ジンバブエで出あった人々
上田 奈生子
(本記録は2003年3月初旬にVIP青山にてお話させていただいたものの要約です。なお、以下は、お話しさせていただいた本人の純粋に個人的な立場からのエピソードであり、本人が所属する団体とは関りがありません。)
1.日ごろからお世話になっている多くの方には帰国報告という形になりますが、はじめてお目にかかる方々も、本当にようこそいらしてくださいました。
2.私は1999年10月から昨年5月まで2年半と少し、仕事でアフリカの南東部ジンバブエに住んでいました。着任当時はまだ「アフリカのスイス」と言われるに相応しい活気がありましたが、その後、国内の政治経済状況が急激に悪化し、特に都市と近郊の人々は一日一食が通例という厳しい生活水準でした。インフレは3桁で、国民の半数以上は失業し、人種間の対立、政治的暴力や脅迫が煽られる等、問題山積でした。政府与党だけを責めるわけにもいきませんが、国全体が急降下している事実からは目のそらしようもありませんでした。私の通っていた教会では真剣に人種間の和解の祈りがささげられており、実際に和解が成立した場面に何度も出くわしましたが、その一方で、教会員の白人農主が突然殺されるなどのむごい事件もありました。しかし、そこで出会った普通の人々、普通のクリスチャンの中に、外部的環境によらない希望と平安がしっかりと根付いていることを目の当たりにして、「ジンバブエのクリスチャンは筋金入りだ」と私は舌を巻きました。失業し、経済的な搾取や政治的な暴力の被害者となり、拷問され、あるいはバス代にも事欠き、子供の学費を払えず、あるいは明日はエイズが発病するかもしれないというような外部的環境の中で、にもかかわらず幼子のように底抜けに明るいジンバブエのクリスチャンを通して、キリストの神様は、逆境の中にある人々にさえも希望と平安を与える神様であることを実感しました。
3.今の日本は、経済的困難を抱え、また社会的にも先行き不透明で不安にかられる時代にあると思います。例えば、終身雇用を頼みに住宅ローンを組んだのに景気低迷で失業したり、昨日まで会社社長だったのに今日はホームレスになってしまったりすることも例外ではなくなっています。起業家の人たちは今こそチャンスの時代だなどと言いますが、多くのサラリーマンにとって、今の日本は厳しい状況です。家庭や職場での複雑な人間関係、経済的な不安、自分や家族の心身の健康問題、お年寄りなど社会的弱者への配慮のない風潮、いじめや引きこもりの問題、窃盗や異常犯罪の増加、テロの問題、あるいはもっと漠然とした将来への不安や心の隙間に入り込む誘惑もあるかもしれません。先行き不透明なこの混迷の時代、私たちは、もしかしたら、ジンバブエの人たち以上に心の平安を必要としているのではないかと思います。それも、自己満足的な平安ではなくて、神様の大いなる業に期待する希望を必要としているのではないかと思うのです。私たちが「全てを働かせて益としてくださる全能の神がともにいる」という確信を持つことさえできれば、どんな嵐が着ても、大船に乗った気持ちでいられるのではないでしょうか。
4.でも、どうやったら、「全てを働かせて益としてくださる全能の神がともにいる」という確信を持つことができるのでしょうか。ジンバブエの人々は、それがとてもシンプルなことであると教えてくれました。
(1)まず、「どうせ世の中なんてこんなもんだろう」「もし神様がいるなら、どうしてこんな不合理を許されるのだろう、神様は沈黙しているのだろう」などというような懐疑的で投げやりな気持ちになるとき、その気持ちを直接、創造主なる神様にぶつければよいと知りました。神様が本当におられるなら、直接答えてくださるはずです。ジンバブエの人たちは、聖書を片手に、そういう気持ちも祈りを通じて素直に神様にぶつけていました。そして祈りの最後に、(聖書の該当箇所を指差しながら、)「神様、あなたはみ言葉で○○してくださると語っています、だから必ず○○してくださると信じていますよ!お願いします!」と締めくくるのです。真剣勝負のお祈りです。神様は、聖書は神の言葉であり神ご自身であると言っておられるのですから、この最後のせりふは神様との関係ではキメ台詞となります。
(2)次に、「私はどうしてこの程度のことで挫折するのだろう、人と衝突してしまうのだろう、どうして聖書でいけないと言われていることをしてしまうのだろう」「もうこんな情けないことなら、クリスチャンなんてやめてしまいたい、クリスチャンである前に人間として情けない」などと弱気になってしまったとき、私たちは、自分に目を向けるのを止めて、自分を作ってくださった神様の偉大さに目を向ければよいと分かりました。折角、神様がわたしたちを力強い巨人に創ったのに、私たちが自分のことを「いなご」のようなちっぽけな存在だと思い込んで卑下してしまっては、勝てるべき戦でさえも勝負する前に負けてしまいます。この話は、旧約聖書にも出てきます。
(3)それから、クリスチャンの場合、自分の罪や重荷を全てイエス様の名によって許していただいたら、つまり、悔い改めて十字架につけますとお祈りしたら、後はくよくよ心配したり後悔したりしないことが鍵だと知りました。神様のみ手におゆだねするのです。ジンバブエでも、まだクリスチャンとしての確信を持っていない男性から悩みを相談されたことがありました。「私は独立戦争で止むを得ず人を沢山殺してきたが、それでも許されるのだろうか。天国に行けるのだろうか。」何をしたか、しなかったか、が大切なのではありません。誰の前に悔い改めたか、誰に許していただいたかが大切なのです。
