「父の遺したもの」
日本ヒューレット・パッカード(株)
執行役員 人事統括本部長
兼経営企画室長
山田 貫司
(本稿は、インターナショナルVIPクラブ大手町の2006年6月の定例集会でのメッセージを簡潔にまとめたものです。)
こんにちは、今紹介に預かりました山田貫司です。本日はここ大手町VIPでみなさんと交わりのときを持てることを感謝いたします。私自身は1982年に結婚して以来、家内が教会員である東京の中目黒教会に毎週礼拝に参加していましたが、1990年にアメリカ在住の間に洗礼を受けるまで、ほぼ8年間教会で何を教えて頂いたか一切覚えておりません。主を信じて従ったストーリーに関しては別の機会にお話できればと存じますが、家内の美貴子の証しがVIPのWeb Siteに掲載されていますので、美貴子の視点を通しての神様の働きはそちらをごらんになって頂ければと存じます。
本日は、「父の遺したもの」という題でお話をさせて頂きます。
まず、聖書の箇所を一つ読みたいと存じます。
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたがこの世にこられるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(ヨハネによる福音書 11章25−27節)
1.手帳に書き写された聖句
昨年11月19日、父は6月以来入院中であった北里研究所病院の一室で86年6ヶ月の生涯を終えました。父は一昨年の初めに腎臓に不具合が見つかって以来、入退院・手術を繰りかえしていました。父は生まれてから、教会には私どもの結婚式のときに中目黒教会に来たのを含めて数回しか訪れておりませんでした。昨年の夏以降の我が家での毎日の祈りには、「父が信じて救われ天国で再び会えますように」との一言がいつもありました。
他界する1週間ほどまえに病室で家内の美貴子からの「イエス様を主として受け入れるか」の問いに対して、薄れていた意識の中、酸素マスクを付けながらも、力強く頷いて応えていましたが、言葉はもうはっきりと発音することはできませんでした。ですので、何時かは病床洗礼をして確信を得たいと願っていましたがそのときは訪れませんでした。
父の入院先の副院長をしている、医師である兄が19日は土曜で医事業務を休めるので家族全員で集まり、今後のことに関して相談する予定にしていました。当日急に様態が悪くなった父の臨終に際しては家族全員が病室に駆けつけることができました。葬儀をどこでお願いするかで議論がされましたが、父が遺書を残していないか確認しようということになり、父の身の回りを調べてみることにしました。まもなく父が毎年1冊ずつ書き続けていた手帳の日記が10年分ほど見つかりました。いまから5年ほど前の手帳のあるページに聖書の箇所を写しているのが見つかりました。いくつか他の手帳にも聖句が写されていましたが、最初に見つかったのが冒頭にあげた箇所でした。これを見て家族全員が父の信仰を確信し、中目黒教会で葬儀をお願いすることになりました。母も父が生前聖書を読んでいたことなど想像もしていませんでした。この後も財産や年金の書類を捜すために父の家を整理していたところ、キリスト教に関する本が何冊か出てきて、母や私どもを大変驚かせました。
2.築地での生活
父は母との結婚以来築地で商売をしていました関係で、わたしが育ったのは築地市場の場外の活気のある卸問屋の町でした。家の裏はすぐに築地川でしたが、当時公害対策は全く出来ておらず、1960年くらいのおこりましたチリの大地震のときは、太平洋の向こう岸から渉ってきた津波で、川底の汚泥がかき回され、しばらく悪臭が漂っていたことを覚えています。木造3階建てで一階は店舗、事務室、それに我が家の玄関。二階は家族の居室で廊下の反対側には住み込みの店員さんたちが寝泊りしていました。父は毎日朝早くから働いていましたので、他の家族とは別の一人6畳間で寝ていましたし、高度成長期でもあり多忙で夜も帰宅が遅く、ほとんど顔を見ることはありませんでした。年末になると我が家の玄関には天井までお歳暮向けの新巻シャケの箱が一杯になり、大晦日には紅白歌合戦が始まるころにようやく店の掃除がおわり、父が帰宅した記憶が残っています。