もうお詫びですよ。それからこの事務所を紹介してくださった有力者の方にも、申し訳ないですと。大変なことになってしまって。卒業できませんでしたと、お詫びしました。その紹介者というのはニューヨークで大活躍している日本人弁護士さんで、桝田弁護士という先生でした。その後、このわたしの「ハプニング」は次々と東京にいる事務所の弁護士たちに知られることになりました。概して皆、冷淡でした。メールを出しても返事が来なかったり、「それでどうするの?」という杓子定規のものであったり。でも桝田先生の言葉は嬉しかった。「その結果には何か理由がある」とおっしゃるんです。「神の摂理、物事には必ず理由がある。きっと君は大成するよ」と慰めてくれたんですね。苦労を知っている方だからこそ口から出る言葉でした。この方は別にクリスチャンではありません。クリスチャンではないけれどもそういう神につながる感覚をもってらっしゃる。わたしは、日本人の素晴らしいところはそこだと思うんですね。そういう超自然的な畏敬の念を日本人は自然と身につけているのです。ただ、わたしはそのときはその、ありがたい言葉をそのまま受け入れる心の余裕はありませんでした。早くその場から立ち去りたい、申し訳ない気持ちと、自分が情けない気持ちで、その先生の前から立ち去りたかったんです。それで、その場は「ありがとうございます。」とだけ言って失礼しました。
家の中ももうめちゃめちゃでした。子どもは学校に通ってます。子どもは子どもなりの計画がある。うちのワイフにもワイフなりの計画がある。フランス語学校に通ってます。それがすべて狂ってしまった。まだコロンビアを継続するかどうかの結論はまだフルブライト委員会に伝えていなかったので、少し帰国まで時間がありましたけど、コロンビアを継続しないと判断した時点で、帰国まで一ヶ月の猶予しかない。子供は学校を辞めなければならない。妻も大好きなニューヨークを離れなければならない。パニックですよね。妻は毎日ただため息をついてるだけなんです。そこでもうわたしはノックアウトです。どうにもできない。大男に首根っこをぐいっと掴まれて、地面に押さえつけられて身動きが出来ない感じでした。もう、この状況は、日本の司法試験を受けて不合格だったときの比じゃないですよ。どうにもできない。日本に帰れもしないですよ。これで帰ったら何しに行ってきたんだという話になりますよね。派遣してくださった事務所もそうですし、フルブライトに選ばれてその目的を達しないで帰ってきた人は歴史上いないんです。帰ることができず、かといってモーニングサイドハイツに戻る気にもなれませんでした。とにかく行く場がない。家にも帰れない。コロンビアなんていうのは目にしたくもない(笑)。ニューヨークが憎い。ニューヨークの街が憎い。ほんとですよ。あの華やかなニューヨークが憎かったですね。すごい憎しみを持ったんです。アメリカに対して、ニューヨークに対して、コロンビアに対して。何がニューヨークだと…そう思ったんですね。
こうして完全に行き詰り、混沌とした中で、それでわたしは何をしたかというと、皆さんだったらこういう場合どうします?わたしね、走ったんですよ。セントラルパークを毎日、毎朝走りました。皆さん、フォレストガンプという映画を観た方いらっしゃると思うんですけれども、彼が幼馴なじみで愛する彼女と幸せな一夜を過ごして、ある日、朝、目が覚めると、彼女はベッドの横にいないんですね。自分のもとを去っていった。寂しさ、空虚、虚脱感。突然、彼は走り始めるんですよね。それがもう延々と砂漠の果てまでずっと走り続けるわけですけれども、あんな感じなんです。午前4時に起きまして、まだ真っ暗です。真っ暗な中、わたしのアパートからセントラルパークまで歩いて10分でした。セントラルパークへ行って走り始めます。走り始めるって言ったって、運動なんてもう何十年としてないですから、2分で息切れですよ。2分で息切れしてあとずっと歩いてるんですよ。セントラルパーク1周。でもまあいいやということで歩いていました。
すべてを包み込んでくれたセントラルパーク
わたしはこうしてセントラルパークを毎朝走りましたが、それでも時間が余っているんです。1日、何もすることないんですから。ただ早く日本に帰るか否か結論を出さないと、不法滞在になって今度は逮捕されてしまうということで、そういう焦りはあったんですけれども、ただどうしてもなかなか結論が出ない。朝、セントラルパークを走っても、昼間することがない。家にもいたくない。それで、仕方なく、仕方なくって言ったら悪いですけれども、教会に行ったんですね。ほかに行くところないですから。教会の門はいつも開いてるんです。それで、教会に行ったんです。それがいちばん最初でした。ニューヨークにある様々な各派の教会に行ったんですね。最初に入ったのは、家の近くにあったローマン・カソリックの教会でした。その薄暗い教会の中でわたしいろいろ考えました。