(4)そして、シンプルであることの大切さを知りました。私自身は、クリスチャンになる前は創造主を認めずに自分勝手な方向に進んでいたことにより、また、クリスチャンになった後も自分の弱さにより罪を犯してしまったことにより、人を深く傷つけてとても自分では償い切れないほどのこともありました。傷つけられた相手の方にとっては虫のいい話かもしれませんが、そうやって大切な人を傷つけてしまって、それでも、去年よりは今年、そして昨日よりは今日、より汚れの少ない、罪を犯さない者に変えられていくことを今は信じています。なぜなら、イエス様は、ご自身が十字架にかかって私のあらゆる罪を許して私を無罪放免にしてくださっただけなく、私のために神様にとりなしてくださり、私がもはや罪を犯さないように守ってくださるからです。勿論、今でも、毎日のように自分の罪の問題や試練に直面します。しかし、イエス様を心に迎えることにより、罪のために神様との間に立ちはだかっていた隔たりの壁から自由になって、素直に弱いままの自分を神様の前にさらけ出すことができるようになりました。だから、今では、幼子のように飛んだり跳ねたり、大きな声を出して神様を賛美することが楽しくてたまりません。これは、十字架の赦しを受け入れた人の全てに与えられる自由であり、大胆さです。毎日、聖書のみことばを受け取り、イエス様の名前によって祈り、周りの人々とともに神様を賛美することを通じて、生ける水を受け取り続けること、そういうシンプルな信仰を毎日継続することの大切さをジンバブエの仲間たちは教えてくれました。
5.ジンバブエ赴任前の私は、恵まれないアフリカの人に福音を伝えてあげようというような妙な気負いさえ持っていましたが、ジンバブエで出会った人々は、教会の朝祷会の場でも、友人の職場での昼休み祈祷会の場でも、道端で生活する体の不自由な大人や子供達への食料配給活動の場でも、そのほかどこの場でも、後姿で多くを語ってくれました。道端で食料を分け合った目の見えない女性は、私から食料を受け取った瞬間、大声で現地の言葉でイエス様を賛美しました。祈祷会で一緒だった友人たちは、オフィスの部屋の端から端まで踏みつけながら、主のご加護を真剣に求めて祈りました。ジンバブエの「信仰の巨人たち」は、バス代も払えず貧しいかもしれない、エイズを患っているかもしれない、でも、幼子のように神様を信頼しています。その姿に触れたとき、私自身が変えられるのを感じました。何だか、それまで神様の前に自分が被っていたよろいのようなものがはがれ落ちて、自分でも不思議なほど、体が軽くなるのを感じました。聖歌隊では、入会初日にKiss(チュー)とHug(抱擁)攻めに会い、挨拶も「こんにちは」の代わりに「ハーイ、美人ちゃん!」(どんな顔でもお互いにそう挨拶する)で迎えられました。彼らの型破りの歓迎に、緊張がすっかりほぐれたのを思い出します。彼らは、自分の思いや感情ではなく神様を絶対的に信頼していたので、強盗にあったり困難に遭遇しても、その不安も悲しみも憤りも全部、神様に正直に打ち明けていました。決してシニカルにならずに、最後まであきらめることをしませんでした。
6.ここまで聞いて、「そう簡単にいくのだろうか」と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。大体、心の平安などというものは一種の麻薬みたいなもので、現実の問題解決には何ら役立たないと思われるかもしれません。しかし、キリストの平安は麻薬などではありません。そもそも、私たち現代人は、物事を難しく考えすぎです。私たちの直面する日々の問題という目に見える現実のほかに、キリストによる目に見えない現実が存在することを、私はジンバブエでの滞在を通して、深く知るようになりました。キリストが十字架上で私達を赦してくださったことにより、私たちはいかなる者であっても神様を父と親しく呼べる、これは見えない現実です。しかし、この見えない現実こそが、目に見える現実を動かす原動力となっているのです。主イエス・キリストによる平安は、それ自体が力を持つものです。必要であれば、エピソードもご紹介できるほどです。勿論、イエス様がともにいてくださっても、人間社会である以上、争いは存在します。クリスチャンだからといって温厚な人ばかりではないし、特に私などは人と対立してしまうことがよくあります。しかし、争いや諍い、中傷や誤解やそれ以上の大きな問題が起きても、荒波や台風の中でも、キリストによる平安を頂いた者は、その平安の力によって、その人を通してキリストの平和がその人だけでなく、まわりをも平安で満たしていく(たとえ、今すぐにそうならないとしても)ことを、ようやく知るようになりました。まるで、結婚式のときグラスからあふれ続けるシャンパンのように、キリストの平安がまわりにあふれ出します。そして、神秘的なことに、それは、本人が神様を全面的に信頼したときに起こることであって、本人の努力によるのではないのです。
7.この世の中が先行き不透明な現在、私たちの心の奥に向かって呼びかけて下さる神様の静かな御声を聞き分けることさえできれば、そして神様を信頼することさえできれば、私たちは、平安と和解の力、エネルギーでみなぎることでしょう。たとえ身体は病気でも、心が風邪をひいていても、力とエネルギーがあふれ出します。手に入れるのにお金はいりません。とても高価ですが、ただなのです。それを受け取った自分を、今、心から幸せ者だと感じています。御静聴、ありがとうございました。
(了)