父が働いていた店は、母方の祖父が戦前に始めた商売で、母は7女1男の五女として生まれ、母の下に出来た私の叔父である弟は年が離れていましたので、伯父が成長したあとは、「のれんわけ」をして独立する予定であったと聞いています。しかし、これは事情があり適いませんでした。母方の祖父が若い時期に福井から出てきて夫婦で商売を創め、冷凍技術が広まったころ「たらこ」を冷凍にすることを思いつき、季節以外にも食卓にあがることを始めたりして次第に商売を大きくしていったようです。第二次大戦終戦から1年ほどたって東南アジアから帰った父が故郷の八王子で進駐軍のジープに乗って幅を利かせているのを心配した親戚が母方の祖父に父を紹介されたようです。食糧管理制度の緩和、高度成長期にあって、父は関東周辺までのデパートや、駅ビルの「暖簾街」に出店して商売の発展に貢献しました。
3.父へ未返済の借金
父は二人の子供を一貫教育の私学に通わせて、教育の大切さに関してはいつもうるさく自説を唱え、仕事場では高度成長期に集団就職で地方の中学校から就職した店員を夜学に通わせ、その後の高学歴化の時代に合わせてその後高校卒の採用を始め、以後には水産大学卒を採用するようになりました。一方で金銭にも厳しく、金持ちの親を持つ同級生とは違った対応で、私がスキーに行きたいときなど月次の小遣い以上のお願いをすると、借用証書を書かないと資金援助をして貰えませんでした。それらの証書も決して無くすことなく、いつでも自分の手帳に大切に保管して、次ぎの借金願いのときには以前のものを見せてから受け付けてくれました。兄は大学時代スキー部に属して多くの借用書を書いていたようで、中には勉強のための医学専門書の購入代金に関するものもあったと記憶しています。わたしが40歳近くになってからクリスチャンになったのも父の教育熱心さで評判の良かった築地・明石町にありますカソリック教会付属幼稚園に通わせたことが下地になったと信じています。父へ返済していない借金の額は具体的には覚えていませんでしたし、探しだした10年分の手帳の束からも借用書は兄の分も含めて一切出てきませんでした。借用書が出てきたとしても今となっては返済しようもありませんが、気がかりとなっているのは、借用書を書くことが無かった「借り」です。家族伝道は一番困難といわれ、よくイエス様がふるさとでは聞かれないといった福音書での記事が引き合いに出されますが、自分が信じて教会の役員を引き受けたり、CSでリーダーになったり、いろいろの場所で「証し」をさせて頂いているにもかかわらず、父が生存中に真剣に聖書の話を面と向かって出来なかったことです。
4.母の「希望のメッセージ」
父が亡くなった病室に親族が集まって、父の自室で見つけた手帳をみんなで読んでいるときに、わたしの姪に当たる孫の一人が目に涙を浮かべていると、母が「何か悲しいことでもあるの?」と聞いて周囲をおどろかせました。また母が「おじいちゃんは天国に行ったのよね。」と確認するように何回も繰り返して言っておりました。冒頭ご案内したとおりわたしはアメリカの教会で洗礼を受けたこともあり、アメリカで出会った方の教会での葬儀に参列させて頂いたことが何度かあります。キリスト教のいろいろの宗派の教会での葬儀・礼拝に参列しましたが、その中でどの葬儀でも共通であったのが牧師先生の説教題でした。それは「Message
for Hope」希望のメッセージです。「イエス様を主として受け入れ、教えに従って生きる」決心をしたクリスチャンの皆さんには、「永遠の命」が授けられ、この世の時間を終えたあとは天国に行くことができます。葬儀は この世に残っている家族や友人にとって悲しい別れですが、クリスチャン自身は「主の御許にいける希望」が達成される瞬間であり、その場で語られる説教は希望の証しです。残された者たちにとってはいずれ天国で再開できる希望が与えられるのです。
5.母の救い
さて、大変嬉しい話ですが、今年のイースターに母が洗礼を受けました。父の招天の後、父の遺産の整理、恩給、年金の手続きなどで大変忙しい日々を過ぎて暫くして寂しさが来るまもなく、教会の婦人会の方たちが大変親身になって声を掛けてくださり、いつの間にか婦人会に入っておりました。そして父の生前には隔週にしか通わなかった日曜の礼拝にも毎週来るようになり、牧師の導きもあり、イースターに授洗させて頂くことができました。これは大いに喜びであります。