目の前には十字架に貼り付けになっているイエス・キリストの像があり、ろうそくが灯され、200人は入るその教会もしーんとして静かで、ただときどき居眠りをしている浮浪者、その寝息がかすかに聞こえるだけなのです。ほかに、一人か二人、いましたかね。同じように祈りをささげている。この人たちはどうしたんだろう、何か悲しいことがあったのだろうかと思いながら、わたしはひとり、1時間も2時間もそこに座って考え込みました。今の自分の状況、これはいったい、どういうことだろうと。自分はいままで…苦労はしたけれども順風満帆というか、まあそれなりの地位を築き上げて40歳を過ぎて、44歳の挑戦で、挑戦したらこんなひどい目に合ってしまった、という思いでいました。イエスの像を見ながら自分は何のために生まれてきたのか、ということを色々考えました。でも結論はでない。堂々巡りでいろいろな考えがすうっと闇の中に吸い込まれていくのです。
ただ、そういう日が続いていくうちに、セントラルパークを走ってもだんだん息切れしなくなったのです。わたしいまでも太ってるんですけれども(笑)、ニューヨークにいたときで15キロ痩せたんですよ。15キロ、1年半で。だんだん息切れもしなくなって走れるようになりまして、それが快感に変わっていくんですね。午前4時というと、まだ暗いんですよ。暗い中、ニューヨークのことですから、セントラルパークの中で殺人事件に巻き込まれはしないかと…いまでこそ安全になりましたけれども、でも、わたし殺されたっていいと思ってましたからね(笑)。どうせなら、殺されて生命保険か何か降りて家族に払ってくれればというような気持ちでしたから。だから暗いセントラルパークもそんなの全然怖くない。ただ、暗闇の中を走りたかったのです。分かりますか、この気持ち。走って最初は一周を1時間半かかって走ったんですよ、セントラルパーク1周です。それがだんだん走れるようになってきて、止まらないで1周走れるようになったんですよね。1週間、2週間続けているうちに。朝そこへ行って、そりゃあもうセントラルパークの美しいことといったら言葉もありません。皆さんもセントラルパークご存じだと思うんですけれども、誰も人がいない静けさの中のセントラルパークは知らないと思います。月明かりだけ。だんだん朝が明けてくるんですけれど、小鳥のさえずりですね。蛍が…芝生一面に敷かれてあるんですよ。まだ辺りは暗いので、蛍の光がものすごく美しいのです。そういうのを見ることができました。あと明るくなってリスが動き始めるというような中で、1周を毎日毎日、1時間走るようになりました。そういう毎日を過ごし、一方で、教会に通い、朝はセントラルパークで走るという毎日を過ごしていたんですね。
そのセントラルパークで走ってる中で、ちょうど西の真ん中ぐらいから入りまして、下をまわるときにだいたい二日酔いのアメリカ人がフラフラとしながら家路に帰るところに出会うんですよね。浮浪者も適当に寝てますよ。上の北のほうもハーレムに近いほうまで行くと、大きなプールがあるんですけれど、そのあたりに来ると朝焼けが、ビルの谷間から太陽が昇ってくるんですよ。それが綺麗なんです。わたしは、太陽って平等だなと思ったのは、こんなわたしにも同じように光で照らしてくれる。しかも今見ている太陽というのは、遥か遠くにある祖国日本の人たちが半日前に見た太陽と同じ太陽だという気持ちがあって、それで毎日それが楽しみになっていったんですね。
ニューヨークの教会めぐり
ニューヨークにはたくさんの教会があります。わたしは、最初はカソリックの門をたたいたんですけれども、だんだん色々と興味を持ってきまして、いろんな教会がまわりにあるものですから、プロテスタント、長老派から英国系の教会やらメソディストやら、その中で本もいろいろ興味を持って読むようになって、もちろん聖書も読むようになりました。もちろん英語の聖書です。朝4時に起きて聖書を30分読んでから、それからセントラルパークへ行くのが日課になりました。いろいろな宗派に興味を持つ中で、その中でもおもしろいというか非常に感動を覚えたことがいくつもあったんですけれども、スウェーデンボージャンというのはご存じでしょうかね。スウェーデンボルグの本にたまたま出会ったんですね。スウェーデンボルグに行きあったのは偶然でした。どうして、スウェーデンボルグに行き当たったかというと、いきさつはこうなのです。日本のニュースで憲法改正論争が話題に出たとき、森有礼の話が出ていたのです。森有礼という昔明治時代の文部大臣をやった、暗殺された方がいらっしゃいましたけれども、森有礼と伊藤博文との憲法論争というのがあったんです。人権というものについて憲法に規定すべきかどうかを巡って、伊藤博文は人権というものはきちっと憲法に規定すべきだと主張したのに対して、森有礼は、いや、人権というのは天賦のものであるから、そういうものを法典に記載すべきものじゃないなんて言ってるんですよ。これは凄いこと言うなと思いました。伊藤博文も立派なことを言う。それにもまして森有礼は凄いこと言うと思ったんですね。この森有礼の考えはわたしがコロンビアで学んだ自由主義の考えそのものなのです。アメリカ憲法というのは、最初人権規定がありませんでした。人権規定は後の修正条項で初めて規定された。なぜ最初人権規定がなかったかというと、連邦政府には天賦の人権を制約する権限なんてそもそもないという発想だったのです。だからわざわざ憲法に規定するまでもないという発想です。森有礼は当時においてまさに天賦人権論というアイデアを理解していたんだなと思いました。当時はもちろん外国の本を翻訳する形で天賦人権論を紹介した学者・思想家はいましたよ。でも憲法に人権規定を置くななどという人はたぶん森有礼の他にはいなかったと思うのです。彼は感覚として人権のニュアンスを理解していたんですね。それでわたしは彼、森有礼のバックグラウンドに興味を持ったのです。この伊藤博文と森有礼の憲法論争の話題に触れたのは、偶々、コロンビアに失敗した直後でした。それで調べていったら、森有礼はアメリカにいたときにスウェーデンボルグの感化を受けています。キリスト教の感化を受けています。彼はあの当時にあって、廃娼論を訴えているんですよ。伊藤博文が7人とか8人の妾を持ってる時代に廃娼論を唱え、しかも森有礼は契約結婚第一号でした。これはびっくりしましたね。
それでスウェーデンボルグの考え方にも非常に興味を持って、その「Heaven and Hell」天国と地獄という書物があって、それを読みました。中世のお城みたいな宗教系の図書館がコロンビアの近くにあるんです。バーク・ライブラリーというんですけれども、そこに行って探して見つけ出した本が「Heaven
and Hell」でした。本を持つ手が震えましたよね、その本を探し出してそれで読みました。その中で、地獄に行くか天国に行くかという話で、それは神が決めるものじゃないと書いてあるんです。自分で天国、それとも地獄に行くかが決まるんだと書いてある。つまり地獄に行くような素質をつくり上げた人がまさに地獄に行くので、そういう人が天国に行ったって、自分はこういう場所にいる人間じゃないと恥ずかしくなって地獄に行くんだそうです。神が地獄に行くかどうかを決めるんじゃなくて、地獄に馴染むような人間としてつくられていって、そういう人が地獄に行くんですというくだりがありまして、これは非常にショックでしたね。他人事だと思ってましたもんね。天国に行くか地獄に行くかは神様が決めるのであって自分ではどうにもできないと。ところが自分自身が地獄に馴染む性格になりうるんだという考えを知って一種のショックを受けました。
光の武具―「ローマ人への手紙」から
そういうことがあったりして、聖書をさらに深く読み始めて、今日ちょっと皆さんに紹介したいのは、わたしが非常に立ち直るきっかけになった節がありまして、パウロの書簡なんですけれども、ローマ人への手紙の13章の11節から14節までです。あとほかにもあるんですけれど、これちょっと読みますね。わたし日本語の聖書って読んだことなかったんですよ。アメリカでクリスチャンになったので。英語で聖書をずっと読んでいたんで、日本帰ってきたら日本語もちょっと知らないといけないと思って、英語と日本語両方書いてある聖書を買いまして、英語でずっと読んでたので、あの言葉は日本語でどう表現するのかなということで、これを使ってるんですけれども、日本語で今日ご紹介します。「あなた方は、いまがどのようなときか知ってるのですから、このように行いなさい。このように行いなさいというのは、あなた方が眠りから覚めるべき時刻がもう来ています、というのは、わたしたちが信じたころよりも、いまは救いがわたしたちにもっと近づいているからです。夜は明けて昼が近づきました。ですからわたしたちは、闇の業を打ち捨てて、光の武具…鎧ですね。光の武具を身に付けようではありませんか。遊興…遊ぶことね。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではありませんか。主、イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」というくだりがあって、ほかにもちょっといろいろあるんですけれど、わたしはこれを読んだときに、まさにセントラルパークで見た太陽、セントラルパークの光というか、セントラルパークの闇が少しずつ夜明けに近づいていくのと、イメージがぴったりだったんですね。わたしはこれを読んだときから、お酒止めたんです。酩酊を止めた。もう酔っ払ってる場合じゃない(笑)。光の武具を着なさいと。これを読んだときから、これを読んだのは去年の6月ぐらいですよね。それからわたし、お酒はほとんど飲まなくなりました。つまり、正しく生きようと思ったんですね。行いを正しくし、清く生き、善を行おうと思ったんです。将来どうなるか分からない。ただ、正しく生きて善を行おうと思ったんです。