6.今職場で、(ヨハネによる福音書6章27節)祈りのリクエスト
本日お話させて頂いた内容の原稿は教会の会報や、4月の宇都宮VIPでの講演のために使いましたので、出張中の空き時間を見つけて書いていました。昨年の9月までは会社でアジア・パシフィック担当でしたので、それまでの2年間毎月半分以上の日数東京に居ない状況でした。家族と離れて独りになる出張中は毎朝聖書を読み、祈りのノートをつけています。最近、ほぼ半年振りに祈りのノートを繰ってみると、教会へ来られる方々の事、父の事、職場の案件など、幾つも祈りに応えが与えられていることを改めて認識させられました。私自身も50台半ばに近づき、サラリーマンとして規定に定められた退職の年が視野に入ってくる一方、業界の競争が激しくなるなか会社の変化も更に早く、そして変化の度合いも激化してきています。出張で出歩いている間も10年前のように容易に疲労が回復しないですし、毎年の健康診断の結果にも治療の必要な項目が増えてきています。仕事場において責任を感じ、つい長時間ストレスが常に掛かった状態で働いているのが主の目に適っていることなのか迷うことがあります。昨年の9月に会社内の組織変更(リストラ)で、出張旅行の多い仕事から解放されて、11月に父が他界するまでの間の時間を与えられたことは主のご計画であった事と感謝しております。今、父が手帳に書き写した聖書の箇所の幾つかを思い起こしながら、父の召天を通して主の語りかける言葉を探しています。
人事という仕事をしておりますと、社員の個人的な問題に触れることも多く、わが社は正社員だけで5600名が国内で勤務しておりますので、統計的に発生する割合であらゆる事故が起こり、対応いたします。そういったとき、仕事の優先順位を変えなくてはいけなかったり、社員ばかりでなく、そのご家族、あるいは時に弁護士などとも対応をしていると、「自分の思い通りにならないこと」対していらだつ自分を見つけています。
最近、米国の教会で一緒だった方に勧められてiPODを購入しました、友人が教会に蓄えられている何千という説教の録音集を送ってくれ、毎朝の散歩のときに、これに入れて聞いています。いまはヨハネによる福音書の連続講義を聞いていますが、先日6章の27節のところの説教を聴いていて、この困難なときを主がどうして用意しているかに関して考えてしまいました。「朽ちる食べ物のためでなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とイエスが言われている箇所です。わたしどもの教会の今年の年間聖句が、マタイによる福音書の4章4節から「人はパンだけでいきるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」でしたので、なお考え込んでしまいました。
職場で社員とその家族に大変厳しい局面が来て、人事の責任者として対応しているときも、「朽ちる食べ物のため」に働いているのではないかと自分を責めてしまいます。賞罰委員会のメンバーでもありますので、時に大変辛い結論に賛成しなくてはならないこともあります。わたし自身の心の平安はこうした決断が主の目に正しいものでありますよう祈ることによって緩和されますが、社員とその家族に対して本当に「朽ちないで、永遠の命に至るたべもの」のことに関して少しでも伝えていけることができているのかと考えてしまいます。時には伝道を出来るかと思っていた社員が事件に巻き込まれる事もあり、自分の職場で主が与えている役割に関して、何度もこの聖書の箇所を読み返しています。
父の葬儀を中目黒教会で執り行って頂いたことは、職場にわたしの信仰を伝えるのに大変良い機会となりました。前夜式と、告別式には職場から多くの同僚、部下、ほかの職場の方に来て頂き、父の救いのこと、牧師の説教「Message
for Hope」を聞いて頂けたこと、そして讃美歌を一緒に賛美して頂けたことはとても感謝です。
これからも職場において、語られている言葉が明らかになり従う事ができますよう、皆さんのお祈りに加えていただければ幸いです。
静聴ありがとうございました。