これは何と言うか、それまでわたしのプリンシプルにはなかったプリンシプルでして、「立身出世主義」の対極にあるようなものなんですけれども、そういう気持ちになって、もうお酒なんて止めようと。女遊び、してたわけじゃないですけれども(笑)、そういうことはしない。もう放蕩してちゃいけない。善を行って困ってる人たちに救いの手を差し延べようと。勇敢であろう。完全であろうというふうに思ったんですね。たぶんこの時点で、もうわたしは神様を信じてたんですね。わたしは子どものころ、外を見まわしても空を見まわしても、望遠鏡で見ても神様は見つかりませんでしたけれども、ここ、つまり胸の中にいたんですね、心の中に神様が。それに気づいたのです。そのときでした、真剣に自分はどう生きるべきかを考えたのは。どうやってこの困難に立ち向かうべきかを考えました。もう生きる道を見つけたのだから、それでそのまま日本に帰っても良かったのです。コロンビアは卒業できなかった。でもそれと引き換えに自分には素晴らしいものが生まれた。新しい生き方が生まれた。だからもうコロンビアにこだわる必要もなかったんです。ただ、わたしはそのとき、カーライルのことを思い出したんです。「フランス革命」という作品、カーライルの代表作ですが、この原稿の焼失事件がありました。みなさん、ご存知でしょうか。そのことを思い出したんですね。幸運でした。
カーライルの「フランス革命」
カーライルの「原稿焼失事件」、この話は、有名な話で内村鑑三の「後世への最大遺物」にも出てくる話です。簡単にお話ししておきますと、カーライル、この人はイギリスの有名な文筆家で、「クロムウェル伝」も有名ですが、代表作に「フランス革命」がありますね。彼が20年も30年もかかって「フランス革命」を書き上げた、それでそれを出版する前に友達がどうしても読ませて欲しいというので、原稿を貸してあげたんです。その友人、実はこの友人はあのジョン・スチュアート・ミルなんですが、家にその原稿を持ちかえりました。そして、そのまた友人、この人はミルと関係がうわさされていたローラー夫人なんですが、そのローラー夫人もぜひ読んでみたいということで、ミルは彼女に原稿を又貸ししたんですね。ところが、ローラー夫人が家に持ち帰り、読んでいるうちに眠くなって原稿を机の上にひらいたままでベッドで寝てしまったのです。それで翌朝早く、召使がその机の上の原稿を見てゴミだと思ったんですね。それで、ストーブの火を起こすのにその紙の束、原稿なんですが、それを暖炉にくべて燃やしてしまったんです。どうなったと思います?さあー大変です。当時はもちろんパソコンなんてありませんし、フロッピーに保存しておいたわけでもありません。取り返しのつかないことになったのです。ミルはこのことを知り、顔が真っ青になり何度も何度もカーライルに謝ります。でもカーライルは茫然自失ですよね。何十年もかかって書いたものが燃えカスになってしまったんですから。もう何もする気が起こりません。コロンビアをしくじった私のように、毎日、毎日嘆き悲しむだけです(笑)。45歳まで何十年とかけて築き上げた私の地位もすべて無駄になったようなそんな感じと同じだったかもしれません。カーライルは最初はミルを恨んだことでしょう。でもそのうち、ミルを責める気もローラー夫人を責める気さえも起こらなくなり、何日もただぼんやりと過ごします。でも、その後でわれに返るんですね。天の声が聞こえました。「カーライルよ、そんなにフランス革命は価値のあるものなのか!もっともっと価値のあるものはお前がこの困難に直面してもなおまた一から再び書き直すことではないのか」という神の声です。つまりどういうことかというと、「フランス革命」という書物そのものに価値があるのではなく、一度誤って燃やしてしまった、何十年もかけて書いた原稿を燃やしてしまった、でもそれでもなおくよくよすることなく、最初から、最初のone
wordから、書き始める、そういう「生き方」そのものが価値のあることだと気づくんですね。それで彼は再び書き始めた。それが今世に燦然と輝く名著「フランス革命」なのです。
この話を思い出したとき、わたしは、もう1度コロンビアにチャレンジすることを決心しました(拍手)。卒業は不可能に近かった。あれほど毎日毎日勉強して、巨額の授業料も支払って、家族を巻き込んで、それで苦労して苦労してコロンビアで勉強して、それでも完全にノックアウトされた。立ち上がることができないほど完膚なきまでに叩きのめされました。仮に追加でもう1学期とったところでオールAかオールAマイナスを取らなければ挽回でいない、それほどひどい成績をとってしまい、ただただ悲嘆にくれるだけだったのです、カーライルのように。でも、わたしは、たぶんもうワン・セメスターをとったところで卒業条件をクリアできないだろう、でもわたしの「生き方」を示してやろうと思ったんですね。それは子供に対しても、子供は当時8歳でわたしの躓きを理解していましたから、そういう「生き方」を子供に示そうと思ったんです。子供だけではありません。妻にもです。思わぬ出来事に不安のどん底にあった妻に。そして世の中の人々にも示そうと思いました。フルブライト留学生の「失敗記」ではありましたけど、「負け犬記」にはしたくなかったんです。カーライルの逸話を思い出して、そういう気持ちが生まれたんですね。幸いでした。これは、今だからそう思うのですが、恩師の桝田先生がおっしゃった「神様の摂理」、「物事には理由がある」という言葉の意味はそういう意味だったんですね。自分に「生き方」を示すというか、立身出世ばっかり考えていた自分に「無私」、私を無くした生き方を示すためにこういう仕打ちをしているのではないか、それが摂理なのでしゃないか、そう感じたのです。その桝田先生の言葉を意識してか意識しないでか、わたしはとことん叩きのめされてもなおも再び立ち向かおう。その生き方そのものが尊いと思ったわけです。
コロンビアへの再挑戦、洗礼、そして復活
8月になって、久しぶりにコロンビアに行きました。あの憎きキャンパスに久しぶりに足を踏み入れて、そこでアドミニストレーションのオフィスの門をたたいて、わたしに残酷な通知を言い渡した職員に、「もう1回やる。」ということを言いました。うちのワイフにもそういう話をして、彼女は泣いてました。それからまたわたしも、これは絶対Aなんて取れないと思ってたんですけれど、とにかく挑戦しようと決意しました。アメリカ人のいいところは挑戦する者を歓迎するという点ですね。わたしはその後、ジョージ・P・フレッチャー教授の研究室を訪ねたんですよ。後期はフレッチャー教授の授業はとっていませんでしたので、久しぶりでした。フレッチャー教授は、私の顔をみるなり、「ナカムーラさーん、お元気ですか。」と、なんと日本語でわたしに話しかけたのです。えっーえ、って思いましたね(笑)。日本語できるんですか?プロフェッサー!って思わず日本語で言ってしまいましたよ。まさかフレッチャー教授が日本語を話せるとはまったく考えもつかなかったのです。もっと早く言ってくれればいいのに(笑)、です。でも、日本語はそこまでで、また英語に戻って、それで、実は後期の試験でこんな目に合っちゃったと打ち明けました。でももう一回挑戦したいと話したんです。そうしたら彼は、とても同情してくれて、「I
can help you」と言ったんですよ。助けてやると。そういうところがあるんですね、アメリカ人というのは。チャレンジする者には手を差し延べるんですね。そういうとこがあって、わたしは追加でもワン・セメスターをとって、4科目取りました。フレッチャー教授を指導教授にJust
War Theoryをテーマにした論文、 ストロー教授を指導教授にBiblical Jurisprudenceというゼミ、ミルハウプト教授のLaw
and Economicsというゼミ、そして、ミルハウプト教授を指導教授としたNeoliberalism and Corporate
Governanceをテーマとした論文の4科目でした。後期と同じ4科目でしたが、でも4科目とれば、オールAでなくても、いくつかAマイナスがあっても卒業条件はクリアできますので、一か八かで4科目取ったんです。
こうしてまたコロンビアでの闘争が始まりました。確かにきつかった。とくに一学期で3本の論文というのはとても大変でしたし、ゼミでは、また同じですよ。アメリカ人と一緒になってディベートをするわけです。今度はもっともっと自分をアピールしないと良い成績がつかないと思っていましたから必死でした。自分がいちばん頭がいいんだということを前もって予習してアピールして、プレゼンテーションも自分で進んでやって、20分かけて自分のプレゼンテーションをしてアピールしました。どの科目も大変でした。でも、弱音を吐かずに、毎日毎日勉強しました。家族も応援してくれました。妻も息子も。頑張れってエールを送ってくれたのです。
わたしは相変わらず毎日セントラルパークを走ってます。それは変わらない。教会には行くようになって、8月にわたしはメソディストの教会で洗礼を受けていました。どうしてそこで洗礼を受けたかというと、たまたまウェブサイトで見たコラムがありまして、これはTheology
of Failure、失敗の神学とも訳しましょうか、後でお配りしますけれども、失敗そのものよりも、how to failが問題なんだ、どうやって失敗するかが問題なんだというコラムだったのです。gracefulなfailはない。でもgracefulにつながるような、open
to the graceにつながるような負け方というのは、failureの仕方というのはあるんだと。キリスト教というのは、クリスチャニティーというのは、tension
between Friday failure and Sunday successであると。金曜日の挫折、つまり十字架にかけられたことを言っています、それと日曜日の成功、つまり復活のことですが、その間のテンション、緊張感こそがクリスチャニティなのだと言うコラムなのです。ナザレンの人はfailureじゃないかと。結局ね。磔にされて。でもその後にSunday
success、復活があるだろうというコラムなんですね。わたしこれ感動しました。それですぐこの教会に行ってパスター…牧師さんにお会いして、いま洗礼してくれと。洗礼ってどうするんですか?聖書これ全部暗記しなきゃいけないんですか?とか、昔友達が教会に50回か60回通ったら結婚式ができるとか言ってたんで、教会に何回か通うんですか?とかいろいろ聞いたんですけれど、そしたらその牧師さんは「いつでも洗礼はできますよ。でも気持ちは整理ついているんですか。ご家族はどうするんですか」と。誰にも言ってないですよわたし。自分のワイフにも話してないです。でもいますぐ洗礼してくれ、もう生まれ変わりたかったんですよね。それで、結局、みんなの前で洗礼の儀式をし祝福されたほうがいいということで、そのときすぐは洗礼を受けませんでしたけれども、妻にもよく話した上で、1週間後に洗礼受けました。妻と子供に見守られて。まだ聖書はほとんど読んでなかったのですが、でももう、気持ちは準備ができてたんですね。洗礼を受けて、毎週日曜日に子ども、当時8歳の子どもを連れて行って日曜日毎週通って、バイブルスタディーにも出て、大学の勉強もして、それで半年間エクストラなコロンビアの生活を送りました。
しかし、その半年も平坦ではありませんでした。I can helpと言ったのに厳しいんですよ、あの先生(笑)。「何だ。これだとCだぞ」だとか言って脅すんですよね。どこを直せばAになるんですか、ということをやって、つまり論文を書くときに、その人の講座は論文の講座だったんですけれども、Aになるまで書き直したんですよ。Aになるまで4回ぐらい書き直したんです。しつこく、しつこく。でもフレッチャー教授は「またもってこい。」と言って拒まなかった。優しい先生でした。でもまだ試験の科目もありましたので、オールAなんて…最低オールAマイナスなんです。これはもう考えられない成績なんですけれども、でも不思議と何故かあまり不安はなかったのです。そして、忘れもしない結果の発表、Aマイナス2つとA2つ(拍手)。しかもBiblical
Jurisprudenceでわたしはジョージ・W・ブッシュとエイブラハム・リンカーンの比較論文を書いたのですが、これは2人ともWar
President、戦争大統領ということで、その大統領の比較をビブリカルな側面から照らしたオリジナルな論文書いたのです。そうしたら教授に「これ出版すべきだ」と言われまして、それぐらい評価を受けてそれはA取りました。そういうことで卒業条件クリアしたんですよ。信じられませんでした。
日本に帰国して
こうして私は日本に帰ってきました。ほんとうに大変な体験でしたが、わたしの人生が根本的に変わる体験でもありました。わたし洗礼を受けて、受ける前と受けた後、何が変わったのかと。確かにそういう形で逆境を乗り越えましたけれども、洗礼を受けた後も前とあまり変わってないんですよ、わたし自身も。まわりも。別にお金持ちになったわけじゃないし、宝くじが当たったわけでもない、仕事がたくさん来るようになったわけでもない、事務所のパートナーになったわけでも、まだパートナーになれないでいます。洗礼を受ける前、つまりアメリカに行く前と実はあまり変わってないんです。しかも結局1年半もかかってアメリカで勉強して、それでも司法試験というかBarを受ける機会も…チャンスも失って帰ってきました。ただ、わたしは、洗礼を受ける前と後とで1つ違うことは、やっぱり気持ちの中なんですよ。つまり、正しくなりたい。自分を常に正しく生活させたい。汚い言葉は口にしない。人を咎めない。裏切らない。約束は守る。困ってる人には手を貸す。ボランティアのような刑事弁護をやってますよ、いま。そういうこと考えると、わたし自身の環境や外見は全く変わっていないのだけれども、自分の中の気持ちが変わったんです。ただそれは、よくよく思い返してみると、実はわたしは検察官だったときもそういう気持ちはあったんですね。ただそれは、気がつかなかったんです。ここでは時間がないのでお話できませんけれど、いろんな事件やりました。中には悲惨な事件もありました。憔悴しきったご両親、犯人の御両親なのですが、彼らを毎日励ましていた「捜査」もありましたし、そのほかにもいろいろあります。人権を無視するような無理な指示を出す上司に対しては、猛烈に上司に抗議して、しかもその上の上司にも抗議して、捜査班から外されたこともあるんです。弁護士になってからはボランティアで刑事弁護を引き受けて、劣悪な環境下にあったイギリス人の刑事被告人の力になったこともありました。そういうことを考えると、実は、自分の気持ちの中にはGodというか、神様はいたんだなと思うのです。洗礼を受ける前から確かに神はわたしの心の中に存在していた。ただそれに気がつかないで、望遠鏡で空ばっかり眺めて、神様は一体どこにいるんだろうと探していたんじゃないかなという気がしています。どうして気がつかなかったんでしょうね。
そういうわたしが日本に帰ってきて思ったことは、日本から出る前にはクリスチャンではありませんでしたけれど、今度クリスチャンになって帰ってきました。いろいろ気がつくことがありますよね。もちろん、世の中を騒がしてる…子どもをビルの上から突き落としたり、簡単に子どもをわいせつ目的で殺しちゃったり、親を殺しちゃったり、自分の兄弟を殺しちゃったりという…心の中には神様がいるはずなのに、悪魔に身をゆだねてそういう事件を起こす。そういう大きな事件ばかりじゃなくて、小さなことでもそうです。どうして日本の教会のまわりには浮浪者はいないんでしょうか。ニューヨークでは、浮浪者がみんな教会のまわりに寝泊りしてます。朝になるとご飯が出てくるから。教会が施しを与えるからです。日本の教会のまわりはきれいですよね。どうして日本の教会のまわりに浮浪者がいないのかと思ったり、ホームレスの人たちが地下鉄の駅の隅っこで隠れるようにして寝て、みんな通行人のビジネスマンは知らんぷりして通っている。どうして手を差し延べないの、パンを買ってきてあげないの、とか思ったり。わたしはもうニューヨークにいるときに、癖になってましたからね。ニューヨークの地下鉄に乗っていると、たくさんいるんですよ、いまでもホームレスが。こういう紙コップに小銭を入れてチャリチャリ小銭をならしながら、give
me change, pleaseというような感じで電車の中をまわってるホームレスの人たちがたくさんいて、アメリカ人ももちろん無視する人が多いんですけれども、そういうふうに乞われたら、お願いされたら断っちゃいけないとお母さんが子どもに教えてる場面があったんですね。中にはいい加減なホームレスもいるんですよ。こんなに杖をついてびっこをひいて、change,
pleaseってやってて、駅に着いたら電車と電車を乗り移るってのにこうやって杖を肩に担いで元気にすばやく電車から電車に走って乗り移ってるホームレスがいたり(笑)。あと、夫から暴力を受けたという、今日、三十何回も殴られたとかということで助けてくれという女の人が、同じセリフを毎日いろんなところで言ってたり、というのに気づいたりと、いい加減なホームレスはいるんですけれども、たとえ騙す目的だったとしても、乞われたらほどこしをあげなさい、騙されてもいいからほどこしをあげなさいって、お母さんが子どもに教えてるんですよ。わたしはそれ、やっぱりクリスチャンの国だなと思いましてね。わたしもそういう癖がついてまして、ニューヨークの地下鉄の中で必ずわたしはホームレスが来たらお金、小銭あげてました。夜中わたしはもう2時3時まで図書館で勉強してましたんで、それで地下鉄で帰ったんですよ。2時3時に地下鉄。怖いんですけれどね。でもホームレスが来るとお金をあげてました。
日本に来て、いまオフィスは丸の内にあるんですけれども、丸の内の地下のところを通ったら、コンビニエンスストアの前にまさにホームレスの…汚れたぼろ布をまとった人が、お金を握り締めてコンビニエンスストアの前に入るんですけれども、一般客に触れないように、目に付かないように、一般客が出てからそーっと中に入ってって、おにぎり1つ持ってレジに行って申し訳なさそうにして俯いておにぎりを買うんですよ。それ見ていたらなんだか可哀想になって涙が出てきましてね、彼が出てきたときに、「おにぎり1個でいいの?もう1個買ったらどう?」ってわたし200円あげました。そしたら「ありがとうございました」って言って、喜んでました。喜んでもらえなくたっていいんですよ。わたし高田馬場で、切符買う自動販売機のところでおつり銭ばっかり探してる、それこそ杖ついて、目がもう白内障で真っ白になってるようなおじいさんがいて、客にお金をせびってるんですけれどみんな知らんぷりしてて、わたしは彼が「100円ください」って言ったんで100円あげましたけれども、「100円で足りるんですか」と言って200円あげようとしたら、もうわたしの手から奪うように100円を取って行っちゃいましたよ。でもわたし、それでもいいなと思って。そういう「善」をしようと思ったんです、わたし。これはなかなか恥かしがりやの日本人には難しいことなんですけれども、でも自分の気持ちの中にそういう神様がいて、神様に生かされているんだということとか、生きる目的というもの考えれば、それは恥かしいことじゃなくて、できることなんです。自分の心の中の神様の意思は自分に「こうしなさい。」と言っている、だからそのようにしようと思うようになったのです。そういう人が今の日本人に少ないですね。いつも思うんですよ。電車の中で前に子どもをこうやって抱っこして重そうにしてるお母さんがいるのに、ビジネスマンが、漫画の本をふんぞり返っていすに座って読んでいる。誰も席を譲ろうとしない。それは、わたしはアメリカに行く前には気がつかなかったんですけれども、クリスチャンになって帰ってきて目に付くことがたくさんあります。
最後に―光になりたい!
こういうことを今後わたしは、仕事の上で自分にできることは何かということを考えて生きていくつもりですけれど、わたしは光になりたいんです。わたしのプリンシプルは変わったんです。立身出世主義という小さな世界ではない。暗闇の中に入っていきたいんです。光というのは必ず暗闇に勝つ。これはパスターが言った言葉なんです。Light
always destroys darkness。だからわたしは、これからどうなるか分かりません。どういう生き様をするか分かりませんけれども、もっともっと暗闇に入っていきたい、自らすすんで暗闇に入り、光になって暗闇に打ち勝ちたいと思ってるんです。私は今弁護士をしていますが、いま気持ちの中で暖めていることがあります。いまはお話できませんけれど、いつかお話しできる日がくるでしょう。とにかく暗闇に自ら進んで入って光になりたい、そういう気持ちです。
最後にひとつ、奇跡をお話しして締めくくりたいのですけれども、大した奇跡ではないんですけれども、わたしの子ども9歳ですが、そういう今お話しした形でわたしに付き合わせて毎週日曜日ニューヨークの教会に通って、そこのサンデースクールなんかにも参加して、いろんなパスターやミニスターから教えを、キリストのお話なんかを聞いて、少しずつ親しみを持っていたようなんです。今、わたしは毎週青山にあります東京ユニオンチャーチに通ってるんですけれども、これも息子と2人で行くようにしてるんですね。2週間ぐらい前のことでしたね。申し上げておきますけれども、彼は日本語より英語のほうが得意なんですよ。イギリスに行ったときも向こうのナーサリーに行ってましたし、いまもインターナショナルスクールに行っているので。彼、チャーチに行くと、いつも何か知らないけれどわたしの横で英語の聖書を熱心に読んでるんです。絵のついた子供用の聖書ではありません。普通の聖書です。それを毎週、ぺらぺらとめくって読んでいる。無心に読んでいる。それで2週間ぐらい前ですけれど、息子がわたしに「お父さん、この英語の聖書、こんど買って」と言ったのです。これは、わたしは奇跡だと思いましたね。こんなわたし自身が立ち直っただけじゃなくて、その恵みがまわりの人にも広がっていくことがあるんだなと思って。わたしはバースデープレゼント…6月15日彼の誕生日ですけれども、バースデープレゼントに教文館に行って、英語の…日本語駄目ですからね。英語の聖書を買ってプレゼントしたんです。喜んでましたよ。これで毎日読めると。
ということで、大変、つたない話で、しかも長時間にわたってしまい、申し訳なく思っています。わたしがアメリカで経験したこと、そして神と向き合ったことをお話しさせていただきました。わたしはこれからどのような道に進むか分かりません。たぶん、弁護士として一生を終わることはないと思います。でも、常に忘れないことは、セントラルパークの光、そして辛かったことですね。そして、カーライルのフランス革命の原稿のこと、支えてくれた家族のことです。セントラルパークの光はわたしに勇気と、信仰と、再生を与えてくれました。カーライルはわたしに尊き生き方を示してくれました。家族はどんな状況にあってもわたしを理解し、励ましてくれました。これらのことはこれからわたしがどのような道に進もうとも決して忘れることはないと思いますね。わたしは、皆さんと一緒に、キリスト者として、光になって暗闇の中を照らしていって、ともに助け合って、少しでもこの祖国日本が良い国となるよう、世界の人々が幸せに暮らす日が訪れるよう、力強く歩いていきたいです。皆様の幸せを心から祈っております。ありがとうございました。ご静聴、感謝いたします(拍手)。
司会:ほんとにどうもありがとうございました。深く感動させていただきました。もう感動的なお話で、本当にためになるお話だったと思うんですが、いまこの熱いときに、ぜひお聞きしたいなとか、ちょっと質問したいなということがあれば、どうぞ挙手をお願いします。中村さん、質問されたらお答えいただけますか?
中村:ええ、もちろん。
司会:どなたかいらっしゃれば…。どうぞ。
(以下、省略)
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